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第四話 冬の膳 勇者の名乗りを求める門(3)

 けれど、肉は門の内側へ行けなかった。

 門の外の鍋で、小さく湯気を立てた。


 その湯気が鼻先まで上がり、ガロの肩が落ちた。


 ガロは足元の包みを、靴先で少し引き寄せた。

 門番は、まだ火桶のそばで肩を揺らしていた。

 天幕では、子どもの匙が鍋の縁へ何度も近づいた。

 端肉は小さくても、湯気には煙の匂いが混じっていた。


 それでも、荷札の字は夜番の鍋を指している。


 荷運びの飯代は、荷札の文字と相手の扉で決まる。

 坂でも橋でも、荷札の相手の前まで持っていく。ガロの指には、二重に締めた紐の跡が赤く残っている。


 ガロは湯気のそばで、足元の包みの口をもう一度押さえた。


 端肉は、鍋の中で根菜の間に沈んでいた。

 子どもは何度も鍋をのぞき込み、湯気へ鼻を近づけた。

 薬売りの女は冷えた指を椀で温め、湯気を少し長く吸っている。

 老人も、いつもよりゆっくり匙を動かした。


 門の内側の戸口からは、まだ根菜の甘い湯気だけが出ていた。


 ガロは結び直した紐を、もう一度指でなぞった。

 冷えた結び目は、指の腹に固く当たった。

 戸口の隙間では、夜番の火の色が薄く揺れている。


 紐は固い。

 指先は痛い。

 結び目だけは、包みの真ん中でまっすぐだった。


 夜が深くなるにつれ、天幕の外の音は少しずつ減った。


 町の内側では店の扉が閉まる。荷車の音が遠ざかる。

 市場の声も細くなり、最後には夜番の鍋をかき回す音だけが、戸口の奥からときどき聞こえた。


 ガロはその音を聞くたび、足元の包みの紐を指先で確かめた。


 包みは、まだガロの足元にある。

 荷札の行き先は、門の内側の夜番の鍋だ。

 肉の端だけが、天幕の鍋でゆっくり回っている。


 天幕の椀には、端肉の脂が薄く浮いている。

 夜番の鍋の横には、ガロの包みがまだ置かれていない。


 ガロは首を振り、包みの結び目を親指で押さえた。

 朝の門が開けば、包みを担ぎ直し、戸口の奥の鍋の横で紐をほどく。

 夜番の者たちも、ガロを怒鳴りはしない。


 それでも、凍った紐の固さは手に残っていた。


 ほどけなかった結び目。

 強く引きすぎた音。

 端肉を削る刃の強さ。


 それらは、火鉢のはぜる音にすぐ紛れるくらいの音だった。

 だが、ガロの手には、鍋の音より長く残った。


 リュカが白嶺街道の町へ着いたのは、夕鐘が鳴り終わって少したってからだった。


 空はもう藍色になっている。雪は降っていない。

 道の両側に積もった古い雪が、暮れ残りの光を吸って青く見えた。

 風は強くない。その代わり、石畳の冷えが靴底から上がってくる。


 リュカの外套には、道中でついた雪がところどころ残っていた。

 肩のあたりは白く、裾は濡れて少し重い。

 杖の先には凍った泥がつき、歩くたびに、こつ、と乾いた音を立てる。


 町門の前には、まだ数人が残っていた。


 門の内側からは、薄い明かりが漏れている。

 内側の戸口の隙間から、鍋の湯気がひとすじ出て、すぐに風でほどけた。

 ガロが話していた夜番の鍋から、根菜の甘い匂いがわずかにした。


 門番は、火桶のそばで手を温めていた。

 リュカが門前へ進むと、門番は火桶から手を離した。


『名を聞こう』


「名はリュカ」


『どこから来た』


「北の道から」


『どこへ向かう』


「南の道を行く」


 名乗り門の鉄が、そこで低く鳴りかけて、止まった。閂受けの奥で、太い木がわずかにこすれた。

 だが、閂は受け口から抜けない。門番は門の脇に立ち、リュカと名乗り門の間で手を止めた。


『では、勇者として名乗れ』


「名乗るほどの名はない」


 名乗り門は鳴らなかった。


 門番の手袋が、火桶の縁で止まった。

 火桶のそばにいた子どもが、母親の外套の袖をつかんだ。

 門の内側で片づけをしていた町人も、濡れた布を抱えたまま手を止めた。


 リュカは門の前から動かなかった。


 門番は火桶の縁に置いた指を一度離した。

 それから、冷えた鉄の前で一拍置き、リュカへ向き直った。


「雪道を歩いた者、ならどうです」


「それなら言える」


「腹を減らした者、でも」


「それも嘘ではない」


「それを、少し勇ましく」


「雪道を歩き、腹を減らして来た者だ」


 門番の手が、火桶の上で止まった。


 名乗り門は鳴らない。


 子どもが母親の袖を鼻先まで引き上げた。肩が小さく揺れている。

 母親がその袖を軽く押さえる。門番はリュカの靴先についた雪で手を止めた。


「北風を越えた者」


「風はよけて歩いた」


「雪道を踏みしめた者」


「雪を避けては来られない」


 門番は、火桶の縁に置いた手を少し握った。


「寒さに耐えた者」


「耐えたほどではない」


「そこで止まらないでください」


 リュカは名乗り門の鉄の下で、白い息を吐いた。


「寒いものは寒い」


「それでも、名乗ってください」


「飯の匂いはする」


「では、温かい飯を求めて来た者、と」


「温かい飯を求めて来た者だ。入れてくれ」


 門番の手袋が、名乗り門の鉄の下で止まった。

 鉄は冷えたまま、鳴らない。


 門番は両手を腰に置いたまま、火桶の前で息を吐いた。

 名乗り門は鳴らないままだ。

 門番は火桶の縁を指で叩き、門の脇を指した。


「今夜は、あちらです」


 指の先には、待ち天幕があった。


 リュカは門の前で足を止めた。


 大きな門ではない。

 古い門板は、端だけでもリュカの親指より厚い。

 雪よけの張り出しにはつららが下がり、門板の鉄帯は黒く冷えている。

 閂は内側に通っていて、こちらから手をかけることはできない。


 押して開ける門ではない。

 力で通るための門でもない。

 名乗り門の鉄は、名乗り以外では鳴らなかった。


 リュカは門の前から、雪の上へ一歩引いた。


 門番は、肩を少し落とした。それから、火桶の縁に指をかけたまま付け足した。


「天幕には火があります。鍋も。明け方になれば、門はいつもの通り通れますから」


「朝まで待て、か」


「悪い門ではないんです」


「門を責めてはいない」


「本当に、悪い門ではないんです。大抵の人は、ちょっと恥ずかしいだけで通れます」


「俺は通れなかった」


「……それは、はい」


 門番の指が、火桶の縁を軽く叩いた。


 リュカは、待ち天幕の方へ歩いた。

 雪を踏む音がする。

 火桶のそばで、粉屋のオルドが鼻を押さえた。リナは籠の持ち手を握り直した。


 天幕へ近づくと、布の向こうから鍋の匂いが強くなった。

 根菜と豆。少し燻製肉。温めた林檎の甘い匂い。

 町の宿から出る匂いほど整ってはいないが、外で冷えた体には、毛布を上げる前から腹が鳴りそうな匂いだった。


 入口の毛布を持ち上げる前に、中から声がした。


「またひとり来たのか」


 ガロの声だった。


 リュカが毛布を開けると、火鉢の明かりが濡れた外套の裾を赤くした。


 中には、ガロがいた。薬売りの女も、老人も、子どももいる。

 鍋はまだ火にかかっていた。

 ガロの足元には、燻製肉の包みが置かれている。ほどいた紐は、まだ完全には乾いていない。


 ガロは火鉢の縁を指で軽く叩いた。


「門に嫌われたな」


「鉄は鳴らなかった」


「鳴らなかったんだろ」


「ああ、鳴らなかった」


「なら、嫌われたのと似たようなもんだ」


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