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第五話 春の膳 はじまり直す春浜(5)

 ミロは浅い泥の上でしゃがんだ。

 二歩先で、別の子が大きな貝を両手にのせた。

 殻の内側が桜色に光ると、ミロは籠の持ち手を強く握った。

 ミロは動かなかった。ノラに言われた浅い泥の上で、籠の持ち手を握っている。


「ここでいい?」


「そこを掘ってみて」


「ほんとに出る?」


「指に当たったら」


 ノラは足元の泥を指で押した。


「当たらなかったら?」


「そこは空っぽ」


「姉ちゃん、知ってるならはっきり言ってよ」


「浜は、私の言うことを聞かないよ」


 ミロは籠を膝の横へ置き、それから泥に手を入れた。

 冷たい泥が、指の間へ入る。


「うわ、冷たい」


「嫌なら戻る?」


「嫌じゃない」


 ミロはむきになって、指を第二関節まで入れた。


 最初に出てきたのは、丸い石だった。


「これは貝なの?」


「丸すぎる。石」


「知ってるけど」


「じゃあ、籠に入れない」


 次に出てきたのは、割れた殻だった。その次は、指の先に乗るほど小さな春貝だった。


「これは戻すの?」


「指に隠れるでしょ」


「これも小さい?」


「来年、指にごつんと来るまで砂の中」


 ミロは小さな春貝を、そっと波の届く砂へ押し戻した。

 押し戻したあとも、湿った砂から指を離さず、表面をならしている。


「来年、俺が取っていい?」


「来年も小さかったら戻す」


「じゃあ、いつ食べるの」


「大きくなったら」


「春貝、育つの遅い」


「春貝は急がないよ」


 ミロは泥のついた指を曲げた。


 ノラはミロの手元へ膝を寄せていた。


 ミロは、石をつまむと脇へ置き、割れた殻を出すと泥を強く払った。

 小貝を戻すときだけ、湿った砂が殻にかぶるまで手を止めた。

 殻が隠れてから、指を離した。


 それでも、ミロは次の貝へ手を移さなかった。


 ミロは、砂から離した指をすぐには伸ばさなかった。

 ミロは空になった親指と人差し指をこすり、もう一度、戻した場所の砂をそっと押さえた。


 小さな貝は、砂の下へ隠れる。

 ミロの指先は、砂が平らになるまでその場所から離れなかった。


「来年、分かるかな」


「分からないよ」


「じゃあ、どれが俺のか分かんない」


「今は、ここだけ指の跡で砂がやわらかい」


「見えないよ」


「指で押したからね」


 ミロは泥のついた指を自分の前で広げた。

 ミロは、戻した貝のあたりをもう一度なぞった。浅い筋が、砂の面に残った。


 ノラは、ミロがなぞった砂の筋に指を添えてから言った。


「次は、桶へ持って帰る方」


 ミロの指先は、砂の中へ戻した小さな貝の場所でまだ止まっていた。

 砂の面は平らに戻り、貝の丸みも殻の縁も隠れていた。

 けれど、ミロは指の腹を曲げたり伸ばしたりしていた。砂の中の小さな重さが、まだ指先に残っている。


 その横で、別の子が叫んだ。


「見て! 光ってる!」


 近くの子どもたちが膝を浮かせ、籠を同じ方へ向けた。殻の縁が桜色に光っている。


「あれ、いいな」


「春貝の当たりだ」


「ミロ、見に来いよ!」


 ミロが立ちかける。

 ノラは返事の代わりに、ミロの籠の底をかたりと鳴らした。

 かたり、と籠の底で貝が鳴る。

 ミロは足を止めた。


「……後ろから一回だけ」


「その一回で、深いところへ踏み出す」


「ここからだと遠い」


「今は、あんたの手の下」


 ノラは泥を指した。

 ミロは渋々、もう一度泥に手を入れた。


「光ってない」


「うん、光ってない」


「大きくもない」


「まだ何も出てない」


「つまんない」


「じゃあ戻る?」


「まだ戻らない」


 ノラは、ミロの手元へ膝を寄せた。


 左の穴で別の子が「見て」と叫んだ。

 右では、隣の子の籠が膝に当たって鳴った。

 波が泥を薄く叩き、古い鐘の余韻が耳の奥でまだ揺れている。


 ノラの手も、ミロの横で泥の上に止まった。


 泥の中で、ミロは手を止める。

 手首はすぐに跳ねない。

 ミロは指の腹で、泥の下の固いものをそっとなぞった。

 さっきまでなら、石や殻に触れた途端に騒いでいた。

 今は指先に当たる固さを押さえ、隣の籠が膝に当たって鳴っても泥から手を抜かない。


 ノラは膝の横で濡れた布を握った。

 ミロの爪の下で、泥が爪の幅だけ盛り上がる。


 指先に固い丸みが当たる。石より丸い。割れた殻より重い。押すと、爪の幅ほど逃げる。


 ミロはそこで止まった。


「……ここにいた」


 ミロは泥の上へ身をかがめた。

 ノラはしゃがみこんだ。


「強く引かない」


「強く引くと割れる?」


「強く引いたら割れる」


「どうするの」


「横から。泥を横へ逃がして」


 ミロはもう桜色の貝へ体を向けず、籠も引き寄せなかった。

 指で泥を横へ逃がすと、貝の縁が泥から出る。大きくも桜色でもない殻の片側に、小さな欠けがある。

 それでも、殻は割れていなかった。

 ミロは両手で泥ごとすくい上げた。


「俺、自分で掘れた」


「うん、掘れた」


「俺の手で掘った?」


「うん。あんたの手で掘った」


 ミロは貝を両手の上で止めた。泥がつき、欠けたところに砂が入り、さっき光った桜色の貝よりずっと地味だった。


「手の中だと小さい」


「汁に入ったら、貝の味が出るよ」


「端が欠けてる」


「欠けてても、割れてない」


「これ、食べられる?」


「布の下でかちかち鳴ったらね」


 ミロは殻の欠けたところを親指でなぞった。


「今すぐ食べるのはだめ?」


「今すぐだと、奥歯に砂が当たる」


「じゃあ、明日?」


 ノラは籠の底をかたりと鳴らした。


「明日まで長い」


「足が冷えるよりは短い」


 ミロは泥のついた親指で欠けた縁をこすった。けれど、貝を放り出さなかった。

 ミロは春貝を籠の底へ、そっと入れた。

 かたり。

 小さな音だった。泥の上で鳴る籠より小さい。鐘の音よりずっと小さい。

 ミロは籠の縁を握り直し、貝がもう一度鳴らないか耳を寄せた。

 リュカが泥の固いところに立つと、籠の底で春貝がかたりと鳴った。


「籠に入れたな」


 ミロは籠を胸へ寄せた。


「明日まで持ってく」


 籠の底で、春貝が一度だけ鳴った。

 ノラの指が、籠の縁で一度止まった。


 ミロの膝の前で、さっき掘った穴が水を含んで丸く崩れていく。

 足跡の縁も浅くなり、掘りかけの貝は砂の下へ沈んだ。

 籠の底の春貝は、泥をつけたまま動かなかった。

 そのとき、沖でまた白い泡が集まり始めた。

 泥に手を入れていた子どもたちが先に止まった。


「沖に渦が来た!」


「また浜が戻るぞ!」


「大きいの、出ろ!」


 父親の一人が腰を伸ばす。旅人が泥から靴を引っ張り出し、片足で跳ねながら叫んだ。


「待て、まだ靴が!」


「靴より貝だ!」


「おれは靴がいる!」


 旅人の足元で籠が鳴り、父親は掘り具を泥の上に伏せた。

 ミロも、鐘の音に引かれて膝を浮かせた。

 白い輪が回り、浜がまたなめらかになった。

 近くの子どもたちが次々に籠を持ち上げる。ミロも走りかけた。

 けれど、籠の中で、さっきの春貝がかたりと鳴った。


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