第6話 追跡者
午前四時三十二分。
東京湾岸地区、第七倉庫街。
使われなくなった貨物倉庫の中で、ダニエルは壁にもたれていた。
身体のあちこちが痛む。
オルフェウスからの脱出。強化兵との戦闘。正体不明の通信。
たった数時間で、世界がひっくり返った。
「……状況を整理しよう」
ダニエルは指を折った。
「俺は三年前に死んだことになっている。記憶を失っていて、オルフェウスは俺を犯罪者に仕立てた。さらに、CODE Ωとかいう計画の中心にいるらしい」
「そうね」
リナが壁際に座り、破損した端末を分解していた。
「それに、あなたとそっくりな少年が映像に残っていた。ヴィクターは三年前の作戦について何か知っている。でも、全部は話していない」
「最後のは余計だ」
ヴィクターが倉庫の入口を警戒しながら言った。
「お前が隠してることを話せば、少しは状況が分かるんじゃないか?」
「話せることなら話している」
「便利な言葉だな」
「お前に信じてもらう必要はない」
ダニエルは舌打ちした。
こいつとは、どうやっても相性が悪い。
だが、今はヴィクターの戦闘能力が必要だった。
そしてヴィクターも、ダニエルを簡単には見捨てられない事情があるらしい。
問題はリナだった。
彼女は二人の言い争いを無視し、端末の基板をつなぎ直していた。
「リナ。何を調べてる?」
「さっきの無人機よ」
彼女は画面を起動した。
「逃走中に、上空を通過した無人機があったでしょ。あれの通信信号を、端末に一部だけ記録できたの」
「追跡されてるってことか?」
「可能性は高いわね。しかも、あの無人機の識別信号は民間企業のものに偽装されていた」
「オルフェウスの無人機じゃないのか?」
「断定はできない。でも、軍用暗号を使っていた。普通の民間企業が保有できる装備じゃないわ」
ヴィクターが振り返った。
「機体の位置は?」
「信号が弱すぎて特定できない。けど、通信の中継地点は分かった」
リナは画面に地図を表示した。
東京の東側。
湾岸地区から数キロ離れた場所に、赤い印が点滅している。
「ここ。閉鎖された物流センターよ」
「そこに何がある?」
「分からない。けど、あの無人機は一度そこを経由してから、私たちを追跡していた」
ダニエルは地図を見つめた。
「罠かもしれないな」
「ええ。だから、行くなら慎重にね」
ヴィクターが銃の弾倉を確認した。
「俺が先行する。お前たちは五十メートル後方からついてこい」
「一人で行くつもりか?」
「そのほうが安全だ」
「敵が何人いるかも分からないのに?」
「だからだ」
ヴィクターは倉庫の扉に手をかけた。
「お前はまだ戦闘経験が足りない。リナを守ることだけ考えろ」
ダニエルは反論しようとした。
だが、言葉を飲み込んだ。
悔しいが、ヴィクターの言うことは正しい。
今の自分では、強化兵と正面から戦えば勝ち目はない。
必要なのは、無謀な勇気ではなく、勝てる状況を作ることだった。
「分かった。ただし、何かあったらすぐ連絡しろ」
ヴィクターは一瞬だけダニエルを見た。
「……了解した」
*
物流センターは、湾岸道路の外れにあった。
十年以上前に建設された施設だが、現在は閉鎖され、周囲には雑草が生い茂っている。
巨大な搬入口には鎖がかかり、窓はすべて黒い板で塞がれていた。
ヴィクターは建物の外周を確認した。
入口は三か所。
正面の搬入口。
北側の非常口。
そして、屋上へ続く外階段。
監視カメラは見当たらない。
だが、ヴィクターは安心しなかった。
「カメラがないんじゃない。見えないだけだ」
彼は小型の探知機を取り出した。
微弱な電波が検出される。
「……やはりな」
壁の向こうに、複数のセンサーが設置されていた。
赤外線。音響。振動。
侵入者を検知するための設備だ。
「ここは閉鎖施設なんかじゃない。誰かが今も使っている」
ヴィクターは通信機を起動した。
「ダニエル、聞こえるか」
『聞こえる。状況は?』
「入口にセンサーがある。北側から侵入する」
『了解。リナがセンサーの信号を解析してる。少し待ってくれ』
ヴィクターは北側の非常口へ移動した。
そのときだった。
背後で、小さな金属音が鳴った。
ヴィクターは即座に振り返り、銃を構えた。
誰もいない。
だが、地面には新しい足跡が残っていた。
一人分ではない。
複数人。
そして、その足跡はすべて、建物の中へ向かっていた。
「ダニエル、聞こえるか」
『どうした?』
「俺以外にも、侵入者がいる」
『オルフェウスの追手か?』
「分からない。だが、足跡が新しい」
ヴィクターは銃を握り直した。
「予定変更だ。お前たちも来い。ただし、俺の合図があるまで入口には近づくな」
『了解』
通信を切ると、ヴィクターは非常口のロックを解除した。
扉の向こうは、真っ暗だった。
彼は暗視装置を起動し、静かに中へ入った。
*
「……嫌な感じがする」
ダニエルは、物流センターの外で呟いた。
「何が?」
リナが尋ねる。
「ここに来る前から、誰かに見られている気がするんだ」
「無人機のせいじゃない?」
「それだけじゃない」
ダニエルは周囲を見回した。
道路。
電柱。
放置された車。
どこにも人影はない。
それなのに、背中に視線が突き刺さっているような感覚が消えなかった。
「ダニエル、ひとつ聞いていい?」
リナが声を落とした。
「あなた、ヴィクターを本当に信用してる?」
「信用してない」
ダニエルは即答した。
「でも、今は協力するしかない。あいつが何か隠しているのは間違いないが、敵とは限らない」
「もし、三年前にあなたを裏切った人間だったら?」
「そのときは、本人に聞く」
リナは少しだけ笑った。
「あなたって、意外と単純なのね」
「悪かったな」
「褒めてるのよ」
その瞬間、リナの端末が警告音を鳴らした。
「待って……!」
画面に、複数の信号が表示される。
「施設の周囲に熱源反応! 少なくとも六人!」
ダニエルは身構えた。
「どこから来てる?」
「東と南。こっちを包囲しようとしてる!」
ダニエルは舌打ちした。
ヴィクターは施設の中。
自分たちは外。
このままでは、三人が分断される。
「リナ、ヴィクターに連絡してくれ。俺たちが包囲されてるって」
「もう送った。でも、返事がない!」
ダニエルは周囲を見回した。
敵の目的は何だ?
物流センターを調べることなのか。
それとも、ここに来た自分たちを捕らえることなのか。
もし自分たちが狙いなら、なぜわざわざここまで誘導した?
「……そういうことか」
ダニエルは、ある可能性に気づいた。
「リナ。敵は俺たちを包囲しているんじゃない」
「え?」
「逃げ道を塞いでいるんだ。つまり、敵は俺たちを殺すつもりなら、もっと簡単な方法があったはずだ」
「じゃあ、目的は?」
「生け捕りだ」
その瞬間、暗闇から声が響いた。
「正解だ、ダニエル」
黒い戦闘服を着た男が、道路の中央に立っていた。
顔は黒いマスクで覆われている。
右腕には、見覚えのある紋章。
オルフェウス。
だが、その紋章には赤い線が一本引かれていた。
「武器を捨てろ。お前たちを拘束する」
ダニエルは男を睨んだ。
「誰の命令だ?」
「お前が知る必要はない」
「俺を犯罪者に仕立てた連中か?」
男は答えなかった。
代わりに、右手を上げた。
周囲の暗闇から、五人の兵士が姿を現す。
全員が強化装備を身につけていた。
リナが小さく息をのむ。
「ダニエル……あいつら、普通の兵士じゃない」
「分かってる」
ダニエルはゆっくりと両手を上げた。
「抵抗するつもりはない」
リナが驚いた顔で彼を見る。
「何を言ってるの!?」
「今は、な」
ダニエルは男の目を見つめた。
「ひとつだけ答えてくれ。俺を捕まえたあと、どうするつもりだ?」
男は数秒、沈黙した。
そして、淡々と言った。
「記憶を消去する」
ダニエルの表情が凍りついた。
「……またか」
「お前の存在は、計画にとって危険すぎる。記憶を消し、必要な情報だけを抽出する。それが上層部の決定だ」
「俺を人間だと思ってないのか?」
「お前は、ただの実験体だ」
その言葉が、ダニエルの胸に突き刺さった。
実験体。
自分は何者なのか。
誰のために生まれたのか。
その答えを探そうとするたびに、誰かが記憶を奪おうとする。
「……ふざけるな」
ダニエルの手が下がった。
「俺は誰の所有物でもない」
男が手を振り下ろす。
「確保しろ!」
兵士たちが一斉に動いた。
ダニエルはリナの腕をつかみ、横の車の陰へ飛び込んだ。
銃声が響く。
弾丸が車体を貫通し、火花が散った。
「ダニエル、どうするの!?」
「時間を稼ぐ!」
「無茶よ! あいつら、強化兵よ!」
「知ってる!」
ダニエルは車の下に転がっていた金属棒を拾った。
武器としては心もとない。
だが、何もないよりはましだ。
兵士の一人が接近してきた。
ダニエルは金属棒を振るった。
相手の腕に当たる。
しかし、装甲に弾かれた。
兵士の拳が飛んでくる。
ダニエルはかろうじて避けたが、肩をつかまれ、車に叩きつけられた。
息が詰まる。
次の攻撃が迫る。
そのとき、兵士の背後で火花が散った。
ヴィクターだった。
「遅くなったな」
「遅すぎるだろ!」
ヴィクターは敵の腕を取り、関節を極めて地面に倒した。
「文句は生き残ってから言え!」
彼は敵の武器を奪い、残りの兵士に銃口を向ける。
だが、敵の隊長は動じなかった。
「ヴィクター・レイン。お前も命令違反を重ねるつもりか」
「命令の正当性が確認できない」
「最高評議会の命令だ」
「なら、その評議会に直接確認する」
隊長は小さく笑った。
「もう遅い」
彼が指を鳴らす。
その瞬間、ダニエルの通信機から甲高い音が鳴り響いた。
「うっ……!」
頭の中に、鋭い痛みが走る。
視界が歪む。
耳鳴り。
吐き気。
そして、脳裏に次々と映像が流れ込んできた。
白い研究室。
拘束台に横たわる自分。
ガラス越しに見つめる研究者たち。
頭部に接続された無数のケーブル。
『記憶領域、初期化を開始』
『第一号、抵抗反応を確認』
『神経制御プログラム、再起動』
「やめろ……!」
ダニエルは頭を抱えた。
映像の中で、白衣の男がこちらを見ていた。
その顔を見た瞬間、ダニエルは息をのんだ。
見覚えがある。
三年前の記憶ではない。
もっと最近だ。
オルフェウス本部の廊下ですれ違った、あの黒いスーツの男。
アラン・クロスのIDを使っていた人物だ。
「お前が……!」
ダニエルは顔を上げた。
「お前が俺の記憶を消したのか!」
隊長は答えなかった。
ただ、通信機を操作した。
「対象者の記憶領域に反応あり。処置を継続する」
頭痛がさらに強くなる。
ダニエルの視界が暗くなっていく。
そのとき。
ヴィクターが、ダニエルと隊長の間に割って入った。
「やめろ!」
「退け、ヴィクター」
「断る」
隊長が銃を構える。
「お前も処分対象になるぞ」
ヴィクターは一歩も引かなかった。
「なら、そうしろ」
ダニエルは、ぼやけた視界の中でヴィクターを見つめた。
なぜだ。
なぜ、そこまでして自分を守る?
こいつは何を知っている?
そして、どうして――。
自分を見捨てないのか。
ヴィクターが敵に向かって走り出す。
銃声が響いた。
ダニエルの意識が、闇へ落ちていく。
最後に聞こえたのは、誰かの声だった。
『ダニエル。聞こえるか』
知らない声。
だが、その声は確かに、自分の名前を呼んでいた。
『目を覚ませ』
『お前は、まだ死んでいない』
そして、暗闇の中に、赤い瞳が開いた。
『CODE Ω――第二段階、強制起動』
ダニエルの心臓が、大きく脈打った。




