表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
38/39

第四話 冬の膳 勇者の名乗りを求める門(8)

 門の外にいた子どもが、鼻をひくつかせた。


「肉の匂いがする」


「肉が入ったからだ」


 ガロが言った。


「肉の人だな」


「俺は荷運びだ」


「でも肉の人だ」


「今だけだからな」


 子どもは笑った。ガロは肩紐を指で押し上げた。


 夜番の男は、肉を削る手を止めなかった。

 薄く削られた燻製肉は、鍋の上で一瞬だけ色を濃くし、それから湯気の中へ沈んでいく。

 根菜の白、豆の薄い茶色、その間に肉の赤茶が混じる。

 入口の奥で、椀の縁が小さく鳴った。


 もう一人の夜番が、椀を持って寄ってくる。


「早くしろ。匂いだけで腹が減る」


「匂いで見張りができるなら、肉はいらん」


「肉はいるだろ」


 その声が、鍋の湯気の向こうから返ってきた。

 届け先で、荷がほどける。中身が鍋へ落ちる。湯気の向こうから、椀が一つ前へ出る。


 ガロは肩紐から指を外した。

 肩に残った赤い線へ、指を置いた。


 ガロは息を一つ吐いた。

 荷は届いた。


 朝に門が開いてから入っても、包みは荷札の相手に渡る。

 昼の鍋でも、宿の裏口でも、油紙をほどけば肉は鍋へ落ちる。


 けれど、今は夕鐘のあとだった。


 門の内側では、夜番が鍋の蓋を開けている。

 外の冷えが本格的になる前に、椀へ肉の匂いが入る。

 交代で門へ立つ男たちが、根菜だけの薄い汁ではなく、燻製肉の塩気で腹を温める。


 椀へ落ちる端肉は一切れでも、根菜の湯気に燻製の匂いを混ぜる。


 だが昨日の夜番の鍋には、その一切れがなかった。


 ガロは自分の肩を触った。

 革紐の跡が残っている。

 指で押すと、赤い線の熱が返ってきた。


 ガロは赤い線に、指をしばらく置いた。


 戸口の奥から、肉を削る音がする。

 鍋の蓋が持ち上がる音。匙が鍋底へ当たる音。

 戸口の奥で、夜番の男が「もう少し薄く削れ」と言った。

 椀を持つ若い男が「腹が黙らん」と返した。


 ガロはその音を聞きながら、門の外へ戻っていった。


 町の内側から外へ戻る足は、さっき門を越えた時より軽かった。

 荷はもうない。

 肩には革紐の跡だけが残っている。

 けれど、ガロはその赤い線を外套の袖で隠さなかった。


 天幕の前まで来ると、子どもの指がガロの背中のあたりを指した。


「荷がなくなった」


「ちゃんと届けた」


「じゃあ、もう肉の人じゃない?」


「俺は荷運びだ」


「肉を運び終わった人」


「それは長い」


 子どもは笑った。


 ガロは火鉢のそばに立ち、手袋をつけ直した。

 古い手袋だ。指先が少し擦り切れている。

 さっきまで凍った紐をつかんでいた指が、内側でゆっくり温まっていく。


 リュカが言った。


「指は動くか」


「凍ってはいない」


「それなら、まだいい」


「それだけか」


「肉の匂いが外まで来た」


 ガロは鼻を鳴らした。


「お前、本当にそれしか言わないな」


「根菜だけの湯気じゃなくなった」


 門の内側で、夜番の鍋から、燻製肉の匂いを含んだ湯気が立っている。


「……それならいい」


 戸口の奥で、匙が一度だけ鍋底をこすった。


 ガロは外套の肩を、指で一度ならした。


 それから、門前の列が一人ぶん前へ動いた。

 ガロが火鉢の前へ戻ると、薬売りの女が門の前に立った。


 ミラは薬箱を胸に抱えている。

 昨日は、勇ましい名乗りを探して、薬箱の紐を握ったまま立ち尽くした女だった。


 名乗り門の奥から、低い声が鳴った。


『名を聞こう』


「名はミラです」


『どこから来た』


「東の薬棚から」


『どこへ向かう』


「樽職人の家です」


 ミラは、薬箱の紐を握り直した。


 薬箱の外には布が巻かれている。

 外側の布は雪で少し湿っているが、中の薬包は濡れていない。

 ミラは昨日の夜、それを何度も確かめていた。


 門番が待つ。

 火鉢のそばで、ガロとリュカも待つ。


 ミラは、声を張らなかった。


「我こそは、咳の子の薬を、雪で濡らさず持ってきた者です」


 声は低い。

 薬箱の紐を握る指だけが、白くなっていた。

 薬包の行き先を、そのまま言った。


 門番の手袋が、名乗り門の鉄の下で止まった。


 いつもの夕鐘後なら、ここで鉄の奥から『では、名乗りを聞こう』と続いていた。

 けれど今は、待ち天幕の入口で子どもが身を乗り出している。


 火鉢のそばで、ガロが肩紐の跡に指を置いた。


 ミラの薬箱の布は、門番の前で乾いたまま残っていた。

 濡れていない箱。雪で赤くなった指。袖口だけが湿っている。


 門番は、短く息を止めた。

 ミラは薬箱の紐を胸の前で握り直し、それから門番を見た。


「今ので、いいんですか」


 門番は答えなかった。

 名乗り門の鉄が、もう一度低く鳴った。

 太い閂が、受け口から外れた。


 ミラは、薬箱の紐を指で押さえた。


「……分かりました」


 ミラは門をくぐる前に、ガロの肉包みの前で足を止めた。


「肉の人ですね」


「薬の人に言われたくない」


 ミラは小さく笑った。

 薬箱は、最後まで胸から離さなかった。


 門の内側には、樽職人の家の若い男が待っていた。

 ミラが門をくぐると、男は深く頭を下げた。

 ミラは急ぎ足でそちらへ向かう。


 次は、老人だった。


 エルモは杖をつき、ゆっくり門の前へ出た。

 片手には小さな布袋を持っている。

 古い木の飾りが入った袋だ。

 昨日、火鉢の前で見せたものだった。


 門番は急がせなかった。


『名を聞こう』


「名はエルモ」


『どこから来た』


「西の坂の下から」


『どこへ向かう』


「鐘楼のそばです」


 老人は、布袋を両手で持った。

 指が少し震えている。


「妻との約束を忘れず、鐘楼のそばまで来たエルモです」


 布袋を抱えた手の上で、震えが少し止まった。


 火桶の薪が、そこで小さくはぜた。

 ミラは門の内側で、薬箱を抱え直した。

 リュカは火鉢の灰をならす棒を止めた。

 子どもは入口の毛布を握っている。


 一拍置いて、名乗り門の鉄が鳴った。


 太い閂が外れる。


「エルモ。西の坂の下から。鐘楼のそばへ行く」


 老人はうなずいた。

 門をくぐる。

 門の内側の石畳は、鐘楼の方へ細く空いていた。


 老人は一歩ずつ進んでいく。

 布袋を持つ手だけは、しっかり閉じられていた。


 その後も、門外に残っていた者たちは一人ずつ町へ入った。


 昨日なら、うまく言えた者の背を叩く手がすぐ伸びた。

 今日は、その手が一拍遅れた。

 先に、門番の手が相手の荷の前で止まった。

 濡れた袖や、背負い革や、布袋の結び目を確かめた。

 天幕を指す手は、すぐには動かなくなった。

 飾らない名乗りのあと、門前に一呼吸だけ間ができた。


 待っていた者たちは、すぐには声を上げなかった。


「大げさじゃなくてもいいのか」


 子どもが、入口の毛布を握ったまま小さく言った。


 門番は火桶へ戻らず、次の者を門の前へ促した。

 名を聞く声で、次の者の肩がまた上がる。


 その肩が上がるたび、ガロは背負い革を握り直す。


 火桶の赤は、門番の後ろで揺れていた。

 次の者が息を吸う間、門の前に立っていた。


 うまく名乗る者もいた。

 飾らず言う者もいた。

 途中で詰まり、門番が「一つでいい」とだけ言って、やり直した者もいた。


 名乗り門の鉄は、鳴る時は鳴った。

 鳴らない時は鳴らなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ