第5話 もう一人
「……やはり、お前だけじゃなかったのか」
ヴィクターの呟きが、破壊された隔離区画に響いた。
ダニエルはモニターを見つめていた。
映像に映る少年。
自分と瓜二つの顔。
違うのは、瞳だけだった。
少年の瞳は、血のように赤く光っていた。
『第零号――覚醒条件、未達』
『第一号――生存確認』
「ヴィクター。説明しろ」
ダニエルは、彼の胸ぐらをつかんだ。
「第零号って何だ? 第一号ってのは俺のことか?」
「手を離せ」
「答えろ!」
ヴィクターの目が鋭くなる。
一瞬、二人の間に緊張が走った。
だが、ヴィクターはダニエルを殴らなかった。
代わりに、静かに言った。
「俺にも分からないことがある」
「嘘をつくな。三年前の作戦に参加していたんだろ!」
「そうだ。だが、俺たちに与えられた任務は、施設から研究データを回収することだけだった。研究内容も、実験対象も知らされていない」
「だったら、どうして俺の顔を見てそんな反応をする?」
ヴィクターは口を閉ざした。
その沈黙が、ダニエルの怒りをさらに強くした。
「お前は何か知っている。全部話せとは言わない。だが、俺に関係することくらい教えろ!」
「……三年前、俺はお前を見た」
ヴィクターは、ようやく口を開いた。
「燃え上がる研究施設の中で、お前は一人の少年を抱えていた」
ダニエルの呼吸が止まった。
「少年?」
「顔までは確認できなかった。だが、お前はそいつを逃がそうとしていた。俺が撤退を命じられたとき、お前は命令に従わなかった」
「俺が?」
「ああ。通信で何度も呼びかけた。だが、お前は最後まで戻ってこなかった」
ヴィクターの声が低くなる。
「その直後、施設が爆発した。俺たちは、お前も死んだと思っていた」
ダニエルは頭を抱えた。
白い部屋。
赤い警告灯。
ガラスの向こうの少年。
逃げろ。
断片的な記憶が、脳裏を駆け抜ける。
そして、もう一つ。
燃え上がる通路の中で、自分の腕をつかむ小さな手。
『ダニエル、行かないで!』
「……っ!」
激しい頭痛が襲った。
ダニエルは膝をついた。
「ダニエル!」
リナが駆け寄る。
「大丈夫!?」
「今の……誰の声だ……?」
視界がぼやける。
誰かが泣いている。
自分の名前を呼んでいる。
だが、その顔だけが思い出せない。
「無理に思い出そうとするな」
ヴィクターが言った。
「記憶の欠落が意図的なものなら、無理な刺激が危険を引き起こす可能性がある」
「危険って何だよ……!」
ダニエルは顔を上げた。
「俺の記憶に、何が仕掛けられてる?」
ヴィクターは答えなかった。
そのとき、リナが端末を操作する手を止めた。
「二人とも、まずいことになった」
「何だ?」
「さっきの爆発を、施設のセキュリティが検知した。警備部隊がこっちに向かってる」
「説明すればいいだろ。襲撃されたんだ」
「問題はそこじゃない」
リナは画面を二人に向けた。
『隔離区画への不正侵入を確認』
『容疑者――ダニエル』
『処分権限――最高評議会』
ダニエルは目を疑った。
「……俺が容疑者?」
「誰かが記録を書き換えたのよ。監視映像では、あなたが警備システムを突破して、機密区画に侵入したことになってる」
「ふざけるな。俺はリナに呼ばれて来ただけだぞ!」
「分かってる。でも、システム上はあなたが侵入者で、あの強化兵もあなたが呼び込んだことになってる」
ヴィクターが舌打ちした。
「俺たちをまとめて消すつもりか」
「あなたも容疑者に入ってるわよ、ヴィクター」
「だろうな」
ヴィクターは拳銃をしまい、破壊された扉を見た。
「ダニエル。今から俺の言うことを聞け」
「何だ?」
「ここから逃げるぞ」
「逃げる? 俺たちはオルフェウスの人間だろ!」
「そのオルフェウスが、お前を殺そうとしている」
ヴィクターの言葉に、ダニエルは何も返せなかった。
「今、ここに残れば、弁明する機会もなく拘束される。最悪の場合、二度と外には出られない」
「でも、逃げたら本当に裏切り者になる」
「もうなっている」
ヴィクターは端末を見せた。
画面には、緊急指名手配の通知が表示されていた。
『ダニエル――機密情報窃取および施設襲撃の容疑』
『ヴィクター・レイン――職務放棄および容疑者逃亡幇助の容疑』
『発見次第、身柄を確保せよ』
ダニエルは乾いた笑いを漏らした。
「たった数分で、俺たちは犯罪者か」
「情報を操作する側に回れば、それくらい簡単だ」
ヴィクターは扉の向こうを見た。
「リナ。脱出経路は?」
「正規の通路は全部封鎖されてる。地下の廃棄物搬送路なら、外部の排出口につながってるけど……」
「けど?」
「最後に使われたのは八年前。途中で崩落している可能性がある」
「他に選択肢は?」
「ないわ」
ヴィクターは頷いた。
「行くぞ」
*
三人は、施設の裏側にある整備通路へ走った。
警報音が鳴り続けている。
天井の監視カメラが、赤い光を点滅させながら彼らを追っていた。
リナが端末を操作する。
「監視カメラを三十秒だけ停止させる。今のうちに!」
「三十秒でどこまで行ける?」
「走れば、廃棄物搬送路の入口まで!」
「十分だ」
ヴィクターが先頭に立つ。
その動きは、さっきの訓練とは比べものにならないほど速かった。
ダニエルも必死についていく。
曲がり角を抜けた瞬間、前方に警備兵が二人現れた。
「止まれ! 武器を捨てろ!」
ヴィクターは足を止めなかった。
警備兵が銃を構える。
その瞬間、ダニエルが横の非常用消火装置を作動させた。
白い煙が通路に広がる。
「今だ!」
三人は煙の中を駆け抜けた。
背後から銃声が響く。
弾丸が壁に穴を開けた。
ヴィクターは振り返りざまに警備兵の武器を弾き飛ばし、二人を無力化する。
「行け!」
ダニエルとリナが先へ進む。
やがて、錆びついた巨大な扉が見えてきた。
廃棄物搬送路。
扉の横には、古い認証装置が取りつけられている。
「ロックがかかってる!」
リナが端末を接続する。
「解除まで二分!」
「長すぎる」
「文句があるなら、自分でやって!」
「悪かった!」
ダニエルは周囲を見回した。
通路の奥から、複数の足音が近づいてくる。
追手だ。
「ヴィクター、あと何秒持ちこたえられる?」
「敵の人数による」
「十人だ」
「なら、十秒だ」
「短すぎるだろ!」
「文句を言う暇があるなら、何とかしろ!」
ヴィクターが通路の中央に立ち、拳銃を構えた。
最初の警備兵が角から飛び出してくる。
銃声。
ヴィクターは遮蔽物を利用しながら、正確に敵の武器だけを撃ち抜いていく。
だが、敵の数は多かった。
次々と増援が押し寄せる。
「残り一分!」
リナが叫ぶ。
ヴィクターの弾薬が尽きた。
彼は拳銃を捨て、接近してきた警備兵を殴り倒す。
一人。
二人。
三人。
だが、四人目の攻撃を受け、壁に叩きつけられた。
「ヴィクター!」
ダニエルは駆け寄ろうとした。
「来るな!」
ヴィクターが叫ぶ。
「お前まで捕まったら終わりだ!」
警備兵の一人が、ヴィクターに銃口を向けた。
その瞬間。
ダニエルの頭の中で、何かが弾けた。
通路の構造。
敵の位置。
照明の角度。
床に転がる工具箱。
すべてが、一瞬でつながった。
「ヴィクター、伏せろ!」
ダニエルは工具箱を蹴り飛ばし、壁の非常用電源を叩き割った。
通路が暗闇に包まれる。
同時に、工具箱が床を滑り、警備兵の足元にぶつかった。
体勢を崩した敵の銃口が逸れる。
ヴィクターは、その一瞬を逃さなかった。
暗闇の中で相手の腕をつかみ、銃を奪い取る。
そして、残りの警備兵を牽制した。
「……お前、今のをどうやった?」
「説明はあとだ!」
ダニエル自身も驚いていた。
考えるより先に、身体が動いた。
まるで、この状況を以前にも経験したことがあるように。
「解除できた!」
リナの声とともに、扉が開いた。
三人は廃棄物搬送路へ飛び込む。
ヴィクターが最後に扉を閉めた。
数秒後、向こう側から激しい衝撃音が響く。
追手が扉を破ろうとしている。
「走れ!」
三人は暗い通路を駆け抜けた。
*
廃棄物搬送路の先には、海へ通じる排出口があった。
重い鉄格子を押し開けると、冷たい夜風が吹き込んでくる。
東京湾。
遠くには、高層ビル群の明かりが見えた。
三人は、ようやく地上へ脱出した。
リナは濡れた髪を払い、息を整えた。
「……最悪。私の端末も、施設の認証情報も全部使えなくなった」
「俺たちは正式に追われる身だな」
ヴィクターは海の向こうを見つめた。
「しばらく身を隠す必要がある」
ダニエルは、夜空を見上げた。
つい数時間前まで、自分はオルフェウスの一員だった。
世界の均衡を守るために戦う組織。
その理念を、少なくとも信じようとしていた。
だが今は違う。
組織は自分を犯罪者に仕立て、記憶を消そうとしている。
「……俺は、何をしたんだ?」
ダニエルが呟く。
「三年前、あの施設で何が起きた?」
ヴィクターは答えなかった。
リナも何も言わない。
答えを持っていないのか。
それとも、何かを隠しているのか。
そのとき、リナの端末が一度だけ振動した。
「待って……通信が入った」
「誰からだ?」
「分からない。通常の回線じゃない。暗号化された緊急通信よ」
リナは受信を許可した。
ノイズの向こうから、男の声が聞こえてきた。
『……聞こえるか、ダニエル』
ダニエルの身体が硬直した。
その声には、聞き覚えがあった。
いや、聞き覚えどころではない。
記憶の奥底で、何度も自分を呼んでいた声だ。
「誰だ……?」
『時間がない。お前たちは、オルフェウスに戻るな』
「お前は誰だ!」
『私は、三年前にお前を逃がした人間だ』
ダニエルは息をのんだ。
「アラン・クロスか?」
通信の向こうで、短い沈黙があった。
『……その名前を、どこで知った?』
「答えろ! 三年前、俺に何があった!?」
『今は話せない。だが、一つだけ伝えておく』
ノイズが強くなる。
『お前の記憶を消したのは、シャドウではない』
ダニエルはヴィクターを見た。
ヴィクターの表情が変わった。
『お前の記憶を消したのは――』
その瞬間、通信が途切れた。
「おい! 続きを言え!」
ダニエルは端末を操作したが、回線は完全に切断されていた。
リナが青ざめた顔で画面を見つめる。
「通信元を追跡できない……発信地点が、どこにも存在しないの」
「そんなことがあるのか?」
「普通はあり得ない。でも、この暗号方式……」
リナの指が止まった。
「これ、三年前に封印された軍用暗号よ。現在のオルフェウスでも使われていない」
ヴィクターが低く言った。
「ECLIPSE作戦で使われていた暗号だ」
三人の間に、重い沈黙が落ちた。
ダニエルは黒いカードを取り出した。
CODE Ω。
カードの表面に、街灯の光が反射する。
その裏側に、これまで気づかなかった細い文字が浮かび上がっていた。
――第二段階、開始。
そして、その下に新たな一文が表示された。
――次の標的は、ヴィクター・レイン。
ダニエルは顔を上げた。
「ヴィクター……これ、どういうことだ?」
ヴィクターはカードを見つめたまま、動かなかった。
やがて、彼は静かに拳を握った。
「……なるほどな」
「何が分かった?」
「俺が、お前を監視するよう命じられた理由だ」
ヴィクターの目に、初めて明確な怒りが浮かんだ。
「俺自身も、計画の一部だったということだ」
東京湾の上を、黒い無人機が一機、音もなく通過した。
そのカメラが三人を捉える。
機体内部の画面に、三つの人物データが表示された。
ダニエル。
リナ・アシュフォード。
ヴィクター・レイン。
そして、画面の奥に座る人物が、静かに命令を下した。
「三人とも、生かしておけ」
「理由をお聞かせください」
「まだ必要だからだ」
人物は、手元の資料を閉じた。
表紙には、こう記されていた。
『CODE Ω――適合者一覧』
その最上段には、ダニエルの名前。
二段目には、ヴィクターの名前。
そして三段目には――
リナ・アシュフォード。
「駒は、まだ揃っていない」
暗闇の中で、その人物が笑った。
「ゲームを始めよう」




