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第五話 春の膳 はじまり直す春浜(1)

 リュカが南浜の宿で春貝の汁を一口飲むと、外の浜で子どもがまた跳ねて叫んだ。

 半分閉められた扉の隙間から、白い砂と、濡れた浜履きの跡が床まで入り込んでいる。


 南浜の潮干狩りは、今年だけ何度でも始まっていた。

 入口の横では、低い桶が泥のついた足を受けていた。水はもう薄く濁っていて、底には細かい砂が沈んでいた。


 外では濡れた浜履きが砂を蹴り、子どもたちが互いの籠へ泥の指を伸ばしている。

 入口の子は椀を抱え、浜の子は籠を胸の前で揺らしていた。だからリュカは、すぐには腰を上げなかった。


 宿の中では、春の浜から戻った客が何人か腰を下ろしていた。膝まで泥をつけた子どもが、椀を両手で抱えている。


 椀の中身を飲む前、子どもは椀を持ったまま、まだ入口の隙間へ体を向けていた。

 一口飲むと、子どもは両手で椀を抱え直した。隣の母親が、濡れた上着の端を布で拭き、椀を子どもの膝へ寄せた。


「ほら。しゃべってないで、先に腹を温めな」


 子どもは椀を胸へ寄せた。湯気の向こうで、まぶたが落ちかけている。


 台所から、ノラの母が盆を抱えて戻ってきた。

 煮た豆。

 若い海藻の塩茹で。

 焼いた小魚が二尾。

 それから、浅い椀に入った春貝の汁。


 客に出す前に、椀を指一本分傾けた。

 底に濁りはない。ノラの母は縁のしずくを親指で拭った。

 リュカは傾いた椀の底へ目を留めた。


「椀の底まで見るんだな」


「砂は底に残るからね」


 ノラの母は盆を抱えたまま言った。


「春貝はうまいよ。けど、砂を噛んだら終わりだ」


 ノラの母は椀の底を指で払った。


「浜で足に砂をつけた客に、椀の中まで砂は出せないだろ」


 汁は白く濁らず、底に砂もない。

 小ぶりな春貝が三つ、殻を開きかけ、湯気に海藻の青い匂いと貝の甘い匂いが混じっていた。


 リュカは椀を持った。指先が温まる。


「春先の浜は、冷えるからね」


 ノラの母は盆の上で、空いた椀を重ねた。


「浜では、足の先まで濡れてても笑ってるんだよ。貝を握ってるうちはね」


 ノラの母は、空いた椀をもう一つ重ねた。


「ここへ座ると、膝から震える。だから、手が震える前に椀を持たせる」


 リュカは汁を飲んだ。塩は強くなく、小さな貝の身は噛むと甘く、喉を通ると腹の中に小さな火が落ちた。


「うまい汁だ」


「そう言ってもらえると助かるよ」


 ノラの母は空いた椀を抱え直し、入口の隙間から入る浜のざわめきに耳を向けた。

 宿の奥では、年配の客が椀を指一本分傾けている。


「今年の春貝は多いな」


「桶が足りないくらいだよ」


 ノラの母が、湯気の向こうで言った。


「桶は春貝で鳴る。席も埋まる。戻ってくる子どもも客も、なかなか入口を越えない」


「楽しいならいいじゃないか」


 返事の代わりに、ノラの母は空いた椀を一つ重ねた。縁が短く鳴り、すぐ次の椀へ指を伸ばす。


 湯気の向こうで、別の客も椀を指一本分傾けた。

 ノラの母は椀の底へ指を添え、縁のしずくを指で拭う。

 ノラの母は底をもう一度なぞり、それからようやく客の前へ出す。


 春貝の汁を待つ客は、リュカだけではない。

 浜から戻った親子が一組、入口近くの席に座っている。

 母親は子どもの足を布で拭き、父親は籠の縁に指をかけ、泥のついた春貝を数えていた。


「これは桶の方だね」


 母親が言った。


「今日じゃないの?」


 子どもが聞く。


「まだ砂が残ってるよ」


「ちょっとなら?」


「ちょっとでも椀から口を離すくせに、よく言う」


 子どもは椀の縁へ口を近づけた。

 それから、自分の椀を両手で持った。


 湯気が頬に当たる。

 さっきまで「もう一回」と言っていた子が、椀の縁からすぐには離れない。


 子どもが両手で椀を包んだころ、ノラの母の指先で空いた椀の縁が短く鳴った。

 入口の子どもが、湯気にまぶたを落としながら、椀を胸へ寄せる。

 ノラの母は親指を布で拭いた。


 リュカは、椀の縁に指を添えた。

 貝の身は小さい。噛んでも砂は当たらない。甘さが舌の奥に残った。

 濡れた指。桶の水音。火のぬくみ。

 どれも薄い湯気の中に混じっていた。


 外で、遠くの鐘が鳴った。

 一度。

 鐘の余韻が消えて、もう一度。


 風に揺れた音ではなかった。けれど、人が綱を引いた音の重さもない。


 ノラの母は、椀を下げる前に動きを止めた。


「また鳴った」


「あれが潮の鐘か」


「違うよ。あれは、鳴らす鐘じゃない。鳴っちまう鐘だ」


 リュカは焼いた小魚へ手を伸ばした。皮は薄く焦げている。身は少ない。


「魚が少ないな」


「沖へ出づらいんだよ。今年は小さな渦が出る」


 ノラの母は盆の端を親指で押さえ、小魚の並びを詰めた。


「舟を押すと、横から水が巻く」


 ノラの母は空いた椀を持ち直した。


「だから魚が少ない。こういう日は、汁で腹を温めるんだよ」


「まあ、今日はそれがあるだけましだよ。桶の底で夜を越した貝があったからね」


「今日、掘ったやつは?」


「椀に入れたら、奥歯でじゃりっと鳴るよ」


「じゃあ、裏か」


「布をかけておく。水の底で鳴り終わってからだ」


 暗くされた貝は、桶の底へ少しずつ砂を吐く。底が静かになるまで、ノラの母は椀に入れない。

 リュカは椀の縁を親指でなぞった。半開きの扉の向こうで、桶の布の端が風で持ち上がった。

 椀の底では、昨日から沈んでいた貝が湯気の下で殻を開いていた。


 奥の席では、年配の男が膝に布をかけ、椀を両手で傾けていた。

 足元には、小さな籠が置かれている。中には春貝ではなく、泥のついた石が三つ入っていた。


 リュカが近づくと、男は膝の布をつまみ、足元の籠を布の下へ引き寄せた。


「孫が、どうしても持って帰るって言うんでね」


「石を持ち帰るのか」


「一番大きいのを採ったと言い張る。貝じゃないと言っても聞かない」


 盆を抱えたノラの母が、男の足元の籠を見た。


「石は桶へ入れないよ」


 男は布の下で籠を押さえた。


「分かってる。でも、置いて帰ると泣く」


 ノラの母は裏口の方へ目をやった。


「なら、宿の裏で洗ってから持たせな。泥のまま袋へ入れたら、明日の朝、寝台が浜になる」


 男は足元の石を膝へ寄せ、膝の布を握った。


 その横で、小さな子どもが椀を抱えたまま眠りかけている。

 泥だらけの足は、布で包まれていた。

 さっきまで浜で走っていた子が、椀を持った途端に眠る。

 椀の縁越しに、眠りかけた子の布に包まれた足先が丸まっていた。


 ノラの母は、その横で空いた椀を受け取った。

 眠りかけた子の膝で傾いた椀を支え、冷えた足を新しい布で包み直した。

 濁った桶の水は、入口の外へ細く流れた。


 入口の砂が増えるたび、ほうきの先が短く動く。

 泥のついた布は新しい布に替わり、冷えた足には湯気が寄る。


 リュカは、春貝の汁をもう一口飲んだ。

 椀を抱えた子どもは、まぶたを落としかけたまま桶の方へ足を向けた。


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