第7話 覚醒する悪魔
心臓が、異常な速度で脈打っていた。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
ダニエルの意識は、深い闇の底に沈んでいた。
手足の感覚はない。
音も、光も、何もない。
ただ、頭の中に機械音声だけが響いている。
『CODE Ω――第二段階、強制起動』
『神経接続を確認』
『戦闘補助プログラムを起動』
『記憶領域との接続を開始します』
「……誰だ?」
ダニエルは暗闇の中で声を上げた。
返事はない。
『警告。対象者の意識抵抗を検知』
『制御プロトコルを変更します』
『第一制限――解除』
その瞬間、世界が変わった。
暗闇の中に、無数の光が浮かび上がる。
数字。
映像。
敵の位置。
武器の種類。
身体の動き。
これまで意味のなかった情報が、ひとつの答えへとつながっていく。
そして、ダニエルは見た。
自分自身の姿を。
白い部屋の中央に立つ、もう一人の自分。
その瞳は赤く光っていた。
「お前は……誰だ?」
少年は答えなかった。
ただ、静かに手を伸ばした。
その指先がダニエルの額に触れた瞬間、記憶が流れ込んできた。
燃え上がる研究施設。
逃げ惑う研究者たち。
銃を構える兵士。
そして、床に倒れた一人の男。
ヴィクターだった。
だが、記憶の中のヴィクターは、今とは違っていた。
顔には血が流れ、片腕を負傷している。
その前に立つダニエルは、銃を握っていた。
「撃て、ダニエル!」
ヴィクターが叫ぶ。
「俺ごと撃て!」
ダニエルは銃口を震わせていた。
その向こうには、赤い瞳の少年が立っていた。
少年は笑っていた。
「選べ、ダニエル」
少年の声が響く。
「お前の仲間を救うか。それとも、世界を救うか」
次の瞬間、白い光が視界を覆った。
*
「ダニエル!」
誰かが叫んでいる。
「ダニエル、目を覚ませ!」
頬に衝撃が走った。
ダニエルは目を開けた。
最初に見えたのは、ヴィクターの顔だった。
その額から血が流れている。
周囲には倒れた兵士たち。
破壊された車両。
煙の立ち上る道路。
そして、少し離れた場所で、リナが端末を操作していた。
「……何が、起きた?」
ダニエルの声はかすれていた。
ヴィクターは答える前に、彼の顔を確認した。
「自分の名前は分かるか?」
「ダニエル……だろ?」
「他には?」
「他って何だよ」
ヴィクターは、ようやく息を吐いた。
「意識は戻っているようだな」
ダニエルは身体を起こそうとした。
その瞬間、全身に激痛が走った。
「ぐっ……!」
「無理をするな。お前は数分間、意識を失っていた」
「敵は?」
「撤退した。全員じゃないが、主力は引き上げた」
「俺たちは勝ったのか?」
「いや。見逃されたんだ」
ヴィクターの声には、苦々しさがあった。
「敵はお前を捕まえることが目的だった。俺たちを殺す気なら、もっと簡単にできたはずだ」
ダニエルは、自分の手を見つめた。
指先が震えている。
あの暗闇の中で見たものは、夢だったのか。
それとも、本当に自分の記憶なのか。
「ヴィクター……俺、何かしたのか?」
ヴィクターはすぐには答えなかった。
やがて、静かに口を開いた。
「お前が意識を失った直後、敵の隊長が倒れた」
「倒れた?」
「ああ。お前には触れていなかった。なのに、突然、動かなくなった」
ダニエルは眉をひそめた。
「それで?」
「残りの兵士たちも、次々に武器を落とした。通信装置はすべて停止。強化装備の制御系統まで焼き切れていた」
「……俺がやったのか?」
「分からない」
ヴィクターはダニエルの目を見つめた。
「だが、一つだけ確かなことがある」
「何だ?」
「お前の瞳が、赤く光っていた」
ダニエルは息を止めた。
暗闇の中で見た、もう一人の自分。
赤い瞳。
あの少年は、自分と何か関係がある。
「リナは?」
「無事だ」
ヴィクターが視線を向ける。
リナがこちらへ歩いてきた。
「まったく……あなたって、本当に厄介な人ね」
「助けてくれたことには感謝してる」
「分かってるなら、次からはもう少し自分を大切にして」
リナはそう言って、ダニエルの腕に医療用パッチを貼った。
「これで応急処置はできる。でも、病院には行けないわ。オルフェウスの監視網が生きている限り、あなたたちの位置はすぐに特定される」
「今の俺たちに、安全な場所はあるのか?」
「一つだけ」
リナは端末を操作し、地図を表示した。
「旧東京地下鉄の廃線区画。十年以上前に閉鎖された路線があるの。現在の監視ネットワークからは切り離されている」
「そこへ行こう」
ヴィクターが立ち上がった。
だが、ダニエルは動かなかった。
「待ってくれ」
二人が振り返る。
「さっき、俺の瞳が赤く光ったって言ったな?」
「ああ」
「そのとき、俺は何をしていた?」
ヴィクターは答えた。
「ただ、立っていた」
「それだけか?」
「……いや」
ヴィクターの顔が険しくなる。
「お前は、敵の隊長に向かって一言だけ言った」
「何て?」
ヴィクターは、あのときの声を思い出すように目を閉じた。
そして、低く告げた。
「『命令を解除しろ』」
ダニエルの背筋が凍った。
「それで、敵が倒れたのか?」
「正確には、お前がそう言った直後、敵の装備が停止した。隊長は意識を失い、他の兵士たちも動けなくなった」
リナが口を挟んだ。
「それが事実なら、単なる戦闘補助プログラムじゃないわ」
「どういう意味だ?」
「外部の機器を、遠隔操作なしで停止させた可能性がある。しかも、暗号化された軍用システムを一斉に」
リナはダニエルを見つめた。
「そんなことができるとしたら、通常のハッキングとはまったく違う技術よ」
「つまり?」
「あなたの脳そのものが、認証装置になっている可能性がある」
ダニエルは言葉を失った。
自分の脳が。
認証装置。
「……俺は人間なのか?」
思わず漏れた言葉だった。
リナはすぐに答えられなかった。
ヴィクターも、黙ったままだった。
その沈黙が、何よりも残酷だった。
*
午前五時。
三人は廃線区画へ向かっていた。
地上では、早朝の交通が始まりつつある。
人々はいつもどおり通勤し、店を開け、ニュースを眺めている。
誰も知らない。
世界の裏側で、何が起きているのか。
誰が情報を操り、誰が真実を隠しているのか。
そして、誰が人間の記憶に手を加えているのか。
地下へ続く階段を下りながら、ダニエルは考えていた。
もし、自分の記憶が意図的に消されていたのなら。
そこには、消さなければならない理由があったはずだ。
そして、その理由は今も生きている。
「リナ」
「何?」
「俺の脳に何か埋め込まれているか、調べられるか?」
リナは足を止めた。
「医療設備があれば、ある程度は。でも、神経構造そのものに手が加えられている場合、簡単には分からない」
「やってくれ」
「危険よ。検査の刺激で、さっきみたいな反応が起きるかもしれない」
「それでも知りたい」
ダニエルは、まっすぐに彼女を見つめた。
「自分が何者なのか分からないまま、誰かに操られるのは嫌なんだ」
リナはしばらく彼を見ていた。
やがて、小さく頷いた。
「分かった。安全な方法を探す」
その会話を、ヴィクターは黙って聞いていた。
彼は、ダニエルに言えないことを抱えていた。
三年前。
ECLIPSE作戦の最終局面。
彼は確かに、ダニエルを見た。
だが、あのときのダニエルは、ただの兵士ではなかった。
銃弾が飛び交う中、敵の動きを正確に予測し、仲間の退路を確保していた。
まるで、戦場全体を見下ろしているかのように。
そして最後に、ヴィクターへ向かって言ったのだ。
『もし俺が俺でなくなったら、迷わず殺してくれ』
あの言葉の意味を、ヴィクターはまだ知らない。
だが、今になってようやく分かったことがある。
ダニエルは、自分の中に何かがいることを知っていたのだ。
*
旧地下鉄の廃線区画。
三人が最深部へ到達したとき、そこには一台の古い端末が残されていた。
電源は切れている。
ケーブルも外されている。
それなのに、画面だけが淡く光っていた。
リナが近づく。
「……何これ?」
画面には、見慣れない文字列が並んでいた。
彼女が端末に触れると、突然、画面が切り替わった。
『生体認証を開始します』
ダニエルが一歩下がる。
「またか……」
『対象者を確認』
『ダニエル』
『認証完了』
三人は息をのんだ。
「電源は入っていないはずよ……」
リナが端末の裏側を確認する。
「バッテリーもない。外部電源にもつながっていない。なのに、どうして動いているの?」
画面に、新たな文章が表示された。
『おかえりなさい、第一号』
その下に、映像が浮かび上がった。
白い研究室。
中央に立つ少年。
赤い瞳。
ダニエルと瓜二つの顔。
少年は画面の向こうから、こちらを見つめていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
『やっと来たね、ダニエル』
ダニエルは動けなかった。
映像の少年は、まるで本当にこちらを認識しているかのようだった。
『君がここに来ることは、最初から分かっていた』
「お前は誰だ?」
少年は微笑んだ。
『僕の名前は――』
映像にノイズが走る。
音声が途切れかける。
それでも、少年の声ははっきりと届いた。
『第零号』
その瞬間、端末の画面に警告が表示された。
『CODE Ω――第二段階、進行率二十三パーセント』
『第三段階への移行条件を確認』
『第一号と第零号の接触』
ダニエルは画面を見つめた。
「第一号と第零号が接触したら……何が起きる?」
少年は、答えを知っているかのように笑った。
『世界が変わる』
映像が消えた。
直後、廃線区画全体に警報音が響き渡った。
リナの端末に、見たこともない信号が次々と表示される。
「嘘でしょ……!」
「どうした?」
「今の端末が、外部へ信号を送ってる! しかも、世界中の複数のネットワークに同時接続している!」
ヴィクターが銃を抜いた。
「場所が割れるまで、どれくらいだ?」
「分からない! 相手がどんなシステムを使ってるかも分からないの!」
ダニエルは、消えた画面を見つめていた。
第零号。
もう一人の自分。
そして、世界が変わるという言葉。
頭の奥で、再びあの声が響いた。
『目を覚ませ』
『お前は、まだ死んでいない』
ダニエルはゆっくりと拳を握った。
「……上等だ」
ヴィクターとリナが振り返る。
「俺の記憶を奪った連中が誰だろうと、もう逃げない」
彼の瞳が、一瞬だけ赤く光った。
「全部、突き止めてやる」
そのころ、地球の反対側。
超国家連邦の中央情報庁にある地下施設で、一人の男が報告を受けていた。
「CODE Ωの第二段階が進行しました」
男は窓のない部屋で、巨大な地球儀を見つめていた。
「第一号は?」
「覚醒反応を確認。第零号との接触条件も満たされつつあります」
男は、ゆっくりと振り返った。
その顔には、三年前のECLIPSE作戦で死亡したはずの研究主任の顔があった。
「そうか」
彼は微笑んだ。
「では、そろそろ世界に教えてやろう」
机の上に置かれた資料。
その表紙には、こう記されていた。
『CODE Ω――人類進化計画』
男は資料を閉じた。
「人間が、自分の意志で未来を選べる時代は終わる」
そして、静かに告げた。
「次は、シャドウを動かせ」




