第三話 秋の膳 持ち寄りを煮つめるかまど(10)
子どもの小椀には、林檎煮の汁がいつも少し残った。
山道を急ぐ商人の皿には、栗粉パンの焦げた端が残らなかった。
香草を避ける客の皿には、青い粒だけが残った。
湯気の細い筋は、鍋の上で乱れなかった。
木匙の先は鍋ではなく、皿の端へ向いた。
「脂は多めにできるか」
ロナはバルトの小皿を見て、焼き茸を一つ返した。
焦げ目の端に、白い脂が薄く溶ける。
「少しなら。茸の裂け目に吸わせます」
商人は笑って、パンを差し出した。
「それでいい。皿に流れるほどはいらない」
ロナは頷き、脂を吸わせた茸を皿の端へ寄せた。
脂は皿の底へ広がらず、焦げ目の香りだけが上がった。
食堂の端の客が、少し身を乗り出した。
昼に皿を遠ざけた男だった。
夜が深くなるころ、ロナはリュカの前にも、あらためて秋の膳を置いた。
焼き茸は、火から離れたばかりだった。
細い焦げ目の間から湯気がのぼり、裂け目に吸わせた山鳥の脂が小さく鳴っている。
割った栗粉パンは端が香ばしく焼け、林檎煮の小椀には明るい艶が残っていた。
香草塩は、皿の端にほんの少しだけ。
リュカは皿を少し引き寄せた。
茸を一つ、そのまま噛む。
焦げ目が先に香り、中から熱い汁が出た。
二つ目には、香草塩を少しだけつけた。
青い香りで、茸の甘さが少し立つ。
皿の端の脂を栗粉パンでぬぐうと、焦げたところに山鳥の脂がしみた。
最後に林檎煮を食べる。
甘酸っぱさで口が軽くなり、もう一度、茸の焦げ目を噛みたくなる。
リュカの前には、白い皿の底が残った。
「ごちそうさまでした」
ロナは、盆の縁を持ち替えた。
「ありがとうございました。さっきの小皿まで、きれいに食べてくださったんですね」
「うまかった」
ロナは、裏で出した小さな皿を思い出した。
欠けた皿に、余った茸と端のパンが寄せてあった。
「あれは、余り物です」
「あの小皿でも、最初に茸の匂いがした」
リュカは空いた皿を見た。
「今の膳もそうだ。焦げ目が先で、塩と脂はあとから来た」
ロナの指が、盆の縁で止まった。
「林檎は最後でよかった」
ロナは木匙の柄を見た。
けれど、火口の奥で石が小さく鳴った。
今度の音は、合図ではなかった。
薪がはぜる、ただの音だった。
リュカは宿代の硬貨を宿の主人へ渡した。
硬貨は宿帳の横の小皿で鳴った。
宿の主人は硬貨を小皿ごと寄せ、宿帳に印をつけた。
リュカはもう客席へ戻らなかった。
杖を手に、食堂を一度だけ見た。
甘い茸を食べた男は二皿目を食べ終え、子どもは林檎煮ではなく栗粉パンの欠片をかじっていた。
リュカはそれ以上、何も言わなかった。
かまどの横では、ロナが木匙を握り直している。
外では、秋市の夜がまだ続いていた。
食堂の奥では、さっきまで皿を残していた客が、空いた椀を両手で持っていた。
その客が、椀の底を見て言った。
「朝の汁も頼む」
別の客が、包み飯に栗粉パンを添えられるかと聞いた。
ロナは棚とパン台を見た。
干し茸はまだ布の中、栗粉パンは籠の底に四つ。
林檎煮は小椀三つ分。
「包み飯にはパンを添えます。朝は、干し茸の汁を温めておきます」
子ども連れの女が、眠りかけた子を抱えたまま、小さく手を上げた。
「林檎煮を、今ひと椀もらえるかい」
「出せます。今、温めます」
宿の主人が宿帳へ印をつけた。
包み飯の紙が増え、洗い桶には椀が沈んだ。
井戸水の桶が台所へ運び込まれた。
冷たい水が揺れ、桶の縁に白い泡が残る。
ロナは干し茸の棚の下を指した。
「桶は棚の下の石に置いて。包みに水が跳ねると、干し茸が湿ります」
桶が置き直されると、水の揺れは棚板の手前で止まった。
鍋の蓋は、そこで動かなかった。
蜂蜜の壺も、香草の塩皿も、脂の小皿も、皿の外で待っている。
夜の客は、少しずつ席を立ち始めていた。
けれど、さっきのように皿を遠ざけて立つ者はいない。
椀を重ねる音に、朝の道の話が混じる。
汁を頼む声。包み飯を増やす声。
次の声がかかる前に、ロナは茸を裂いた。
裂け目から、今年の茸の水気が少しにじんだ。
茸を火の縁へ置くと、水気が消え、焦げ目が細く残った。
ロナはまだ、脂へ手を伸ばさなかった。
焦げ目がつくまで、客の声を背中で聞いた。
皿から、次の香りが立った。
今夜は、その香りだけでよかった。
最後の客の足音が、階段の上へ消えていく。
洗い桶の水が外へ流され、食堂には火の底の赤だけが残る。
宿の主人が宿帳を閉じる。
ロナは火の赤を確かめ、火の端の石に残った脂の白い跡を見てから、台所を出た。
やがて、泊まり客の物音も途切れる。
リュカは小部屋を静かに出て、床板を鳴らさないようにかまどへ近づいた。
かまどの口の煤には、細い黒い筋が残っていた。
林檎の小鍋の脇、塩皿の横、棚の奥、火の端の石。
それぞれから伸びた筋が、鍋の蓋へ向かいかけていた。
どれも途中で薄く途切れている。
リュカは杖先を煤へ当てた。
煤は剥がれなかった。
黒い筋だけが、灰の奥へ静かに沈んだ。
火は消えなかった。
明日の火に残す赤だけが、鍋底の下で低くなった。
リュカは、鍋の蓋には触れなかった。
「もう、取りに行くな」
声は食堂へ広がらず、かまどの石へ落ちた。
鍋の蓋は動かなかった。
リュカは杖を引き、小部屋へ戻った。
朝、ロナが火口の灰を寄せると、蓋へ向かっていた煤の筋は消えていた。
小鍋の布も、塩皿も、棚の包みも動いていない。
火の端の石には、脂の跡だけが残っていた。
ロナが木匙を取ると、目は棚の包みへ向いた。
今朝は、干し茸の戻り具合を先に見た。
朝市が開く前に、宿の前ではまた荷紐が鳴り始めた。
谷へ下りる老人には、干し茸を戻した汁を温めた。
峠へ向かう商人の包み飯には、栗粉パンを一欠片多く添えた。
子ども連れの女には、残しておいた林檎煮を小椀で出した。
鍋の蓋は閉じたまま、朝の支度が進んだ。
宿の主人は宿帳へ線を引き、客は包みを荷に入れた。
外の朝風に、干し茸の汁の匂いが少しだけ混じった。
ロナはリュカへ紙包みを一つ渡した。
「朝の分です」
「これは多いな」
「栗粉パンを添えました」
「それで重いのか」
ロナは小さく笑い、すぐ木匙を握り直した。
リュカは包みを小脇に抱え、宿を出る前に一度だけ振り返った。
「今朝は、干し茸からか」
「はい。汁にします」
「そうか。いい匂いだ」
杖の音が、秋市へ出ていった。
かまどの前では、干し茸の汁が小さく湯気を立てていた。




