第4話 裏切り者
午前二時十七分。
オルフェウス東京本部、地下七階。
一般職員は立ち入りを許されない情報管理区画で、ひとつの警告音が鳴り響いた。
『警告。最高機密データへの不正アクセスを検知』
無人のサーバー室に、赤いランプが点滅する。
『アクセス元を特定できません』
『アクセス権限――最高評議会』
『対象ファイル――CODE Ω』
わずか三秒後。
警告は消えた。
記録も消えた。
まるで、何事もなかったかのように。
だが、サーバー室の監視カメラには、一瞬だけ奇妙な映像が残っていた。
誰もいないはずの部屋。
そのガラス壁に、ひとつの文字が浮かび上がっていたのだ。
Ω。
そして、その下に。
――第零号、起動準備完了。
*
「ダニエル。起きてる?」
通信機から聞こえてきたリナの声に、ダニエルは目を開けた。
ベッド脇の時計は午前二時二十分を示している。
「起きてる。何があった?」
『今すぐ情報分析室に来て。誰にも見られないように』
「ずいぶん物騒だな」
『冗談を言ってる場合じゃないの。あなたに関係するデータが動いた』
ダニエルは上着をつかみ、部屋を飛び出した。
オルフェウス本部は、夜中でも完全には眠らない。
地下通路を歩く職員。無言で移動する警備兵。壁面に映し出される世界各地の監視映像。
ここでは、世界中の出来事が数字と映像に変換され、分析されている。
戦争の兆候。
テロ組織の動き。
国家間の秘密交渉。
そして、人知れず消される人間の記録。
ダニエルは通路の角を曲がった。
その瞬間、前方から歩いてきた男と肩がぶつかった。
「失礼」
男は短く言い、通り過ぎようとした。
黒いスーツ。無表情。左手には小型の端末。
ダニエルは、男の手首に刻まれた小さな傷を見た。
なぜか、胸の奥がざわついた。
「待ってくれ」
男が振り返る。
「何か?」
「……いや。何でもない」
自分でも理由は分からなかった。
ただ、その男を知っている気がした。
男は一瞬だけダニエルを見つめ、再び歩き出した。
数秒後。
ダニエルの通信機に、リナからメッセージが届いた。
『今、あなたの前を通った男。誰?』
ダニエルは足を止めた。
「見てたのか?」
『監視カメラで確認した。あの人、情報管理部の人間よ。でも、変なの』
「何が?」
『今日、死亡扱いになった人間のIDを使ってる』
ダニエルの表情が変わった。
「死亡扱い?」
『そう。三年前に死亡した職員のID。しかも、その職員の名前は――』
リナが言葉を切った。
「名前は?」
『アラン・クロス』
その名前を聞いた瞬間、ダニエルの頭に激痛が走った。
白い部屋。
金属製の扉。
床に広がる赤い液体。
誰かが叫んでいる。
「アラン、そいつを連れて逃げろ!」
ダニエルは壁に手をついた。
息ができない。
視界が揺れる。
記憶の中で、誰かがこちらに手を伸ばしていた。
顔は見えない。
ただ、その人物の口が動いた。
――ダニエル。
「……っ!」
映像が途切れた。
ダニエルは荒い息を吐いた。
「リナ……その男を追えるか?」
『もう追跡してる。でも、今の映像を最後に監視カメラから消えた』
「消えた?」
『正確には、映像が三十秒だけ欠落してる。その間に、どこかへ移動したみたい』
「三十秒で、監視網から消えるなんて可能なのか?」
『普通は無理。でも、オルフェウスの全監視システムを操作できる人間なら別』
ダニエルは拳を握りしめた。
最高評議会の権限。
消された記録。
そして、三年前に死んだ人間のID。
偶然で片づけるには、できすぎている。
「リナ。俺の部屋に戻って、端末を調べてくれ。誰かが俺の記録を監視してる可能性がある」
『了解。あなたは?』
「情報分析室に行く」
『ちょっと待って。ひとつだけ聞いていい?』
「何だ?」
『さっきの男を見たとき、何か思い出した?』
ダニエルは答えられなかった。
いや、答えたくなかった。
「……何も」
そう言って、通信を切った。
嘘をついたのは、初めてだった。
*
情報分析室。
リナ・アシュフォードは、十数枚のモニターを同時に操作していた。
黒い髪を後ろでまとめ、青い瞳を画面に向けている。
彼女の前には、オルフェウスの機密データが並んでいた。
その中のひとつに、赤い警告が表示されている。
『アクセス拒否』
『権限不足』
『アクセス拒否』
「……やっぱり」
リナは唇をかんだ。
ダニエルが持ち帰った黒いカード。
CODE Ω。
あのカードに関係する情報は、通常の最高機密よりさらに深い階層に隠されている。
彼女の権限では、存在そのものを確認することすら難しい。
それなのに、つい先ほど。
彼女の端末に、一瞬だけアクセス許可が表示された。
対象ファイルは、三年前の極秘作戦記録。
ファイル名は――
『ECLIPSE』
リナはすぐに開こうとした。
だが、画面には別の文字が浮かび上がった。
『閲覧するな』
彼女の指が止まった。
誰かが、直接メッセージを送ってきたのだ。
送信元は不明。
『閲覧した場合、対象者ダニエルの生存権限が失効する』
「……何よ、それ」
リナは急いでメッセージの発信元を追跡した。
アクセス経路は、オルフェウス内部。
だが、途中から暗号化された複数の回線に分岐している。
その先にあるのは、ひとつの名前だった。
ヴィクター・レイン。
「……ヴィクター?」
彼が送ったのか。
それとも、誰かが彼のIDを使っているのか。
リナは判断できなかった。
そのとき、背後から声がした。
「何を見ている?」
リナは反射的に画面を閉じた。
振り返ると、そこにヴィクターが立っていた。
「何でもないわ」
「こんな時間に、何でもない仕事か?」
「あなたこそ、どうしてここに?」
ヴィクターは答えなかった。
代わりに、彼女のモニターを見た。
「ECLIPSEにアクセスしたのか」
リナの表情が固まった。
「……知ってるの?」
「質問に答えろ」
「アクセスしようとした。でも、警告が出た」
ヴィクターは目を細めた。
「警告の内容は?」
リナは数秒迷った。
そして、画面を再び開いた。
そこには、さきほどのメッセージが残っていた。
『閲覧するな』
『閲覧した場合、対象者ダニエルの生存権限が失効する』
ヴィクターの顔から、血の気が引いた。
「誰が送った?」
「分からない。あなたのIDが表示されていたけど」
「俺じゃない」
即答だった。
「俺はそんなメッセージを送っていない」
「じゃあ、誰があなたのIDを使ってるの?」
ヴィクターは答えなかった。
彼は端末を取り出し、内部回線に接続した。
数秒後。
画面に表示されたのは、彼自身のアクセス履歴だった。
午前二時十二分。
最高機密データへのアクセス。
午前二時十三分。
警告メッセージの送信。
午前二時十四分。
履歴の削除。
すべて、ヴィクター本人の認証で実行されている。
「……あり得ない」
彼の声が低くなった。
「俺はこの時間、別の区画にいた」
「つまり、誰かがあなたの認証を複製した?」
「それだけじゃない」
ヴィクターは履歴を拡大した。
認証情報の末尾に、見覚えのない記号があった。
Ω。
彼は端末を強く握った。
「ダニエルを呼べ」
「どうして?」
「今すぐだ」
「理由を説明して」
「時間がない!」
その声に、リナは息をのんだ。
ヴィクターが声を荒らげるところを、彼女は初めて見た。
*
三人が合流したのは、情報分析室の奥にある隔離区画だった。
ダニエルは、リナから画面を見せられた。
自分の名前。
CODE Ω。
そして、見覚えのない作戦名。
ECLIPSE。
「この作戦は何だ?」
ヴィクターは沈黙していた。
「知ってるんだろ?」
「……三年前、オルフェウスで極秘作戦が実行された」
ヴィクターは、ようやく口を開いた。
「作戦の詳細は、最高評議会によって封印されている。参加者の記録も、ほとんど削除された」
「参加者は?」
「俺も、その一人だ」
ダニエルの呼吸が止まった。
「お前が?」
「ああ」
「じゃあ、俺も参加していたのか?」
ヴィクターは答えなかった。
その沈黙が、答えのように感じられた。
「思い出せないんだ」
ダニエルは頭を押さえた。
「三年前のことが、何ひとつ。なのに、さっきアラン・クロスという名前を聞いた瞬間、記憶が戻りかけた」
「アラン……」
ヴィクターの表情が変わった。
「その名前を、どこで聞いた?」
「廊下ですれ違った男のIDが、三年前に死んだ職員のものだった。リナが調べてくれた」
「顔は?」
「覚えてる。だが、あいつが本当にアラン本人なのかは分からない」
ヴィクターは目を閉じた。
何かを決断しようとしているようだった。
「いいか、ダニエル。これから俺が話すことは、誰にも漏らすな」
「信用しろって?」
「信用する必要はない。ただ、聞け」
ヴィクターは周囲を確認した。
「三年前のECLIPSE作戦で、オルフェウスはある施設を襲撃した。目的は、極秘研究データの回収だ」
「何の研究だ?」
「それが分からない。作戦参加者には、必要最低限の情報しか与えられていなかった」
「その作戦で、何が起きた?」
ヴィクターは一瞬だけ視線をそらした。
「施設は爆発した。多数の死傷者が出た。俺たちは撤退命令を受けた」
「俺は?」
「……お前は、そこにいた」
ダニエルの耳鳴りが強くなった。
「俺は何をしていた?」
「それは――」
その瞬間、隔離区画の照明が消えた。
非常灯が赤く点灯する。
『警告。施設内に未登録の生体反応を検知』
『警告。隔離区画への侵入を確認』
リナが端末を操作する。
「誰かが入ってくる!」
「人数は?」
「一人……いや、違う。反応が二つある!」
ヴィクターは腰のホルスターから拳銃を抜いた。
「ダニエル、後ろへ下がれ。リナ、システムを遮断しろ」
「相手は誰なの?」
「分からない。だが、俺たちの会話を聞かれた可能性がある」
隔離区画の扉が、ゆっくりと開いた。
暗闇の向こうに、人影が立っている。
黒い戦闘服。
顔を覆う無機質なマスク。
胸元には、オルフェウスの紋章があった。
「オルフェウスの人間か?」
ダニエルが問いかける。
返事はない。
次の瞬間、人影が動いた。
速い。
ヴィクターが引き金を引く。
だが、銃弾は壁に当たった。
敵は銃撃を避けながら、一気に距離を詰めてきた。
「伏せろ!」
ヴィクターがダニエルを突き飛ばした。
敵の刃が、ヴィクターの肩をかすめる。
火花が散った。
刃は通常の金属ではない。
高周波振動によって、装甲すら切断する特殊ブレードだった。
ヴィクターは相手の手首をつかみ、関節を狙って攻撃する。
しかし、敵は異常な力でその腕を振りほどいた。
「こいつ……強化兵か!」
ヴィクターの声に緊張が走る。
敵は彼を押し返すと、まっすぐダニエルへ向かった。
狙いはヴィクターではない。
ダニエルだ。
「なぜ俺を狙う!?」
ダニエルは横へ飛び、敵の刃をかわした。
だが、敵はすぐに体勢を立て直す。
二撃目。
ダニエルは机を蹴り上げて攻撃を遮った。
机が真っ二つに裂ける。
「冗談だろ……!」
勝てない。
今の自分では、まともに戦っても勝ち目がない。
ならば、戦わなければいい。
ダニエルは敵の動きを観察した。
右腕の攻撃速度は異常に速い。
だが、攻撃の直後、左足の動きがわずかに遅れる。
強化された筋力に対して、身体の制御が追いついていないのだ。
「ヴィクター! 左足だ! 攻撃の直後に動きが止まる!」
ヴィクターは即座に反応した。
敵の攻撃を誘い、刃が振り下ろされた瞬間に身を沈める。
そして、敵の左足を蹴り払った。
体勢が崩れる。
その一瞬を逃さず、ヴィクターは敵の腕をねじ上げ、床に叩きつけた。
「今だ!」
ダニエルが飛び込み、敵の武器を蹴り飛ばす。
ヴィクターが銃口を突きつけた。
「動くな!」
敵は動かなかった。
だが、マスクの奥から、かすかな電子音が鳴った。
リナが叫ぶ。
「離れて! 体内に爆発物がある!」
ヴィクターがダニエルの襟をつかみ、後方へ飛び退く。
次の瞬間。
轟音とともに、敵の身体が爆発した。
衝撃波が隔離区画を揺らし、ガラスが砕け散る。
数秒後、煙が晴れた。
敵の姿は消えていた。
残ったのは、焼け焦げた床と、破壊された端末だけだった。
ダニエルは荒い息を吐いた。
「……何なんだ、今のは」
ヴィクターは銃を下ろさなかった。
「口封じだ」
「誰の?」
「俺たちが、ECLIPSEについて話したからだ」
リナが端末の残骸を拾い上げた。
「待って……これ、通信装置が残ってる」
画面には、消えかけたデータが表示されていた。
送信先。
最高評議会。
そして、実行命令。
『対象者ダニエルを回収せよ』
その下に、もう一行。
『抵抗する場合は、記憶領域を破壊してよい』
ダニエルは、文字を見つめた。
記憶領域を破壊する。
つまり、彼らは自分の記憶が戻ることを恐れている。
「ヴィクター」
ダニエルは静かに言った。
「お前は三年前、俺に何をした?」
ヴィクターは答えなかった。
ただ、銃を握る手に力がこもった。
その沈黙を破ったのは、リナだった。
「二人とも、これを見て」
彼女の端末に、先ほどの敵が残したデータが表示されている。
短い映像だった。
爆発する施設。
燃え上がる研究室。
床に倒れた兵士たち。
そして、映像の最後。
白い部屋の中で、少年がカメラを見つめていた。
少年の顔は、ダニエルと瓜二つだった。
ただし、その瞳は赤く光っていた。
映像の下に、文字が表示される。
『CODE Ω』
『第零号――覚醒条件、未達』
『第一号――生存確認』
ダニエルの顔から、血の気が引いた。
「第一号……?」
ヴィクターは、画面を見たまま動かなかった。
やがて、彼は小さく呟いた。
「……やはり、お前だけじゃなかったのか」
ダニエルはヴィクターを振り返った。
「どういう意味だ?」
ヴィクターは答えなかった。
答えられなかった。
なぜなら、映像の少年の顔を見た瞬間、彼自身も理解してしまったからだ。
三年前に失われたのは、ダニエルの記憶だけではない。
あの施設では、もう一人の何かが生まれていた。
そして今。
その存在が、目を覚まそうとしている。




