第四話 冬の膳 勇者の名乗りを求める門(7)
ガロは背負い革を握ったまま言った。
「我こそは、ええと……」
そこで、声が細くなった。
背中の肉包みが、肩紐を引いた。
夜番の者の椀に肉が入る。
椀の中身の話だ。
けれど、門の前に立つと、舌の上にはいつもの荷札の言葉だけが残った。
「我こそは、荷を……いや、夜番の椀に肉を届ける者……」
名乗り門は鳴らなかった。
鉄は冷えたままだった。
子どもの肩が、小さく揺れかけた。
母親の外套の襟が、その鼻先まで上がった。
その布の動きで、ガロの耳まで赤くなった。
このまま、開門を待てばいい。
その言葉が、喉元まで出かかった。
朝になれば、門は開く。
肉は届けられる。
昼の鍋には入る。
仕事は終わる。
肉は腐らない。町は朝を待てる。
これまで何度も、そうしてきた。
ガロの靴先が、雪を少し押した。
門番は火桶へ戻らなかった。
天幕を指す手も、体の横で止まっている。
火桶のそばでは、靴底が雪をこする音だけがした。
リュカは、助け舟を出さない。
ガロの背中では、肉包みが肩紐を引いていた。
昨夜、天幕の鍋へ端肉を落とした包みだ。ほどいた紐が床に落ち、ガロが指を滑らせながら結び直した、あの包み。
待ち天幕の入口も、昨夜とは違っていた。
昨夜は、火桶のそばに町人の半円ができていた。
名乗りがこぼれるたび、笑い声が火桶の縁で跳ね、通った者の肩に厚い手袋が乗った。
今は、薬売りの女が箱の紐を押さえ、老人が杖を両手で握っている。
子どもの肩が揺れかけ、母親の外套の中へ引っ込んだ。
門番の手は、まだ体の横に下りていた。
ガロが言葉を探している間、天幕の方へも、火桶の方へも動かなかった。
その待ち時間のあいだ、肩紐がさらに深く食い込んだ。
笑われた方がましだった。
からかわれた方が、言い返せた。
けれど、薬売りの箱の紐も、老人の杖も、天幕の入口で動かなかった。肉包みだけが背中で重かった。
ガロは、息を吐いた。
白い息が、体の前でほどけた。
白い息の向こうで、小さな窓だけが橙に揺れている。
中では、まだ肉の入っていない夜番の鍋が火にかかっている。
ガロの靴先が、その窓の方へ少し向いた。
昨夜、同じ場所で出した声が、喉の奥に戻った。
我こそは、夜番の鍋へ燻製肉を運ぶ者。
短い。
荷札の小さな板には、北の燻製小屋と夜番の鍋だけが炭で書かれている。
包みは背にあり、凍った紐は肩に食い込んでいる。
けれど昨夜、門前で口に出たのは荷札の字だけだった。
背中の包みは門前で止まり、夜番の鍋の湯気は根菜の匂いのままだった。
燻し場の番人が「夕鐘に遅れるな」と油紙を叩いた音も、喉の奥で消えた。
背負い革を握る指に力が入り、ガロは奥歯を噛んだ。
鉄が鳴る言葉は、まだ舌に乗らない。
残っているのは、昨夜の薄い鍋の匂いだけだ。
ガロの喉が一度動いた。
白い息だけが出た。
火桶のそばで、靴底が雪をこすった。小さな窓の奥で、夜番の鍋の蓋が少し鳴った。
背中の肉包みが、肩紐ごとガロの体を後ろへ引いた。
ガロは背負い革の紐を握った。
紐は凍っていた。
革は硬い。
指先に冷たさが食い込んでくる。
昨夜の門番は、根菜ばかりの匂いを嗅いで「今夜は根菜が主役だな」と笑っていた。
笑い終えると、手袋の指先を火桶の赤い炭へかざした。
その笑いのあと、ガロは包みの紐を強く締め直した。
昨夜の天幕の鍋では、端肉が豆の間に沈んでいた。
根菜と豆の間から、煙の匂いが立った。
子どもの匙は底まで入り、薬売りも老人も椀を両手で包んだ。
椀の底には、端肉の塩気が残った。
けれど、あの湯気は夜番の鍋から上がらなかった。
門の内側で夜を見張る者たちの椀には、肉の塩気が落ちなかった。
夜番は薄い鍋をすすり、それでも朝には町が動き出す。
ガロの鼻から、短い息が抜けた。
朝に足しても、今夜の鍋じゃない。
そう言って包みの紐をほどけば、凍った紐がぎしりと鳴る。
指の荒さも、荷のせいにできた。
だが今、背中の包みはまだ門の外にある。
そして夜番の鍋は、門の内側で待っている。
ガロは、もう一度息を吸った。
今度は、背中の肉包みを少し持ち上げた。
肩紐が軋む。包みの中で、燻製肉が布にこすれた。
「我こそは、今度こそ……」
まだ声は大きくない。
けれど、さっきよりは前へ出た。
「雪に膝まで沈みながら、夜番の鍋に入る肉を落とさず運んだ者!」
言い切った。
火桶の薪が、一度だけはぜた。
名乗り門の鉄が、低く鳴った。
一拍置いて、もう一度鳴った。
待ち天幕の入口で、子どもが母親の外套を握り直した。
昨夜なら、粉屋のオルドが火桶のそばからすぐ口を挟んだ。
膝まで沈んだのか。肉の方が偉いのか。夜番の鍋に頭を下げろ。
そのあと、火桶のそばで笑いが二つ三つ重なった。
今は、老人が杖の頭を握り直しただけだった。
ガロは、言い切った自分の声に驚いていた。
背中の燻製肉を支える革紐を握っている。
指先は赤く、紐はまだ凍って硬い。
ガロが革紐をさらに握ると、凍った革が赤い指の腹へ食い込んだ。
それでも、鉄は鳴った。
門番の手が動くより先に、太い閂がぎしりと動いた。
鉄の受け口から外れる音が、冷えた石畳の上を短く渡った。
門番は火桶へ手を戻さなかった。
ガロの前で、深くうなずいた。
「ガロ。北の燻製小屋から、夜番の鍋へ。通れ」
門番の声が、火桶の上を低く渡った。ガロの喉が一度動いた。
門番は包みに手を出さず、門の内側の明かりへ顎を向けた。
肉は火桶の横で預ける荷ではない。
ガロは背負い革の紐をもう一度握った。
門が開く。
内側から、湯気まじりの温みが細く流れてきた。
町の灯り。石畳の匂い。火の匂い。人の声。
そして、夜番の鍋から立つ、薄い根菜の匂い。
まだ、燻製肉は入っていない。
ガロは門をくぐった。
門の内側へ入るのは、初めてではない。
毎朝入っている。
荷を届け、市場へ寄り、宿の裏口で紐をほどき、また道へ出る。
それでも、朝の開門を待たずに越える敷居では、靴底が一度止まった。
門内の小屋の扉が開いた。
夜番の男が、戸口に出る。
昨夜、薄い鍋をすすっていた男だった。
小屋の奥では、鍋から湯気が立っている。
根菜の甘い匂いばかりで、昨夜と同じように肉の匂いは薄い。
「今朝は根菜だけで主役を張らせずに済みそうだな」
夜番の男は包みへ手を伸ばさず、入口の脇の台を指で叩いた。
ガロは背負い革を肩から外し、包みを自分で台へ下ろした。
荷札を明かりへ向けると、夜番の男が炭文字を目で追った。
「主役は交代だ」
「肉は脇役でいい」
「薄い鍋なら、脇役でも助かる」
夜番の男は笑った。
「早くほどけ。鍋が待ってる」
「肉が偉くなったな」
「昨夜の鍋を食った後だと、肉は偉い」
ガロは凍った紐に爪をかけた。
昨夜のように、指先は跳ねなかった。
結び目を爪で起こし、少し息をかけ、ひとつずつゆるめる。
入口から漏れる火の熱で、紐の白い霜が消えた。
包みが開くと、燻製肉の匂いが広がった。
夜番の男が鍋の蓋を取る。
中では根菜と豆が煮えている。
肉の匂いはまだ薄い。
そこへ、削った燻製肉が落ちた。
根菜の湯気に、燻製肉の煙の匂いが混じった。




