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第三話 秋の膳 持ち寄りを煮つめるかまど(9)

 裂け目からにじむ水気が、火の縁で小さく鳴った。

 その音が細くなるあいだに、ロナの包丁は香草を細かく刻んだ。

 蜂蜜の壺は、小鍋の脇で布をかぶったままだ。

 バルトの脂だけが、匙の先で少し溶け、皿の端へ落ちた。


 見ていた香草売りが、小さくうなずいた。

 蜂蜜屋の女は、壺には触れずにいた。


 香草売りが、男の皿の端をのぞく。


「塩はどうだ」


 男は指先で香草塩を少しつまんだ。


「これくらいならいい。鍋に入ってたら、たぶん茸の匂いが消えてた」


 香草売りは鼻を鳴らした。


「塩でも香るならいい」


 蜂蜜屋の女は、林檎煮の小椀を見ていた。


「一滴で足りたのかい」


 ロナは小さく答える。


「一滴で足りました。林檎が甘かったんです」


 女は少し照れたように笑った。


「なら、次から壺ごと渡すのはやめるよ」


 干し茸を持ってきた老婆は、棚の包みを見た。


「朝の汁にするんだね」


「はい。明日の分です」


 老婆は結び目を指で押さえただけで、ほどかなかった。

 その横で、バルトは皿の茸を一つ取った。脂を吸わせた方だ。

 バルトは噛み終えるまで、皿の端を見ていた。


「脂は少ないな」


「多くすると、焦げ目が脂で隠れます」


「その通りだな」


 バルトは、今度は脂のない茸を食べた。


「今年の山なら、これくらいだ」


 それから、脂の小皿を火の端へ戻した。


「俺の脂を増やすより、火加減を見る方が先だな」


 バルトがそう言うと、ロナの肩から少し力が抜けた。


 町の人たちは、品を鍋へ入れなかった。

 鍋の手前に、手のひらひとつ分の空きができた。

 ロナはそこへ、空いた皿を一枚寄せた。


 宿の主人が、ロナの手元の古い木匙を見た。


「明日の朝も、立てるか」


 宿の主人の指の下で、宿帳の包み飯の欄に短い線が足された。

 峠へ向かう者はパンを頼み、谷へ下りる者は汁を頼んでいる。

 ロナの足もとは、まだ火の前から離れなかった。


 ロナは木匙の柄を握った。

 林檎の横の壺、塩皿の葉、棚の包み、火の端の脂皿。

 どれも、自分でそこへ置いたものだった。


「明朝も立ちます」


 言い終えてからも、ロナは干し茸の包みから目を離さなかった。

 明朝の汁に使うと、自分で言った包みだ。


 さっきまで老婆の腕の中にあったものが、今は棚で夜気を避けている。

 鍋の湯気は、そこまで上がらなかった。


 井戸へ出す桶の底は、まだ乾いていた。

 火を落とす前に水を張り、包みの布を替える。

 乾いた布は、棚の下で待っている。


 ロナは木匙を、胸の前で持ち直した。


 ロナは、火の端に残った灰を見た。

 今夜の火をどう落とすかで、朝の火のつき方が変わる。

 先代はよく、灰を捨てるなと言っていた。灰の下に、次の火種が残るからだ。


 皿洗いの頃のロナは、灰より濡れた椀の数ばかり見ていた。

 灰の中には、細い赤が残っている。

 夜の皿を出したあとも、灰の下には次の赤が残る。


 ロナは木匙を火の前へ戻した。

 柄のくぼみが、さっきより少しだけ手に馴染んだ。

 木匙を握り直し、はっきり言った。


「明朝は、干し茸の汁にします」


 老婆が笑った。


「それなら、朝にはいい匂いがするね」


 食堂では、椀を置く音や皿を寄せる音が少しずつ戻った。


 甘い茸を食べた男が、空いた皿を少し前へ出した。

 香草の汁に水を飲んだ商人が、塩皿を自分の方へ寄せた。

 子どもは林檎煮の椀を見て、蜂蜜屋の女に「これは甘いのか」と聞いた。

 女は「林檎だけだよ」と答えて、ロナの方をちらりと見た。


 蜂蜜屋の女の口元が、少し緩んだ。

 香草売りも、塩皿を指でつつきながら息を漏らした。

 子どもが林檎煮の小椀を少し引き寄せ、塩皿の粒が皿の端で鳴った。

 老婆が干し茸の包みを棚の奥へ押し直す音も混じった。


 かまどは、まだ火を抱いている。

 けれど、さっきまでのように、町の者の手元に黒い筋は出ていない。


 蜂蜜の壺には林檎の横で布がかかり、香草は塩皿のそばで青く乾いた。

 干し茸は棚の奥に残り、山鳥の脂は火の端で白い艶を保っていた。


 炎にいちばん近いのは、鍋の底だけだった。

 どれも、鍋へ落ちなかった。


 食べ終えた皿には、少しずつ白い底が戻った。


 最初の一皿が空いて戻ると、皿洗いの少年が椀を重ねた。

 宿の主人は新しい客へ席を指し、蜂蜜屋の女は林檎の籠を少し奥へ寄せる。


 鍋の底では、薪の芯が低く鳴っている。


 戻ってくる皿には、昼とは違う跡があった。


 昼には、客は少し残し、困った顔で笑っていた。

 今は、皿を返す前に一言添える。


「次は塩なしで頼む」


「パンをもう少し焦がしてくれ」


「林檎は最後でいい」


 皿が戻るたび、ロナは鍋ではなく、皿の底に残った跡を見た。

 塩なしの皿には、青い粒を触れさせない。

 パンを欲しがる客の前では、焦げた端が先になくなった。

 林檎を最後にする客の小椀だけ、盆の奥で湯気を細く残した。


 鍋の湯気は同じ匂いのまま立っている。

 それでも、皿の端には、青い粒や脂の艶が細く残った。


 皿洗いの少年も、戻ってきた皿を見て覚え始めた。


「この席は、香草なしでした」


「次の皿にも、香草塩は添えません。空いた皿だけ、こちらへ重ねてください」


 ロナがそう言うと、少年は塩皿へ手を伸ばさず、空いた皿だけをロナの横へ重ねた。


 宿の主人は宿の前で客を受けながら、ときどき台所を見た。

 口は出さない。

 ただ、包み飯を頼む客には、ロナへ聞けと言った。


「朝の汁に、肉は入るか」


 宿の主人が振り向いた。

 ロナは干し茸の棚を見た。

 山鳥の残りを見た。


「肉は少しだけ入ります。干し茸の汁です」


 宿の主人はロナの言葉を客へ伝えた。

 客は頷き、包み飯を一つ増やした。


 宿の主人が、宿帳の端へ小さく印を足した。

 ロナは増えた印を目に留め、木匙を握り直して次の椀へ手を伸ばした。


 外の風が一度、食堂へ入り込んだ。

 火の前にいた者たちが肩をすくめる。

 ロナはかまどの口を少し狭め、栗粉パンの板を火から少し離した。


「扉の近くが冷えるな」


 バルトが言った。


「汁を少し増やします」


 ロナは棚の包みを取らなかった。

 今夜の鍋には入れない。

 山鳥の骨ぎわから取った薄い汁を、少しだけ温め直す。


 老婆の目が、棚の包みへ動いた。

 ロナが首を振ると、老婆は鼻で笑っただけだった。


 薄い汁だけを鍋へ足した。

 棚の奥では、干し茸の包みが乾いたまま残っていた。


 客の一人が、寒そうに手をこすった。

 ロナは椀を一つ温め、汁だけを入れて出した。

 茸の影も、肉の欠片も入っていない。

 それでも、客のこわばった指は椀の丸みに沿って開いた。


 その客は、両手で椀を包み、すぐ飲まなかった。

 指を温めてから、少しずつ口をつけた。


 ロナは、椀を包む客の指を見た。

 かまどでは湯が沸き、汁が温まり、包み飯用のパンが端で温め直されている。

 椀の熱が、ロナの指にも少し残った。


 やがてロナは、戻ってきた皿から、席ごとの食べ方を読めるようになった。


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