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第五話 春の膳 はじまり直す春浜(3)

 子どもは春貝を胸の前で一度止め、それから籠へ入れた。

 胸の前の貝が、籠の底でかちりと鳴る。

 その横で、旅人が泥に足を取られて、片方の浜履きを失くした。


「あっ、浜履きが」


「浜履きが採れた!」


 ミロが叫ぶ。


「食べられないやつ!」


 子どもたちがいくつも泥へ指を向けた。旅人は片足を上げたまま、泥の中へ手を入れた。


「どのあたりだ」


「足のあたり」


「それは分かってる」


 ノラは泥の縁へ片足を踏み出した。


「だから、深いところへ行くなって言ったのに、聞かないんだから」


「行ったんじゃない。泥が来た」


「泥は歩かないよ」


 泥の上では、右でも左でも子どもたちが足を跳ねさせる。

 春貝を入れた籠が、濡れた砂の上で鳴った。

 足洗い桶の湯気が風に流れ、宿の方から来る春貝の汁の匂いが薄く混じった。


 左の穴でしゃがむ子が「あと一つ」と言い、右の籠のそばの子が「あと一掘りだけ」と言った。

 その間に、大人たちも泥へ手を戻した。


 浜の端では、慣れていない客が泥に足を取られていた。

 父親は片足を上げたまま固まり、子どもはその足跡の中をまだ掘っている。

 ノラは父親の横へ木片を差し込み、泥を横へ逃がした。


「力を入れないで。泥が余計に抱えます」


 足が抜けると、父親は息をつき、子どもは足跡の底から小さな春貝を拾い上げた。

 ノラは小貝を受け取り、波の届く砂へ戻した。浜のあちこちで、似た手つきが増えていく。


 宿の方で、足洗い桶の青年が戻れと布を振った。

 けれど浜では、掘り具の先が立ち、浮きかけた籠が浅い水を押し、誰かの足がまた泥へ沈んでいた。


「掘り具は立てない!」


「籠は水に浮かべない!」


「弟を掘らない!」


 ノラの声に、近くの父親が掘り具を伏せた。

 尻もちをついた小さな子は泣かず、泥のついた手を母親へ見せる。


「じゃあ洗う?」


「まだ掘りたい」


 母親は布をかけ直し、ノラは泥の深い場所へ小さな枝を立てた。


「ここより向こうは、膝まで持っていかれるよ」


「膝、返してくれる?」


「取られる前に下がる」


 ミロはそう言って一歩戻った。ノラの握っていた布がゆるむ。

 海の匂い、泥の匂い、湯気の匂いが、風の向きで入れ替わる。

 春貝が一つ掲げられるたび、子どもだけでなく親の籠もそちらへ寄った。


 去年も腕まで濡らした父親が手を伸ばしかけ、母親が籠を足元へ引く。

 その横で、子どもは小貝を自分で波の届く砂へ戻し、指先でそっと寄せた。

 隣の親が、泥のついた手へ布を差し出す。


 ノラは、足洗い桶の湯気へ布を向けかけてから、もう一度浜へ体を向けた。

 ノラが握る布は、まだ腰の横でゆるんでいた。


 そのとき、沖の水面が丸くへこんだ。

 沖の白い輪は大きすぎず、リュカの足元で泥水が細かく震えた。

 けれど、その場所の海面は、浅いくぼみの底まで低くなっていた。


「沖に渦が来た!」


 ミロが叫んだ。


 泥を掘っていた子どもたちは手を止め、次に籠の持ち手を胸の前で握りしめた。

 腰を伸ばした父親の袖から、泥水が一筋落ちる。


 白い輪が、くるりと回る。

 次の瞬間、潮がすっと引いた。

 さっきまで浅く水をかぶっていた泥の面が、また広がる。

 子どもが掘った穴は濡れた砂に押し込まれて埋まり、足跡も薄くなって消える。

 濡れた砂の下で、春貝の殻がかちりと鳴った。


 かちり。

 かちり。


 濡れた砂の下で、小さな殻の縁が、左の穴でも右の水際でも見えなくなった。

 浜端の古い鐘が鳴った。

 鐘の綱は柱に巻かれたままだった。波が杭の根元を叩いて鐘が一度だけ揺れ、海水を含んだ低い音を立てた。


「また始まったぞ!」


 旅人の一人が叫んだ。

 泥の上で子どもたちの両手が上がり、隣では、父親も籠を持ち上げた。


「今年の南浜は気前がいいな」


「掘っても掘っても出る」


「もう一回だけだぞ」


 そう言った父親が、さっそく籠を持ち直した。


 ノラも、そのときは握っていた布を下げていた。


「今年の浜、ほんとに変だね」


 ミロが泥を蹴って走り出す。


「姉ちゃん、先に行く!」


「浅いところまで!」


「わかってる!」


「その返事がわかってない!」


 ノラはそう言いながらも、布をゆるく握っていた。

 ミロの籠がかちりと鳴り、隣の子も泥へ膝を寄せた。

 白い輪がほどける。

 ミロも、隣の父親も、泥だらけの旅人もまた泥へ手を伸ばしていた。

 リュカは、埋まった穴の縁へ靴先を寄せた。


 さっきの穴も足跡も、泥の面から消えていた。

 ミロの膝は、泥をつけたまま濡れている。


 海風が吹いた。

 足洗い桶の湯気が、浜の方へ細く流れた。


     *


 沖で白い泡がふくらむ。

 さっき掘った穴の縁が消え、取りそこねた春貝も濡れた砂の下へ隠れた。

 白い輪が過ぎると、袖をまくった父親も、片方の浜履きを失くした旅人も、また泥へ手を入れた。


「次に渦が来たら、あっちを掘る」


 ミロが、籠を抱えて言った。


「あっちは深い」


「浅いところの、枝の向こう」


「それを深いって言う」


「姉ちゃんは細かい」


「泥は細かくない。まとめて足を取る」


 ミロは籠の持ち手を指で弾いたが、別の子の声に振り向いた。


「こっち、いっぱいある!」


 ミロがそちらへ身を寄せ、隣の子も籠を泥の上で止めた。

 ノラもそちらへ向かった。

 泥の浅いところに、春貝が三つ並んでいた。一つはまだ小さい。一つは割れている。一つは籠へ入る大きさだった。


 ノラは小貝を波の届く砂へ置き、割れた殻を手の脇へ寄せた。


「こっちだけ、籠」


 子どもの差し出した両手に、残った春貝が一つだけ乗った。


「なんで割れてるのはだめ?」


「汁に入ると、じゃりっとする」


「割れてるだけなのに?」


「欠けたところに砂が残る」


「貝、穴あいてる」


「だから、こっち」


 子どもは割れた殻を脇へ寄せ、ノラは籠の縁についた泥を親指で払った。

 貸し籠の台にいた男は、濡れた布を絞り、足洗い桶の方を指した。


「戻ってきたら足を拭けよ!」


 けれど足を入れる子はなく、湯気だけが桶の縁で揺れていた。

 ノラは濡れた布をもう一度絞った。


「鐘が止んだら戻るよ」


「そう言って、もう二度目だ」


「今日は特別だから」


「特別な日は、風邪も特別にひく」


 ノラは濡れた布をもう一度絞り、しずくを桶の脇へ落とした。

 そのとき、沖の方で三人の子が同じ向きへ身を乗り出し、籠を跳ねさせた。


「また渦が来た!」


 白い輪が海面に浮かぶ。さっきより小さい。浜の端で、籠を持つ父親が足を踏み出した。

 潮がまた一段引く。泥の表面がなめらかになる。掘りかけていた穴が閉じ、春貝が砂の下へ隠れる。

 浜端の古い鐘が、波に揺られて鳴った。


「また始まった!」


 子どもが先に走り、父親も籠を持ち上げる。母親の布は、伸びたまま行き場を失った。

 ノラは布を握ったまま、浅い泥の方へ体を向けた。


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