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第三話 秋の膳 持ち寄りを煮つめるかまど(6)

 ロナは棚の木目を見た。

 皿洗いの頃、その跡はただの染みに見えていた。


 宿の主人は、指でその跡をなぞった。


「町の者を追い返すためじゃない。使い道を言うためだ」


 丸い跡は林檎の小鍋の近くで止まり、白い塩の跡は中段の手前で途切れている。

 紐の擦れは棚の奥へ続き、火の端の平たい石だけが空いていた。


 ロナは、皿洗いだった頃の先代を思い出した。

 その時も見えていたのは、先代の顔ではなく手の動きだった。

 壺を受け取り、棚へ置く手。

 香草を束から少し抜き、塩皿へ寄せる手。

 脂の小皿を火の端へ置く手。


 先代は壺を棚に残した。

 香草を塩皿へ寄せた。

 脂の小皿を火の端に残した。

 どれも、鍋へはすぐ入らなかった。


「その場で言っていた」


 宿の主人は木匙の柄の欠けたところを親指で示した。


「後で考えるとは言わなかった。後でと言えば、かまどが先に考える」


 ロナは、木匙を見ていた。

 火のそばではなく、小棚に目が移る。濡れた布を置く台だと思っていた場所に、古い置き跡が並んでいた。


「ここ、使っていたんですね」


 宿の主人は答えず、丸い跡を見ていた。

 ロナは丸い跡の縁に指を置いた。木目には、長く使われた手の跡だけが残っていた。


「今年の茸に、先代の火は強すぎます」


 丸い跡の先に壺があり、塩の白さのそばに束があった。

 棚の奥の包みと火の端の小皿だけが、まだロナの声を待っている。


「なら、そう言え」


 宿の主人は静かに言った。

 ロナは口を開きかけ、閉じた。

 その時、外で壺のふたが鳴った。


 扉のそばに、蜂蜜の甘い匂いが立った。


 昼より大きな壺を抱えた女が、こちらをのぞいている。

 その後ろで、香草売りが葉を揉んだ。

 バルトの小皿には白い脂が光り、干し茸の老婆は布包みを胸に抱えている。


 町人たちは、ロナを責める顔ではなかった。

 ただ、夜の膳を待っている。

 食堂の客も、火の前の町人たちも、次に出る膳を待っていた。


 明日のかまど番を決めると言った宿の主人は、空の椀の縁を親指で押さえ、ロナの背中の少し後ろに立っている。


 リュカは、空の皿を見ていた。

 皿の縁についた焦げ目だけが、火の明かりを受けている。


 外の風に、蜂蜜と香草と脂と干し茸の匂いが混じった。


 火口の奥で、石が鳴った。

 火口の奥がぱっと明るくなった。まだ礼を言っていないのに、鍋の蓋の縁が細かく震えた。


 ロナは木匙の柄へ指をかけた。

 だが、まだ握れない。


 リュカは口で促さず、空になった自分の皿を、ロナの前へ置いた。

 小さな皿だった。

 名物膳と呼ぶには、皿数も盛りも少ない。


 さっき載っていたのは、裂いた茸と小さなパンだけだった。

 林檎煮も、椀の底に一匙だけ。

 蜂蜜の艶も、香草の青さも、干し茸の色もない。


 ロナは、何も載っていない白い皿を見た。

 それから、木匙を取った。


 手にした途端、柄のくぼみが指に合った。

 くぼみの底は、指先の形に丸く光っていた。

 ロナの指より太い跡も、細い跡も重なっている。


 外では、秋市の鐘が一度鳴った。

 夜の膳を待つ客が、少しずつ席を詰める音がした。


 腰掛けがきしみ、椀が脇へ寄る。

 外には、まだ皿を待つ者がいる。甘い茸を食べた男も、香草の汁で水を飲んだ商人も、帰らずに残っている。


 もう一度、皿を出せるか。

 外の足音は、まだ離れなかった。


 ロナは木匙を手にしたまま、かまど横の小棚へ戻った。


 宿の主人が寄せた湿った布は、まだ端で湯気を上げている。

 ロナはそれを絞り、空皿を重ね直した。

 木目に残った丸い跡も、塩の白い跡も、紐の擦れも、もう隠れていない。


 棚を拭いても、作業台には壺、束、包み、小皿が寄り合ったままだった。

 かまどの奥で音がするたび、壺の口、束の先、包みの角、小皿の縁が少しずつ鍋の方へずれた。


 蜂蜜の壺は、まだ口を開けている。

 ロナはその前を空けるように、濡れた布を絞った。


 蜂蜜屋の女が、台所の前で足を止めた。

 壺が鍋ではなく小鍋の脇にあるのを見て、少しだけ眉を寄せる。


「そこに置くのかい」


 ロナは壺を押さえる手に力を入れた。

 鍋へは近づけなかった。


「林檎の小鍋の脇です」


 ロナは、壺を小鍋の脇で押さえたまま言った。

 蜂蜜屋の女は、壺の口を親指でぬぐった。

 女は壺と林檎煮を見比べ、鍋ではないのかと唇を動かしかけて、口を閉じた。


 香草売りも、塩皿の前の葉を見た。


「まだ刻んでないぞ」


「刻んで塩に混ぜます。皿の端で香らせます」


 香草売りは塩皿を見て、束を握り直した。

 ロナは布をもう一度絞る。


 鍋の蓋は動かなかった。


 ロナは返事の代わりに、布を広げ直した。

 濡れた端から湯気が上がり、棚の板に薄く水が残った。


 ロナは布をどけ、空皿を重ねた。

 林檎煮の小鍋を右へ寄せ、塩皿を手前へ出す。

 ロナは干し茸の包みを湯気の届かない棚へ上げ、山鳥の脂の小皿を火の端へ置いた。


 まだ、全員に置き場を言ったわけではない。

 けれど、置き場ができると、火の前が少し広くなった。


 リュカは端の席に座ったまま、膝に寝かせた杖へ手を置いていた。


 ロナは空の皿を見た。

 リュカが食べ切った小さな皿だ。

 皿の底には、茸の焦げ目が少しだけ残っている。


 ロナは皿の縁を指でなぞった。

 林檎に蜂蜜一滴、茸に脂を少し。

 香草と干し茸は外。

 皿の白い端が、ロナの指の下に残っていた。


 リュカの皿になら、そう決められた。

 食堂で待つ客の皿にも、入れるものと入れないものを決められるか。


 火口の奥で、石を打つような音が二度した。

 二度目の短い音で、ロナの木匙の先が止まった。


 食堂の方では、席が詰まっていた。

 甘い茸を食べた男は、まだ帰っていない。

 香草の汁で水を飲んだ商人も、荷をほどいたまま待っている。


 子どもは椀を両手で抱え、今度こそ茸を食べるのか、ロナの手元を見ていた。


 町の者も、客も、同じ火を見ている。

 香草の汁で水を飲んだ商人が、小さく咳をした。

 かまどの奥で、細い炎が一度だけ揺れた。


 ロナは木匙を握り直した。

 柄のくぼみが、指の腹へ当たる。


 台所への通り道は狭い。

 持ち寄りを抱えた人たちが、そこで足を止めている。

 先頭の蜂蜜屋は、一歩を詰めない。

 けれど、香草売りも老婆も、通り道から離れない。


 壺も束も包みも、小皿も、まだ人の手の中にあった。

 置き場を言うまで、誰の手も離れない。

 膝が一度だけ震えた。


 かまどは、待っていない。

 鍋の蓋の縁が、今にも持ち上がりそうに震えている。


 ロナは息を吸った。


 台所の前で、蜂蜜屋の女が壺を少し持ち上げた。


「ロナ、持ってきたよ。今度は遠慮しないで使いな」


 香草売りは小束を握り直した。

 干し茸の老婆は、布包みを胸に抱え直す。

 バルトは山鳥の脂の小皿を、ロナから見える高さに上げた。


 みんな、ロナを助けようとしていた。

 だからこそ、ロナは怖かった。


 怒られているなら、謝ればいい。

 押しつけられているなら、断ればいい。

 けれど、そこに並んでいるのは持ち寄りだった。


 断れば、町の者が差し出した壺や束を押し返すことになる。

 受け取れば、客の皿から茸が消える。

 どちらを選んでも、ロナが客へ出す皿ではなくなる。


 ロナは柄のくぼみを指で押さえた。


「ありがとうございます」


 火口の奥で石が低く鳴った。

 壺の口で蜂蜜が揺れ、甘い湯気が立つ。

 ロナは一歩前へ出た。


「蜂蜜は、林檎煮の小椀へ一滴だけです。茸はこのまま焼きます」


 蜂蜜屋の女が目を丸くする。


「一滴だけかい?」


「はい。今年の林檎は甘いんです。蜂蜜は、香りだけでいいです」


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