第四話 冬の膳 勇者の名乗りを求める門(9)
門番の指先は、昨日ほどすぐには天幕へ向かなくなった。
やがて、待ち天幕の前にいた子どもも、町の中から来た母親に手を引かれて門をくぐった。
子どもは火鉢の方を何度も振り返った。
「鍋、残ってる?」
ガロが門の内側から言う。
「まだ残ってる」
「肉は残ってる?」
「少しだけだ」
「あとで食べる」
「町の中で食え」
「こっちの方が面白い」
母親が子どもの頭を押さえた。
「お世話になりました」
ガロはそっぽを向いた。
「火を借りたなら火の番だ。椀を借りたなら鍋の番だ」
「薪は入れてません。鍋も混ぜました」
子どもが得意げに言った。
「それならいい」
母親と子どもは門をくぐった。
待ち天幕の前で、踏み固めた足跡の縁に薄い雪が入り始めた。
薬売りもいない。
老人もいない。
子どももいない。
ガロは門の内側にいる。
夜番の鍋へ肉を届けた。
けれど、町の奥へは入らず、外へ続く石畳の端に立っている。
門の外で雪を踏み直す音は、リュカの靴だけになった。
リュカは火鉢の灰をならしていた。
鍋の底を起こし、匙を縁へ戻す。
入口の毛布が風で浮きそうになり、結び直した紐を確かめる。
ガロが門の内側から声をかけた。
「お前は入らないのか」
リュカは火鉢の横に棒を置いた。
「戻してから行く」
「変なところで律儀だな」
「飯をもらった」
「火の番もしただろ」
「椀も借りた」
門の内側で、ガロが鼻を鳴らした。
待ち天幕の前には、さっきまで人の足跡がいくつも重なっていた。
薬売りのミラが立っていた跡。老人エルモが杖をついた跡。
子どもが火鉢のそばを行ったり来たりした跡。ガロが肉包みを置いていた、沈んだ跡。
今は、どれも雪と泥で曖昧になっている。
門の内側には、人の声が戻っていた。
ミラが樽職人の家へ向かう足音。エルモを鐘楼へ案内する町人の声。
夜番の鍋に燻製肉を入れる音。林檎売りの子どもが、母親に端肉のことを話している声。
門の外だけが、静かだった。
天幕が空になると、音の聞こえ方も変わった。
人がいる時は、薬売りの袖がこすれる音、椀を置く音、子どもが足を動かす音が重なっていた。
そこに、ガロが紐をいじる音も混じっていた。
今は、火鉢の炭が小さく崩れる音まで聞こえる。
リュカは、その静けさを急いで埋めなかった。
火鉢の灰をならし、鍋をひと混ぜし、入口に溶けた雪を外へ押し出す。
敷物の端に残った豆の皮と根菜の欠片を、外の雪へ払った。
外の風が一度だけ強く吹いた。
天幕の右端が、ばたんと鳴る。
昨日、リュカが紐で結び直したところだった。布は古い。裂け目もある。けれど、紐はまだ緩んでいない。
リュカは支柱の根元へ回り、結び目を指で押した。指を離しても、布端は跳ねなかった。
「そこは、結ぶだけでいいのか」
ガロが門の内側から言った。
「ほどけた分が戻ればいい」
「旅人は、すぐ縫うのかと思ってた」
「なんでも縫う旅人は、荷が重くなる」
「お前の荷は軽そうだ」
ガロは、リュカの小さな荷の紐へ指を向けた。
「中身が違う」
「何が入ってる」
「道具が入ってる」
「それは誰でもそうだろ」
リュカは小さな荷の紐を指で押さえた。
門の内側で、ガロが短く笑った。
リュカは、最後に木板の前で足を止めた。
鍋の横に置かれた、古い板だ。
端は欠け、角は丸く、火の焦げ跡がいくつもついている。
表には、鍋を置いた丸い焦げ跡が残っている。
そこに、ガロの炭の字が残っていた。
火を借りたら火の番。椀を借りたら鍋の番。名乗る時は、なくさなかったものを一つ。
その下に、小さく。
一つでいい。
ほかの行よりも、ずっと小さい。字の終わりだけ、木目に引っかかって少し細くなっていた。
リュカは板を持ち上げた。
「持っていくなよ」
ガロが門の内側から言った。
「持っていかない」
「俺が書いた」
「知っている。倒れないようにする」
リュカは下に小石を噛ませた。火鉢の明かりが当たり、炭の字が浮いた。
「……ならいい」
リュカは板から手を離した。
火鉢の灰をならし、鍋の縁の汁を木片でぬぐった。
灰の中には、赤い炭だけが残った。




