第9話 逃亡者たちの選択
地上へ続く階段を駆け上がりながら、ダニエルは背後の気配を探っていた。
サイレンの音が近づいている。
地下鉄跡の出口は、使われなくなった倉庫街の一角につながっていた。外は夜明け前。海から吹きつける風が、血のにじんだダニエルの顔を冷やす。
「車は?」
ダニエルが尋ねる。
「ないわ。ここに来る前に処分したもの」
リナが答えた。
「じゃあ、どうやって逃げる?」
「歩くしかないな」
ヴィクターは周囲を見渡した。
「東に二キロ進めば、旧港湾管理区がある。今は閉鎖されているが、地下に貨物用の連絡通路が残っている」
「詳しいな」
「仕事柄だ」
「仕事柄で、閉鎖された施設の地下通路まで知っているのか?」
「質問は後にしろ」
ヴィクターが鋭く言った。
その直後、頭上を三機のドローンが通過した。
機体の側面には、オルフェウスの識別マークがある。
だが、ダニエルは違和感を覚えた。
「……おかしい」
「何が?」
リナが尋ねる。
「俺たちを捕まえるつもりなら、ここで包囲すればいい。なのに、ドローンは通り過ぎただけだ」
ヴィクターの表情がわずかに変わった。
「誘導されている可能性がある」
「誰に?」
「それを考えるのが、お前の役目だろう」
ダニエルは舌打ちした。
ヴィクターは相変わらず、肝心なことを話さない。
だが、今は彼を問い詰めている時間がなかった。
「リナ、ドローンの進行方向を調べてくれ。俺たちが向かう先と一致しているか確認したい」
「了解」
リナが端末を操作する。
数秒後、彼女の眉が寄った。
「……変ね」
「何が見つかった?」
「ドローンの位置情報が、別の場所から送られている。機体そのものの通信経路じゃない。誰かが遠隔で位置情報を書き換えているみたい」
「つまり、見えている位置が嘘かもしれないってことか」
「そういうこと」
ダニエルは立ち止まった。
周囲にはコンテナが積み上がり、道路は二つに分かれている。
東へ進めば旧港湾管理区。
西へ進めば幹線道路に出られる。
ヴィクターの言うとおりに進むべきか。
それとも、別の道を選ぶべきか。
情報が足りない。
だが、敵が情報を操作しているのなら、与えられた情報を疑うことから始めるしかない。
「西へ行く」
ダニエルが告げた。
「何だと?」
ヴィクターが振り返る。
「旧港湾管理区は罠だ。お前が知っている通路の存在を、敵も知っている可能性が高い」
「根拠は?」
「お前がそこへ誘導しようとしているように見えるからだ」
一瞬、空気が張り詰めた。
ヴィクターの目が細くなる。
「俺を疑っているのか?」
「全員を疑ってる。俺自身も含めてな」
ダニエルは西へ歩き出した。
「ついてこないなら、置いていく」
リナは小さく息を吐き、彼の後を追った。
「本当に無茶苦茶ね、あなた」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてない!」
その後ろで、ヴィクターはしばらく立ち尽くしていた。
やがて、誰にも聞こえない声でつぶやく。
「……やはり、変わっていないな」
そして彼も二人を追った。
*
幹線道路に出たところで、リナの端末が警告音を発した。
「二人とも、止まって!」
彼女が画面を見せる。
超国家連邦の緊急ニュースが表示されていた。
『政府機関への大規模サイバー攻撃が発生しました。国家機密の一部が流出した可能性があり、当局は関係者の捜索を進めています』
画面に映し出されたのは、三人の顔だった。
ダニエル。
リナ。
ヴィクター。
全員に、赤い文字で「国家反逆容疑者」と表示されている。
「……ずいぶん仕事が早いな」
ヴィクターが冷笑した。
「私たちが攻撃したことになってるの?」
リナの声が震える。
「そういう筋書きなんだろう」
ダニエルは画面を睨んだ。
政府機関への攻撃。
機密情報の流出。
そして、三人の指名手配。
あまりにも都合がよすぎる。
「俺たちが何かをする前から、準備されていたんだ」
「どういう意味?」
「最初から俺たちを犯人にするつもりだった。今回の騒動は、そのための理由にすぎない」
ヴィクターがうなずいた。
「おそらく、オルフェウスの上層部が関与している」
「おそらく?」
ダニエルは彼を睨んだ。
「お前、何か知ってるだろ」
「……」
「三年前のECLIPSE作戦。俺の記憶。CODE Ω。全部、何かつながってるんじゃないのか?」
ヴィクターは答えなかった。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
「今は話せない」
「またそれか」
「話せば、お前は俺を信じられなくなる」
「もう信じてない」
ダニエルは即答した。
ヴィクターの顔から、わずかに表情が消えた。
「……そうか」
「でも、今は一緒にいる。それだけだ」
ダニエルは歩き出した。
「信じるかどうかは、これから決める」
*
廃業した自動車整備工場に身を隠した三人は、ようやく一息ついた。
リナは古い通信端末を起動し、ニュースの発信元を調べ始める。
「これ、変よ」
「またか?」
「今回のニュース、政府の公式発表より先に、複数の報道機関へ送られている。それも、ほとんど同時に」
「つまり?」
「政府が発表する前から、誰かが報道機関に情報を流していたってこと。しかも、三人の顔写真も添付されてる」
「俺たちの身元情報を持っている人間が、政府の発表を待たずに動いた……」
ダニエルは考え込んだ。
「内部犯か、政府より上の存在か」
「あるいは、その両方ね」
リナは別の画面を開いた。
「もう一つ、気になるものがある」
画面には、暗号化された短い文章が表示されていた。
発信元は不明。
ただし、通信経路の一部に、三年前に閉鎖された研究施設の識別番号が残されていた。
ECLIPSE。
ダニエルの心臓が跳ねた。
「復号できるか?」
「試してる。暗号方式は古いけど、鍵の一部が生体認証に依存しているみたい」
「生体認証?」
リナはダニエルを見た。
「あなたの認証情報が必要なのかもしれない」
「やってくれ」
「危険よ。さっきの端末と同じ仕組みなら、また神経系に干渉する可能性がある」
「それでも、手がかりが必要だ」
リナは迷った末、端末を彼の前に置いた。
「接続は最小限にする。異常があったら、すぐに切断するから」
ダニエルは端末に手を触れた。
画面が白く光る。
《生体情報を確認》
《第一号、認証》
《暗号鍵の一部を解放》
文字列が高速で流れた。
そして、ひとつの映像が表示された。
白い研究室。
若い研究員たち。
その中央に立つ、一人の女性。
彼女はカメラを見つめ、静かに話し始めた。
『この記録を見ている人へ』
ダニエルは息をのんだ。
女性の顔に、見覚えがあった。
なぜそう思うのかはわからない。
だが、彼女の声を聞いた瞬間、胸の奥が締めつけられた。
『CODE Ω計画は、決して実行してはならない』
映像の中の女性は、背後を気にしながら続けた。
『これは人類を救うための計画ではありません。人間の意思決定そのものを、外部から制御するための計画です』
リナが息を止めた。
『第零号と第一号は、そのために作られました。しかし、計画には致命的な欠陥があります』
映像が乱れる。
『二つの個体が接触したとき、システムは最終判断を実行する。その判断が何を意味するのか、私はまだ解明できていません』
女性の顔が、急に苦痛に歪んだ。
誰かが部屋に入ってきたらしい。
『もし第一号が目覚めているなら、どうか伝えてください』
女性はカメラへ身を乗り出した。
『あなたは、兵器として生まれたのではありません』
その目から、一筋の涙が落ちた。
『あなた自身の意思で、生きる道を選んで』
映像が途切れた。
室内は静まり返った。
ダニエルは自分の手を見つめていた。
自分は兵器として作られたのか。
それとも、誰かがそう信じ込ませようとしているだけなのか。
「ダニエル……」
リナが声をかける。
だが、彼は答えられなかった。
端末に新たな文字が浮かび上がったからだ。
《記録者:エレナ・クロス》
《閲覧権限:第一号限定》
《追記:あなたの母親は――》
そこで、画面が突然暗転した。
「何!?」
リナが操作するが、反応がない。
次の瞬間、工場のすべての照明が消えた。
外から、重い足音が響く。
一つではない。
複数の人間が、工場を包囲している。
ヴィクターは無言で拳銃を構えた。
「敵か?」
ダニエルが尋ねる。
「わからん」
ヴィクターは入口を見据えた。
「だが、ここを見つけるのが早すぎる」
工場のスピーカーから、落ち着いた男の声が流れた。
『ダニエル。リナ・アシュフォード。武器を捨てて、ゆっくり外へ出ろ』
聞き覚えのある声だった。
ダニエルの背筋が凍る。
地下の研究施設。
白い廊下。
記憶の断片に何度も現れた、黒いスーツの男。
『抵抗する必要はない。君たちを連れ戻しに来ただけだ』
ヴィクターが低くつぶやいた。
「……あの男か」
ダニエルは拳を握りしめた。
「お前、あいつを知っているのか?」
「知っている」
ヴィクターは銃口を下げなかった。
「そして、あいつが来たということは……」
彼の言葉を遮るように、スピーカーから再び声が響いた。
『ヴィクター・レイン。君には、まだ役目が残っている』
短い沈黙。
『三年前と同じ失敗を繰り返すな』
ヴィクターの指が、引き金にかかった。
その表情から、初めて明確な動揺が消えた。
代わりに浮かんだのは、深い憎悪だった。
「……黙れ」
誰に向けた言葉なのか。
ダニエルには、わからなかった。
だが次の瞬間、工場の扉が吹き飛んだ。
煙の向こうから、黒いスーツの男が姿を現す。
銀色の瞳。
無表情な顔。
そして、三年前に死んだはずの研究員の名を、ダニエルは記憶の奥から拾い上げた。
「アラン……クロス?」
男は、わずかに笑った。
「久しぶりだな、ダニエル」
そして彼は、信じられない言葉を口にした。
「お前の母親を殺したのは、私ではない」
一拍置いて、男は続けた。
「――お前自身だ」




