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第五話 春の膳 はじまり直す春浜(4)

 ミロはもう走っていた。籠を片手に、泥を跳ね上げながら、さっきより沖寄りへ向かっている。


「ミロ! 浅いところ!」


「そこは、さっきまで水だった!」


「今はもう泥だよ!」


「屁理屈を言わない!」


 ミロの足元で籠が鳴り、別の子が小貝を波の方へ運ぶ。

 泥だらけの子たちは「これは来年」「これは今年」と呼び合っていた。

 宿の方から来る春貝の汁の匂いが風に混じるたび、白い泡はまた沖で集まりかける。


 ミロが走って戻ってきた。籠を胸の高さへ突き出す。


「籠の中、見て」


 春貝がいくつか入っている。さっき殻の内側が桜色に光った春貝も混じっていた。


「それは入れすぎ」


「まだ入るから」


「腕、下がってる」


「下がってない」


 そう言ったミロは、籠の重さで手首を沈ませていた。ノラは籠を持ってみた。


「けっこう重い」


「重くなんかない」


「じゃあ、片手で持って」


 ミロは片手で持とうとして、すぐ両手に戻した。


「泥で滑っただけ」


「重いんでしょ」


「泥のせいだよ」


「何でも泥のせいにする」


 ノラはそう言って籠を返した。そのとき、ミロが鼻をすすった。


「足、冷えてるの?」


「寒くないよ」


「鼻、すすってる」


「それも潮のせい」


「潮は鼻をすすらない」


 ミロは答えず、また浜の方へつま先を向けた。

 ノラがミロの袖をつまむと、泥水が一滴落ちた。

 濡れた上着の袖は腕に貼りつく。

 足首の布も泥水を吸って重く、足の指は泥の中でこわばっていた。

 渦のあと、足元の穴は消えていた。

 ミロの手首からは、泥水がまだ一滴ずつ落ちていた。


 泥の上で、布を引く音と足を引きずる音が混じっていた。


 子どもたちは渦のたび、泥の上で足を跳ねさせて「もう一回」と叫んだ。

 濡れた布が足元へ落ち、帰りかけた子は空の籠をまた胸へ抱えた。

 母親は、布が肩にかかる前に手を止めた。


 ノラの指先に、ミロの袖の冷たさが残った。


 母親の一人が、子どもの肩に布をかけようとしている。子どもは渦の方へ身をよじり、隣の父親も籠を持ち上げかける。

 ノラは布を握り直した。

 泥の中で丸まった足指の横を、波が薄くかすめる。籠を持つ腕は、さっきより低い。


 湯沸かしのそばの男が、遠くから叫ぶ。


「足洗い湯、今ならまだ湯だぞ!」


 けれど沖で白い泡が寄ると、戻りかけた足跡がまた浜へ折れた。

 ノラはその冷たさを、布ごと握り込んだ。


「ミロ、一回止まって」


 ミロは籠を胸に寄せた。


「なに、姉ちゃん」


「一回戻ろう」


「まだ戻りたくない」


「その足、湯のところまで戻そう」


「まだ掘れる」


「まだ掘れるよ」


 ノラは、そこは否定しなかった。


 穴は埋まる。足跡も消える。けれど、ミロの足指は冷えたままだった。


「その足で、もう一度走るの」


 ミロは口を閉じた。


 近くでは、旅人も泥のついた足を振っていた。片方の浜履きは腰の荷紐に結んだままだった。


「あなたも戻った方がいいです」


「おれも戻るのか?」


「浜履きより先に、足の感覚がなくなります」


 旅人は自分の足を泥から持ち上げ、一歩浜端へ戻った。


 ノラは、まだ走ろうとしているミロの籠の縁へ指をかけた。


 春貝は濡れた籠の底で鳴っている。けれど、ミロは籠の縁ばかり握り、殻には触れない。

 騒ぎの中で入った貝は、ミロの爪の泥を増やしていなかった。

 手のひらにも、泥の中から持ち上げた殻の跡がない。


 ノラは濡れた布を持つ手を一度止めた。けれど、籠の底で貝がかたりと鳴った。


 足首の布は濡れ、片方の膝が一拍遅れて上がる。

 それでもミロは籠を抱え直し、また干潟へ踏み出した。


 ノラは濡れた布を握り直した。


 ミロはまだ足を止めない。

 ミロは冷えてこわばった足指で泥をつかみ、腹のあたりを一度押さえた。

 それでも、ミロは干潟のへこみへつま先を向けていた。

 浜端では、足洗い桶の湯気が白くほどけている。


 ノラの足指にも、昔、桶の前で母の手につかまったときの痛みがじんと立った。

 平気だと首を振った日に、春貝の湯気が頬へ当たった痛みだった。

 爪の間に残った砂。腕から抜けない籠の重み。椀を持つと落ちたまぶた。

 そのあいだ、掘ったばかりの貝は桶の底でかたかた鳴っていた。

 宿の入口まで、砂の筋と湯気が続いていた。


 足洗い桶の前には、戻りかけて折れた足跡ばかりがついていた。


 ノラは、浜の端に並ぶ足洗い桶へ体を向けた。

 湯沸かしのそばで、男が湯を足している。

 白い湯気が細く立ち、桶のそばの足跡はどれも途中で浜へ折れ返っている。


 ミロの籠の中で、貝がかたかた鳴った。

 ミロは、その籠の縁を白くなるほど握っていた。

 空いた指には、まだ掘り当てた泥がついていない。

 ミロはもう沖の方へつま先を向けていた。


 ノラはしゃがみ、ミロと同じ高さになった。


「ミロ、聞いて」


 ミロは籠を胸に寄せた。


「なに、姉ちゃん」


「次で一つ、自分の手で掘り当てな」


「大きいやつ?」


「大きくなくていい」


 ノラは濡れた籠の底を指先でかたんとたたいた。


「縁が桜色のやつ?」


「桜色じゃなくていい」


「じゃあ、何を掘るの」


「籠で鳴らして帰るやつ」


 ミロは籠の縁を握り、底を一度揺らした。

 泥のついた籠の編み目の間で、春貝がかちりと鳴った。


「今食べないの?」


「今夜の椀にいるのは、昨日、布の下でかちかち鳴ってた貝」


「俺のはいつ食べるの?」


「布の下でかちかちして、砂が底に落ちたら」


「明日まで待つの?」


 ノラが籠の底を指先でかちりと鳴らすと、ミロは籠を胸へ引いた。


「それ、ずるい」


「まだ底に砂が落ちるうちは、椀に入れない」


「それは嫌だ」


「なら、今の貝は明日の椀。ミロの一つは、まだこれから」


 ノラは、ミロの空いた指を見た。爪の泥は、貝を持ち上げた泥ではなかった。


「俺の一つは、まだないの?」


「足を洗う前に、一つだけ探そう。浅いところで、自分の手で掘るんだよ」


 ミロの足先が渦の方へ向きかけた。それから、籠を抱えたままノラへ体を戻した。


「掘れたら戻る?」


「持って戻る」


 ミロは籠の持ち手を親指で押した。


「姉ちゃんも?」


「私も一緒に戻る」


「姉ちゃんも足、洗う?」


「足もちゃんと洗う」


「じゃあ、俺も洗う。これを掘ったら」


 ミロは籠を胸の高さまで持ち上げた。けれど、籠を強く抱えていた。

 沖でまた、白い泡が寄り始める。

 泥のついた両手があちこちで上がる。父親が籠を持ち上げる。旅人が浜履きの紐を締め直す。


 ノラはミロの肩に手を置き、足洗い桶ではなく浜端の浅い泥へ連れていった。

 白い輪が回っても、ミロは籠を足元に置いたままだった。

 持ち手だけが泥の上でかたりと揺れた。


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