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Code Ω  作者: ニコル
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第8話 シャドウ、始動

 地下鉄跡に、警報はなかった。


 それでもダニエルは、何かが変わったことを肌で感じていた。


 目の前の端末が世界中へ信号を送信してから、まだ数分しか経っていない。だが、ここに留まれば取り返しのつかない事態になる。理由はわからない。それでも、身体の奥に残る奇妙な感覚が、逃げろと告げていた。


「二人とも、今すぐここを離れるぞ」


 ダニエルが言うと、リナが端末から顔を上げた。


「賛成。でも、その前に一つ聞かせて。さっきの信号、あなたが送ったの?」


「違う。俺は何もしていない」


「じゃあ、どうして端末があなたに反応したの?」


「それを知りたいのは俺も同じだ」


 リナは小さく舌打ちした。


「世界中の通信網に接続した痕跡がある。軍事衛星、金融ネットワーク、政府の緊急通信回線……普通なら、一つに侵入するだけでも国家レベルのサイバー部隊が必要よ」


「つまり?」


「あなたが近づいただけで、それら全部が動いたってこと」


 ヴィクターが二人の会話に割り込んだ。


「説明は後だ。接近者がいる」


 彼は拳銃を抜き、暗闇の向こうへ銃口を向けた。


「数は?」


 ダニエルが尋ねる。


「わからん。だが、足音を消す訓練を受けている。オルフェウスの連中なら、もっと露骨な包囲をする」


「じゃあ、シャドウか?」


「その可能性が高い」


 リナの表情が変わった。


「待って。シャドウって、あのシャドウ?」


「他に何がある」


「世界中の紛争に関与しているって噂の、正体不明の秘密組織。政府も軍も企業も、裏で操っているっていう……」


「噂じゃない」


 ヴィクターは淡々と言った。


「少なくとも、オルフェウスはそう判断している」


 その瞬間だった。


 カチッ。


 暗闇の中で、小さな音がした。


「伏せろ!」


 ヴィクターが叫ぶ。


 直後、天井の照明が一斉に破裂した。


 火花が散り、地下空間が完全な闇に包まれる。続けざまに、壁面から無数の小型ドローンが飛び出した。赤い照準光が三人を捉える。


 ダニエルはリナの腕をつかみ、倒れ込むようにして遮蔽物の陰へ滑り込んだ。


 銃声。


 コンクリート片が頬をかすめる。


「リナ、敵の制御系統を探れ!」


「こんな状況で無茶を言わないで!」


「できるだろ!」


「……その自信、どこから来るのよ!」


 文句を言いながらも、リナは携帯端末を取り出した。画面に指を走らせ、ドローンの通信周波数を解析する。


「まずい。こいつら、通常の無線を使ってない。独立した暗号通信よ!」


「突破できるか?」


「三十秒ちょうだい!」


「十秒で頼む!」


「死にたいの!?」


 ヴィクターが遮蔽物から飛び出した。


 弾丸を避けながら、壁を蹴ってドローンの射線に入り込む。二発の銃声。先頭の二機が火花を散らして落下した。


 だが、敵はそれを待っていたかのように陣形を変えた。


 残ったドローンがヴィクターの逃げ道を塞ぎ、床面から細いワイヤーが射出される。


「ヴィクター!」


 ダニエルが叫んだ。


 ワイヤーが彼の右脚に絡みつく。


 次の瞬間、強烈な電流が走った。


 ヴィクターの身体が硬直する。


「くっ……!」


 ダニエルは遮蔽物から飛び出しかけた。


「来るな!」


 ヴィクターの怒声が響く。


「これは罠だ! お前まで――」


 言葉が途切れた。


 ダニエルの視界に、赤い文字が浮かび上がる。


《戦闘補助プログラム、起動可能》


《対象:敵性機械群》


《制御権限を要求しますか?》


 頭の奥が熱くなった。


 あの感覚だ。


 自分の意思とは無関係に、何かが脳の深部へ入り込もうとしている。


 ――使えば、また何かを失う。


 根拠はない。


 だが、確信だけがあった。


「ダニエル、何をしてるの!?」


 リナの声が遠ざかる。


 視界の端で、ヴィクターが膝をついた。


 その姿を見た瞬間、ダニエルの脳裏に別の光景がよみがえった。


 炎に包まれた施設。


 血に染まった床。


 誰かの叫び声。


 そして、目の前で倒れていく男。


 ――また、失うのか?


 ダニエルは奥歯をかみしめた。


「制御権限を……要求する」


《認証》


《第一号、生体情報を確認》


《限定的な制御権限を付与》


 赤い光が視界を走った。


「止まれ」


 ダニエルがつぶやいた。


 その一言で、ドローンが空中で停止した。


 銃声が途切れる。


 ワイヤーの電流が消え、ヴィクターの身体から力が抜けた。


 静寂。


 たった一言で、戦場そのものが凍りついていた。


「……嘘でしょ」


 リナが呆然とつぶやく。


 ダニエルは震える手を見つめた。


 自分が何をしたのか、完全には理解できない。


 ただ、頭の奥に何かが残っていた。


 機械の動作を把握する感覚。


 通信経路が流れ込んでくる感覚。


 まるで、他人の神経が自分の神経につながったかのようだった。


 そして、その代償はすぐに現れた。


「ぐっ……!」


 激しい頭痛が襲い、ダニエルは片膝をついた。


 鼻から血が垂れる。


 視界が歪んだ。


《神経負荷、上昇》


《制御権限を制限します》


《警告:第二段階の継続使用は、記憶領域に重大な損傷を与える可能性があります》


「ダニエル!」


 リナが駆け寄る。


 彼女の声を聞きながら、ダニエルは必死に意識を保った。


「大丈夫……だ」


「その顔で言わないで!」


 リナは彼の首筋に触れ、脈拍を確認した。


「心拍数が異常よ。今の力、何度も使ったら脳がもたないかもしれない」


「わかってる……」


「わかってない! あなた、自分が何をしたのか理解してるの?」


「理解してたら、こんなに苦労してない」


 ダニエルが苦笑すると、リナは怒ったように顔を背けた。


 だが、その手は彼の肩から離れなかった。


 ヴィクターが立ち上がり、停止したドローンを調べる。


「こいつらはオルフェウス製じゃない」


「見ればわかるの?」


「設計思想が違う。オルフェウスは対象を拘束する場合でも、最低限の安全装置を残す。こいつらにはそれがない」


 彼はドローンの外装を剥がした。


 内部には、黒い基板と小さな記録装置が埋め込まれていた。


 装置の表面には、銀色の紋章が刻まれている。


 円の中に、交差する二本の線。


 シャドウの標章だった。


「やっぱりな」


 ヴィクターの声が低くなる。


「俺たちを殺すつもりだったのか?」


 ダニエルが尋ねる。


「いや。殺すだけなら、もっと簡単な方法がある」


 ヴィクターは記録装置を取り出した。


「こいつらの目的は、お前の能力を確認することだ」


 リナが顔を上げた。


「じゃあ、さっきの信号を受け取って、ここに来たってこと?」


「そう考えるのが自然だ」


「ということは、世界中のネットワークに信号を送った時点で、私たちの居場所も知られた可能性があるわね」


 ダニエルは立ち上がろうとしたが、膝に力が入らなかった。


「……移動するぞ」


 ヴィクターが肩を貸す。


「歩けるのか?」


「歩ける」


「嘘をつくな。お前は今、まともに立てていない」


「お前にだけは言われたくない」


「口が動くなら問題ないな」


 ヴィクターは無理やりダニエルを立たせた。


 三人は地下鉄跡の出口へ向かった。


 その途中、リナの端末が振動した。


「ちょっと待って……新しい通信が入ってる」


「誰からだ?」


「発信元は不明。しかも、私たちが使っている通信規格を完全に偽装してる」


「内容は?」


 リナは画面を見つめた。


 次の瞬間、その顔から血の気が引いた。


「……ダニエル。これを見て」


 画面には、一枚の画像が表示されていた。


 白い研究施設。


 ガラス張りの部屋。


 その中央に立つ、幼い少年。


 赤く光る瞳。


 ダニエルと瓜二つの顔。


 画像の下には、短い文章が添えられていた。


《第一号の生存を確認した》


《第二段階の起動も確認した》


《次は、第三段階へ進む》


 その下に、さらに一行。


《リナ・アシュフォードの回収を開始する》


「……私?」


 リナの声が震えた。


 ダニエルは彼女から端末を受け取り、文章を読み返した。


 自分だけではない。


 リナもまた、計画の一部だった。


「リナ、お前は……何を隠してる?」


「知らない……本当に、何も知らない」


 彼女は首を振った。


「でも、一つだけ思い出したことがある」


「何だ?」


 リナは震える指で、自分の左手首をつかんだ。


 袖の下には、小さな傷跡がある。


 いつから存在するのか、彼女自身も知らない傷跡。


「私、子供の頃の記憶がほとんどないの。両親のことも、どこで生まれたのかも、はっきり覚えていない」


 沈黙が落ちた。


 ダニエルは、ゆっくりと彼女の顔を見た。


「……お前もか」


「ええ」


 リナの瞳に、恐怖が浮かんでいた。


「ねえ、ダニエル。私たち、本当に自分の意思でここにいるのかな?」


 答えられなかった。


 そのとき、ヴィクターの通信機が鳴った。


 彼は一瞬だけ画面を確認し、すぐに電源を切った。


「誰からだ?」


 ダニエルが尋ねる。


「関係ない」


「今さら隠し事か?」


「お前に話せば、余計に危険になる」


「それを決めるのはお前じゃない」


 二人の視線がぶつかった。


 ヴィクターはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……オルフェウスからだ」


「何と言っていた?」


「お前たち二人を連行しろ、と」


「二人?」


 リナが顔を上げる。


「俺じゃなくて?」


「俺は対象外らしい」


 ヴィクターは自嘲するように笑った。


「どうやら、組織は俺をまだ信用しているつもりらしい」


 ダニエルは、彼の表情を見逃さなかった。


 その笑みの奥には、怒りとも悲しみともつかない感情が潜んでいた。


「ヴィクター。お前は本当に、何も知らないのか?」


 ヴィクターは答えなかった。


 ただ、出口の向こうに広がる暗闇を見つめた。


「……知っていることもある」


 低い声だった。


「だが、今はまだ話せない」


「いつなら話せる?」


「お前が、自分の正体を知ったときだ」


 その瞬間、遠くでサイレンが鳴り始めた。


 地上から複数の車両が接近してくる。


 オルフェウスか。


 それともシャドウか。


 もはや、判別する意味さえないのかもしれない。


 ダニエルは血のにじむ手を握りしめた。


 自分の記憶を取り戻すこと。


 CODE Ωの正体を暴くこと。


 そして、リナを守ること。


 やるべきことは増えるばかりだった。


 だが、そのすべての中心に、自分がいる。


 それだけは、疑いようがなかった。


 同じ頃。


 超国家連邦の中枢にある、極秘研究施設。


 薄暗い観察室で、一人の男が巨大なモニターを見つめていた。


 モニターには、地下鉄跡で停止したドローンの映像が映し出されている。


 その映像を見ながら、男は満足そうに微笑んだ。


「第一号は、制御権限を獲得したか」


 隣に立つ研究員がうなずく。


「ただし、神経負荷は想定値を超えています。現状では、第三段階への移行に耐えられるかどうか……」


「問題ない」


 男は遮った。


「第一号は、まだ完成していない」


 彼は別のモニターへ視線を移した。


 そこには、ガラス張りのカプセルが並んでいた。


 そのうちの一つに、赤い瞳の少年が眠っている。


 カプセルの表示は、こうなっていた。


《CODE Ω》


《第零号》


《覚醒率――七十二パーセント》


 男はカプセルの前に立ち、静かに告げた。


「さあ、目を覚ませ」


 少年の指先が、わずかに動いた。


「お前の兄弟が、戻ってきたぞ」


 閉じられていた赤い瞳が、ゆっくりと開いた。


 そして少年は、誰もいないはずのカプセルの中で笑った。


「……やっとだ」


 その唇が、かすかに動く。


「今度こそ、僕がダニエルを殺す」

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