第三話 秋の膳 持ち寄りを煮つめるかまど(7)
ロナは壺を受け取った。
「助かります。小鍋の脇で預かります」
鍋には近づけず、林檎煮の小鍋の横へ置く。
蜂蜜屋の女は、壺と林檎煮を見比べた。少しだけ口を尖らせたが、やがてうなずいた。
「……林檎なら、うちの蜂蜜も悪くない」
「はい。次の小椀にも、香りだけ」
女の指が、壺の持ち手から離れた。
「鍋に入れなくても、出番はあるんだね」
「はい。林檎の小椀に、一滴だけ落とします」
小鍋の脇で、壺の口が火の明かりを細く受けた。
ロナは木匙を持ち直し、次に香草売りを見た。
「香草は、塩皿の横に。塩に混ぜる分だけ、ここへください」
「香りが弱いんだろう」
「弱くありません。鍋に入れると、青さが先に来ます」
ロナは塩皿の横に置いた葉を見た。
「欲しがる客の皿にだけ、少し置きます」
香草売りは眉を寄せた。
「それで足りるのか」
「茸が香るまで焼きます」
ロナは小さく返した。
香草売りは火口ではなく、塩のそばの葉を見た。
それから、束から葉を数本だけ抜いてロナへ渡す。
「塩なら、細かく刻め」
「はい。細かく刻みます」
ロナは香草を塩のそばへ戻した。
香草売りは、その葉を見ていた。
「鍋に入れないと、客に分からないんじゃないか」
ロナは首を横に振った。
「全員の皿には要りません。さっき水を頼んだ客もいます」
香草売りは、食堂の方を見た。水を飲んだ商人が、こちらの話を聞いている。
「……水を飲んだあの客か」
「はい。あの方です」
香草売りは、束からもう二枚だけ葉を抜いた。
「なら、これだけでいい。余りは明日、塩に混ぜ直せ」
「そうします」
次は、干し茸の老婆だった。
「干し茸は、今夜は棚へ残します」
老婆の手が止まる。
「旨みが出るよ」
「出ます。でも、今夜の茸には強すぎます」
老婆はロナをじっと見た。
「今夜の客に出さないのかい」
ロナは、木匙を持つ手に力を入れた。
「今夜は、今年の茸を出します」
老婆は包みの結び目に指を置いたまま、ロナを見た。
やがて、干し茸の包みを棚の方へ置く。
「なら、朝まで湿らせるなよ」
「はい。布を替えます」
老婆は棚の包みを、もう一度ほどきかけた。
だが、ロナが布を二重にすると、その手を止めた。
「朝の汁なら、戻す水はぬるくするんじゃないよ」
「はい。井戸水で戻します」
「分かっているならいい」
老婆は口ではそう言ったが、目元はやわらいでいた。
老婆は干し茸の包みを、布の角が下になるよう棚へ置いた。
包みは鍋のそばではなく、朝の井戸水を待つ棚の奥へ収まった。
バルトが低く笑った。
「脂はどうする」
「山鳥の脂は、茸の裂け目に少しだけ落とします。栗粉パンには塗りません」
「去年はパンにも塗った」
「今年のパンは、焦げ目だけでいいです。脂で重くすると、茸の香りが隠れます」
バルトは小皿を持ったまま、ロナを見た。
「今年の山鳥は軽いぞ」
「軽いなら、なおさら少しでいいです」
「足りなかったら」
「足しません」
バルトの口元が、わずかに動いた。
言った瞬間、ロナの背中を汗が伝った。
脂を足さない。
バルトの前でそう言ったのは、初めてだった。
バルトは怒らなかった。
ただ、小皿を持つ手を少し下げた。
「言うようになったな」
ロナは町の人たちへ頭を下げた。
「助かります。でも、全部を鍋には入れません。皿ごとに、合う分だけ使います」
言ったあとで、ロナの喉が乾いた。
蜂蜜屋の女が怒るかもしれない。
香草売りが鼻で笑うかもしれない。
バルトが、遅い、と言うかもしれない。
返事より先に、町の人たちはそれぞれの品を見た。
薪の奥で低い音がし、黒い石の口が一筋だけ明るく割れた。
蜂蜜屋の女は壺を抱え直した。
香草売りは束から葉を抜き、残りを縛り直す。
老婆は干し茸の包みを棚へ移す途中で手を止めた。
バルトは脂の皿を火の端へ置いた。
その途端、火の縁に壺の影が差した。
塩皿の葉が、熱い風で一枚めくれる。
棚へ置いた包みの布越しに、干し茸の匂いが濃くなった。
脂の小皿の縁に、白い艶がゆるんだ。
かまどの奥で、黒い口がひらいた。
甘い匂い。
青い香り。
脂の匂い。
干し茸の重い香り。
鍋の蓋の周りに、四つの匂いが重なった。
ロナは下がらなかった。
木匙を握ったまま、鍋の前に立った。
手のひらは熱い。
指の間に汗がにじむ。
それでも、ロナは鍋へ何も入れなかった。
木匙の先は、鍋の中へ入らなかった。
蜂蜜の壺も、香草の束も、干し茸の包みも、脂の小皿も、鍋の近くまで来ている。
それでも、ロナはどれにも手を伸ばさなかった。
鍋の縁から熱が上がる。
食堂では、客の前の皿がまだ空だった。
木匙は、自分の手の中にあった。
木匙は動かない。
なのに、鍋の蓋だけが持ち上がりかけた。
ロナが入れないと決めたものを、かまどの方が取りに来ていた。
ロナは木匙を鍋ではなく、作業台の端へ置いた。
空いた手を、鍋へ向けなかった。
「受け取りました」
声は震えた。
けれど、火の音に飲まれなかった。
「でも、鍋には入れません」
ロナは蜂蜜の壺を、林檎の小鍋の脇へ押し戻した。
塩皿を手前へ引き、干し茸の包みを棚の奥へ押し戻した。
脂の小皿は、鍋ではなく火の端の石へ置いた。
蜂蜜屋の女の指が、壺の縁から離れた。
香草売りは、めくれた葉を塩皿の横へ押さえた。
老婆は包みの布を結び、バルトは小皿から手を離した。
鍋の蓋は、一度だけ高く震えた。
それから、重く落ちた。
火は消えない。
匂いも消えない。
ただ、壺も束も包みも小皿も、鍋の縁より先へ出なかった。
ロナは息を吐いた。
壺は小鍋の脇、葉は塩皿の横、包みは棚、小皿は火の端にあった。
誰かに言い直してもらう必要はなかった。
火口の奥で石が鳴った。
鍋の蓋の縁は動かず、炎の先は鍋底の下に収まっている。
鍋の蓋は閉じたまま、林檎の小鍋から甘い湯気が上がった。
塩皿からは青い香りが立った。
ロナは木匙を取り直さなかった。
町の人たちの手は、ロナの示した場所で止まった。
鍋から立つ匂いに、蜂蜜も香草も干し茸も混じらなかった。
火の端では、脂を吸わせた茸だけが小さく鳴っている。
蜂蜜屋は壺を林檎の横に置いたままにした。
香草売りは束を塩皿の前へ戻した。
老婆は干し茸の包みを棚の奥へ押した。
バルトは脂の小皿を火の端の石の上に残した。
ロナは鍋の中だけでなく、かまどの周りを見た。
火の前が、少し広くなっていた。
広くなった場所へ、皿洗いの少年が空の小椀を戻した。
前なら、置き場を決められず、鍋のそばへ寄せていた椀だ。
今は、林檎の横を避ける。
香草の束にも触れない。
少年は塩皿の向こうへ小椀を重ね、ロナの顔を見た。
「ここでいいですか」
「そこに重ねて」
ロナが答えると、少年はほっとして洗い場へ戻った。
小椀の底が、塩皿の向こうで低く鳴った。
かまどの黒い口の奥には、石の赤が細く残った。
やがて、焼き茸の匂いが立った。
甘さも青さも、先に立たない。
焦げ目の奥で、今年の茸が細く香る。
去年のように、外の客まで引き寄せる匂いではない。
山鳥の脂を落としても、食堂の端の客は振り向かなかった。
皿を待つ男は、膝の上で指を組み替え、少し身を乗り出した。




