第五話 春の膳 はじまり直す春浜(2)
「また始まったぞ!」
子どもが叫び、椀を持つ客たちが動きを止めた。
さっき椀を抱えていた子どもが、入口の方へ椀ごと向き直った。母親がすぐに上着をつかむ。
「もう行かないよ」
子どもは上着をつかまれたまま、入口へ顔だけ向けた。
「ここから見る」
母親は砂の残った足先を見下ろした。
「見るだけなら、足はそこに置いときな」
子どもは砂の残った足指を丸めた。結局、椀へ口を戻した。
ノラの母は空いた椀を持ったまま、半開きの扉の隙間へ体を向ける。
半開きの扉の向こうで、ノラが足に砂をつけた子どもを足洗い桶へ向かわせていた。
リュカも扉の隙間を見た。
「外にいるの、ノラか」
ノラの母は小さくうなずいた。
「うちの子だよ。潮干狩りの日は、あの子が浜を回ってる」
ノラの母は、手元の椀を胸元へ寄せ、リュカの椀のそばへ身を傾けた。
「今年は、浜が帰してくれない」
リュカの椀の底に、砂はない。春貝の殻は、温かい汁の底に沈んでいた。
もう一度、外で鐘が鳴った。今度は、入口の客が椀を膝の上で止めたすぐあとだった。
ノラの母は椀を下げかけたが、リュカは手を止めた。
「食べ終えてから行く」
「急がなくていいのかい」
「飯の途中で立つと、礼を返す前に腹が冷える」
湯気の向こうで、ノラの母は空いた椀を一つ重ね、縁を短く鳴らした。
「変なことを言うね」
「食べた分だけ動く」
リュカは、残った春貝の汁を飲み干した。
外では、まだ浜の騒ぎが続いていた。けれどその騒ぎの下で、冷たい春の風が扉の隙間を細く鳴らしていた。
*
宿を出ると、海の匂いが濃くなった。
春先の風は、まだ頬を冷やす。けれど浜へ向かう道には、小さな浜履きの足音が絶えなかった。
宿の裏には、桶が並んでいる。海水を張った桶では、布の下で殻がかちりと触れ合っていた。
台所の扉に近い桶では、布の下で殻が水底をかちりと叩いた。
奥の桶では、泥の筋をつけた春貝の下へ細かな砂が落ちていた。
桶の横では、袖をまくった青年が布を洗っていた。砂のついた布を絞ると、薄い泥水が桶の脇へ流れる。
「浜から戻る人は、足も手も泥だらけですからね」
青年はそう言って、浜の方へ濡れた布を振った。
「でも、今日は戻るたびに、また走っていくんです。湯を替えても替えても、桶の前が空なんです」
「湯だけが待っているのか」
「湯と、台所から飛んでくる叱り声です」
青年は布を桶の縁にかけた。
リュカは桶の湯気に指をかざしてから、浜へ下りた。
南浜は広かった。
春の大潮で、海がずいぶん沖まで退いている。
濡れた砂の上に、子どもの足跡、大人の浜履きの跡、籠を引きずった線が入り乱れていた。
浜の入口には、古い台がある。そこに、貸し籠、布、木の小さな掘り具が積まれていた。
掘り具は刃先が丸く、子どもの手でも春貝を割りにくい。
年配の男が、掘り具を配りながら沖の方へ腕を振っている。
「深いところまで行くなよ。膝まで沈んだら、貝より先に浜履きが採れるぞ」
「浜履きも食べられる?」
子どもが聞く。
「煮ても固い」
「じゃあいらない」
「いらないなら、足から離すな」
近くの父親が咳払いをし、貸し籠の縁を台にこつんと当てた。
家族連れが多い。小さな子は親の上着をつかみながら、泥の上へ恐る恐る足を置く。
年長の子は、もう腕まくりして、先に春貝を掘り当てようとしている。
旅人もいる。革靴のまま入ろうとして、地元の子に止められている男。
浜履きを借りたが、結び方が分からず、足首で布をぐるぐる巻きにしている女。
泥に手を入れる前から、大きな籠を抱え込んでいる男。
「その籠、埋めるつもり?」
近くの母親が籠の縁を指でこつんと叩いた。
「せっかくだからな」
「その前に、腰が埋まるよ」
男は持ち手を握り直し、一回り小さい籠に替えた。
浜の端には、足洗い桶がいくつも並んでいる。湯気が細く立ち、湯沸かしのそばでは男が湯を足していた。
貝を掘り当てた子は、くるぶしまで濡れていても籠を胸の前で揺らしていた。
足洗い桶へ戻った途端、その子は桶の縁で足の指を丸める。
最初の子どもは砂を落とすのも待たず、湯へ足を突っ込んだ。
「戻ったら足を入れろよ。冷えるぞ」
湯を足していた男が、通る子どもに言う。
「まだ戻らない!」
「それを三回聞いた!」
桶の縁で、子どもが二、三度跳ねた。
そのやり取りの真ん中に、ノラがいた。
「そこ、強く掘らない。春貝が割れるよ」
浜の真ん中で、ノラが子どもの手を止めていた。
短い上着の前を腰の横で留め、腕まくりをしている。足は泥だらけだ。
けれど泥の中でも体を沈めない。足の裏で泥の固さを測りながら歩いていた。
ノラは子どもの手を取って、泥の表面をそっと押さえた。
「ほら。ここ、指に固く当たるでしょ」
「本当に石なの?」
「石なら動かない。春貝なら、ちょっと逃げる」
子どもが指を入れる。泥がぬるりと割れた。
「春貝あった!」
小さな春貝が出てきた。殻に泥がつき、大きくはないけれど、子どもは両手で持ち上げた。
ノラは泥のついた手で籠を示した。
「それは籠へ。もっと小さいのは戻す」
「なんで戻すの?」
「砂の下で大きくなるから」
「どのくらい?」
「来年、指にごつんと当たるくらい」
子どもは泥のついた手を一度止め、離れたところの小さな貝を波の届く砂へ戻した。
リュカがその場所へ近づくと、ノラは泥から手を抜いた。
「宿のお客さん?」
「リュカだ。宿の客だ」
「ノラです。そこ、足首まで沈みます」
ノラはリュカの靴先へ泥のついた指を向けたあと、すぐに別の子どもの籠を指した。
「ミロ! その籠、引きずらない! ひっくり返す!」
ノラから三歩ほど離れたところで、泥で膝まで汚れた男の子が籠を抱え直した。頬にも泥がついていた。
「ひっくり返してない!」
「籠がもう斜めだった」
「まだやらない!」
ミロはそう言って、また泥に手を入れた。ノラはリュカの方へ戻ってきた。
「あれが弟か」
「はい。目を離すと、貝より先に弟が沈みます」
「ずいぶん元気だな」
「元気です。元気すぎます」
そう言いながら、ノラはミロが引きずりかけた籠へ指を向けた。
浜の奥で、子どもが両手を泥から抜いた。
「見て! 色がついてる!」
子どもが春貝を掲げている。濡れた殻の縁に光が当たり、桜色を帯びていた。
近くの子どもたちが、泥のついた指をその縁へ伸ばした。
「春貝の当たりだ」
「縁だけ桜色」
「いい色だな」
ノラは近づいて、殻の縁を指で支えた。
「きれいだね。でも、割らない。籠へ入れて、あとで洗う」
「すぐ見せたい」
「泥つきで見せても、先に泥が目立つよ」




