第四話 冬の膳 勇者の名乗りを求める門(1)
結論から言う。
その町の門は、冬の夕鐘のあとだけ、人に胸を張らせる。
白嶺街道の冬は、日が落ちるより先に足元から来る。
昼のあいだは、まだ道の形が見えていた。
轍のへりに固まった雪も、馬の蹄が踏み割った氷も、町へ入る者に道を譲っていた。
けれど西の山の稜線に薄い紫がかかるころになると、風は石の角で細く鳴り、石畳の隙間から冷えが上がってくる。
町門の上で、夕鐘が鳴った。
一つ目で、町の中の槌音が少し減った。
二つ目で、店の扉が一つずつ閉まり始めた。
三つ目が鳴ると、火桶のそばで荷紐を握っていた手が、上着の中へ一つ、二つと引っ込んだ。
「三つ目だぞ」
門番小屋の前で、火桶に手をかざしていた男が言った。
町門は大きな門ではない。雪よけの張り出しがついた、石造りの古い門だった。
門板は厚く、鉄の帯で補強されている。内側には太い閂が一本通り、受け口の鉄は黒く古びていた。
昼なら、人も荷車もそこで止まらない。
町人は門番に片手を上げるだけで通る。
荷運びは門番に届け先を告げるだけでいい。
市場へ行く者、宿へ入る者、門の内側へ荷を届ける者。
門前で胸を張る者はいない。
けれど、夕鐘のあとだけは違う。
夕鐘のあとの町門を、町の者は名乗り門と呼んでいる。
名を告げる。
その日、雪道でなくさず持ってきたものを、胸を張って言う。
それで、名乗り門の鉄が低く鳴れば、誰の手も触れないまま、太い閂が受け口から外れる。
鳴らなければ、門番は火桶から手だけを出し、門脇の待ち天幕を指す。
町の者は、この冬の決まりをよく知っていた。
「ほら、次はリナだ」
「嫌です。先に粉屋さんが行ってください」
「若い娘の名乗りを聞いてからでないと、粉袋の中身も白く凍っちまう」
「粉はもともと白いでしょう」
門の前にいた者たちが笑った。
林檎売りの娘リナは、籠を胸に抱え直した。寒さで赤い頬のまま、籠を抱く腕に力を入れた。
籠の中には、布にくるまれた林檎が並んでいる。抱え直した指の跡で、布の端には細かいしわが寄っていた。
布の端から、赤い皮がのぞいていた。
門番が、火桶から手を離した。
名乗り門の奥から、低い声が鳴った。
『名を聞こう』
「リナ。南の林檎畑から」
『では、名乗りを聞こう』
リナは息を吸った。
背中のほうで、子どもが息を漏らした。
リナは一度だけ振り返り、睨んだ。
子どもは母親の外套の袖をつかんだ。隠しきれていない肩が揺れている。
リナは前を向き直り、籠をぎゅっと抱いた。
「我こそは、北風に頬を打たれても、林檎を凍らせず運んだ者!」
声は、最後のほうで少し裏返った。
町の者たちは、こらえきれずに笑った。
火桶のそばで、手袋を外しかけた男の肩が、そこで少し縮んだ。
火桶のそばで笑った者も、自分の番が近づくと襟元を正した。
リナも、籠の持ち手を親指で押さえ、息を一つ漏らした。
名乗り門の鉄が、低く鳴った。
誰の手も触れないまま、太い閂が受け口から外れた。
「リナ、南の林檎畑。通れ」
「早く忘れてください」
「明日には忘れる」
「絶対、明日も覚えていますよね」
また笑いが起きた。
リナは門をくぐりながら、見物していた子どもの外套の肩を、指先で軽くつついた。子どもは笑って逃げた。
次に進み出たのは、粉屋の若い男だった。
粉袋を背に負っている。袋は二つ。どちらも雪を払ったあとがあり、口の縄はきちんと二重に結ばれていた。
男は、門番の前でぴたりと足を止めた。
踵が、前の者の靴跡に重なった。
『名を聞こう』
「オルド。北粉屋から」
『では、名乗りを聞こう』
オルドは、軽く咳払いをした。
リナが門の内側から言った。
「くしゃみは三度までですよ」
「黙っていろ、林檎の勇者」
「誰が勇者ですか」
町人たちがまた笑う。
オルドは胸を張り、粉袋の肩紐を持ち上げた。
「我こそは、粉袋を破らず、くしゃみを三度こらえた者!」
言い終わった瞬間、オルドは本当にくしゃみをしそうになった。
鼻の下が震えた。見物の子どもの手袋が止まり、門番まで火桶から手を浮かせた。
オルドは上を向き、必死にこらえた。
火桶の薪が、小さくぱちりと鳴った。
そして、くしゃみは出なかった。
名乗り門の鉄が短く鳴った。
太い閂が外れるより早く、町人たちが拍手した。
「四度目は明日へ持ち越しだな」
「粉屋の勝ちだ」
「鼻だけは負けかけていたぞ」
オルドは片手を上げて応えた。
得意げに笑っているが、鼻はまだ赤い。門をくぐる時、リナがわざと少し離れた。
「粉が飛びます」
「飛ばしていない」
「今にも飛びそうです」
「林檎が凍るぞ」
「もう門の中です」
夕鐘のあとの町門では、そんな声が何度も交わされた。
照れる名乗りが出る。
火桶のそばで笑いがこぼれる。
言った本人も笑う。
名乗り門の鉄が低く鳴り、門板の奥で太い閂が抜ける。
町へ入った者は、火のある宿や市場の奥へ急いでいく。
笑って、名乗り門が鳴って、背を叩かれて町へ入れる者には、火桶のそばの笑いで済んだ。
門番も、火桶のそばで手を温めたまま、次の名乗りを急かしはしない。
見物している町人たちも同じだ。名乗りが上手い者を褒め、照れた者を笑い、通った者の背を軽く叩く。
冷えた手を火桶へかざしながら、列の端を顎で促す。
門の脇には、待ち天幕が張られている。
雪よけの布を二枚重ね、木の支柱で押さえた簡単な天幕だ。
入口には古い毛布が垂れ、内側には火鉢がある。火鉢の端で、小さな鍋が湯気を上げていた。
門に止められた者は、古い毛布をくぐり、火鉢のそばで朝を待つ。
天幕からは、根菜と豆の匂いがした。
風が向きを変えるたび、焦げ目のついた林檎の甘い匂いも混じる。
門番は、次に並んでいた小柄な男を門の前へ促した。
『名を聞こう』
男は首をすくめた。
背には、小さな荷が一つ、肩紐に引かれて揺れていた。
「ガロ。北の燻製小屋から」
『では、名乗りを聞こう』
「我こそは、夜番の鍋へ燻製肉を運ぶ者」
火桶のそばで、背を叩こうとしていた町人の手が止まった。
名乗り門は鳴らなかった。
門番は火桶から片手を出し、門脇の天幕を指した。
男は頭を下げ、門から離れた。足元の雪が、ぎゅっと鳴った。
火桶のそばにいた子どもが、小さな声で母親に聞いた。
「どうして今の人は入れないの」
母親は袖の中で、子どもの手を握り直した。
門の内側では、リナが林檎籠を抱えて宿の方へ急いでいく。
粉屋のオルドは、鼻を押さえたまま、市場の角を曲がった。
門の外では、いま通れなかった男が、待ち天幕の毛布をくぐっていく。
夕鐘の余韻は、もう雪の中へ沈みかけていた。
門番は手を火桶へ戻し、次の者を門の前へ促す。
『名を聞こう』
その声は、さっきと同じだった。
火桶のそばの笑いは、毛布の入口で途切れた。
男は、ガロと言った。
荷札の字なら、ガロは見なくても言えた。
相手の扉を間違えたこともない。
白嶺街道で荷運びをする者として、信用されていた。
夕鐘のあと、門の前に立つと、荷紐を握る指が固くなった。
ガロは、待ち天幕の入口にかかった毛布を片手で持ち上げた。
中の熱が、ふっと頬をなでる。外套についた雪が、肩からぱらぱら落ちた。
「また通れなかったのか」
火鉢のそばに座っていた薬売りの女が言った。
「また通れなかった」
ガロは短く返した。
「今日は何を運んできたんだい」
「夜番の鍋へ届ける肉だ」
「肉なのは匂いで分かる」
「北で燻した肉だ」
「そこまでも分かる」




