3話 絶望
「お前は一体、何者なんだ?」
ヴィクターの声は、いつもの冷静さを失っていた。
訓練場の大型モニターには、すでに何の表示も残っていない。
CODE Ω。
対象者ダニエルの生存を確認。
計画を第二段階へ移行する。
たった数秒の表示だった。だが、ヴィクターの表情は、その文字が何を意味するのか知っているかのようだった。
「それはこっちの台詞だ」
ダニエルは床に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
全身が痛む。ヴィクターとの三分間で、何度床に叩きつけられたのか覚えていない。
「さっきの表示を見て、どうしてそんな顔をした?」
「忘れろ」
「無理な相談だな。俺の名前が出ていたんだぞ」
「忘れろと言った」
ヴィクターが一歩近づいた。
その目に宿るのは怒りではない。
警戒だ。
まるで、ダニエルという存在そのものが、触れてはいけない危険物であるかのように。
そのとき、訓練場のスピーカーから電子音が鳴った。
『先ほどのモニター表示はシステムの誤作動です。訓練を続行してください』
無機質な女性の声だった。
だが、ダニエルは違和感を覚えた。
「……誤作動?」
「そういうことらしい」
ヴィクターは背を向けた。
「お前も余計な詮索をするな。ここでは、知らないほうがいいこともある」
「知らないまま殺されるのはごめんだ」
ヴィクターの足が止まった。
「なら、強くなれ」
それだけ言い残し、彼は訓練場を出ていった。
ダニエルは、その背中を見つめた。
強くなれ。
単純な言葉だった。
だが、今の自分に必要なのは、力だけではない。
ヴィクターの動きは異常だった。
筋力、反応速度、重心移動。どれも人間の限界に近い。おそらく人工筋繊維や神経補助装置が使われている。
それでも、あの男の強さは機械だけでは説明できなかった。
攻撃を仕掛ける前に、こちらの選択肢を潰してくる。
まるで、ダニエルが何を考え、どう動くかを最初から知っていたように。
「……どこかで会ったことがあるのか?」
頭の奥が、かすかに痛んだ。
白い部屋。
赤い警告灯。
ガラスの向こうに立つ少年。
そして、聞き覚えのない声。
――あいつから離れろ。
誰の声だ?
誰から離れろというのだ?
記憶を探ろうとした瞬間、頭痛が強くなった。
ダニエルは額を押さえ、壁にもたれた。
「くそ……!」
そのとき、通信機が震えた。
『ダニエル、聞こえる?』
リナの声だった。
「聞こえる。今のモニター、見てたか?」
『もちろん。映像もログも保存しようとした。でも、表示が消えた直後に記録が全部消去された』
「全部?」
『そう。訓練場の監視カメラだけじゃない。施設内のバックアップまで消されてる』
リナの声が低くなる。
『普通の誤作動で、こんなことは起きない』
「誰かが消したってことか」
『それも、オルフェウスの最高権限を使ってね』
ダニエルは黙った。
オルフェウス。
世界の均衡を維持するため、各国の情報機関から独立して活動する秘密組織。
表向きは、戦争や大規模テロを未然に防ぐための存在だ。
だが、その内部にいる誰かが、ダニエルの情報を隠そうとしている。
あるいは、ダニエル自身を。
「リナ。俺の過去を調べてくれ。三年前の死亡記録だけじゃない。出生記録、医療記録、軍歴、何でもいい」
『もう始めてる。でも、妙なのよ』
「何が?」
『あなたの記録は、三年前より前になると、ほとんど存在しない。名前も、顔写真も、指紋も見つからない。まるで……』
「最初から存在していなかった?」
『そういうこと』
通信の向こうで、キーボードを叩く音が響いた。
『ねえ、ダニエル。あなた、本当に自分の名前を覚えている?』
「どういう意味だ?」
『記憶を失った人間が、なぜ自分の名前だけ覚えているの?』
ダニエルは言葉を失った。
自分の名前。
ダニエル。
それは、目覚めたときから当たり前のように頭の中にあった。
だが、なぜ自分がその名前を知っているのか。
考えたことすらなかった。
『……ごめん。今のは忘れて。あなたを疑ってるわけじゃない』
「いや、いい。続けてくれ」
『分かった。何か見つけたら連絡する』
通信が切れた。
ダニエルは、しばらく動けなかった。
自分は本当にダニエルなのか。
それとも、誰かに与えられた名前なのか。
答えはどこにもなかった。
*
一時間後。
ダニエルは戦術シミュレーション室に呼び出された。
部屋の中央には、都市の立体映像が浮かび上がっている。
高層ビル、地下鉄、幹線道路、監視カメラの位置。
実在する都市を再現した、最新鋭の戦術訓練システムだった。
「遅かったな」
先に来ていたヴィクターが言った。
「またお前とやるのか?」
「今度は殴り合いじゃない」
ヴィクターが壁の端末を操作する。
『戦術評価を開始します』
機械音声とともに、都市の映像が切り替わった。
『任務:敵勢力に拘束された要人を救出せよ』
『制限時間:十五分』
『敵戦力:二十四名』
『友軍戦力:二名』
『要人の生存確率:六十二パーセント』
ダニエルとヴィクターの二人だけで、敵の支配地域に侵入し、要人を救出する。
単純な任務に見えた。
しかし、ヴィクターは映像を見た瞬間に言った。
「この作戦は失敗する」
「まだ始まってもいないぞ」
「敵が二十四名。こちらは二名。正面から戦えば十中八九、要人を失う」
「じゃあ、どうする?」
「お前が考えろ」
ヴィクターは腕を組んだ。
「俺はお前の教官じゃない。評価対象はお前だ」
ダニエルは都市の映像を見つめた。
敵の配置。
道路の封鎖状況。
監視カメラの死角。
地下鉄の出入口。
ひとつずつ情報を拾っていく。
「正面から行く必要はない。地下鉄を使って西側から侵入する。監視カメラは……」
「却下だ」
即座に否定された。
「西側の地下鉄は封鎖されている。敵はそこにも部隊を置いている」
「なら、北側の高架道路から――」
「狙撃地点が三か所。侵入した瞬間に撃たれる」
「東側は?」
「要人のいる建物まで距離がありすぎる。時間切れだ」
次々と選択肢が潰されていく。
ダニエルは歯を食いしばった。
ヴィクターは、すべての危険を把握していた。
いや、それだけではない。
彼はダニエルが思いつくよりも早く、あらゆる可能性を計算している。
「どうした? もう終わりか」
「……まだだ」
ダニエルは映像を拡大した。
建物の裏側に、小さな搬入口がある。
警備員の姿はない。
「ここから入る」
「搬入口の前には赤外線センサーがある。通過すれば警報が鳴る」
「センサーの電源を落とせばいい」
「電源系統は別室にある。到達するまでに見つかる」
「だったら、警備員を誘導する」
「誘導先には別の部隊がいる」
ヴィクターは一切、表情を変えなかった。
ダニエルの額に汗がにじむ。
時間だけが減っていく。
残り十一分。
十分快。
九分。
「くそ……!」
ダニエルは、都市全体を俯瞰する映像に切り替えた。
その瞬間、あることに気づいた。
敵の配置が、不自然だった。
二十四名の敵兵は、要人のいる建物を中心に、ほぼ完璧な包囲網を形成している。
だが、東側の道路だけは封鎖されていない。
「ヴィクター。敵はどうして東側を開けてる?」
「逃走経路を装った罠だ。進入すれば包囲される」
「本当にそうか?」
「何?」
「敵が要人を逃がしたくないなら、逃走経路を装う必要はない。最初から完全に封鎖すればいい」
ダニエルは敵の配置を順番に指さした。
「西側は地下鉄を封鎖。北側は狙撃地点。南側には装甲車。どの方向も、侵入すれば確実にこちらが不利になる」
「それで?」
「なのに東側だけは、警備が薄い。罠だとしても、配置が露骨すぎる」
ダニエルは東側の道路を拡大した。
「これは俺たちを誘い込むための罠じゃない。何かを通すための通路だ」
「何を通す?」
「……分からない。だが、敵の目的は要人を守ることだけじゃない」
ヴィクターの目が、わずかに細くなった。
ダニエルは続けた。
「敵は要人を建物の中に閉じ込めている。でも、本当に守りたいものが別にあるなら?」
「仮定にすぎない」
「そうだ。だから確かめる」
ダニエルは東側の道路に、偽の爆発警報を発生させた。
敵の配置が変化する。
東側の部隊が動き、建物の内部からも数名が飛び出した。
その瞬間、建物の地下に、これまで表示されていなかった通路が現れた。
「地下通路……!」
ダニエルは息をのんだ。
要人がいる部屋の真下から、地下通路が外へ伸びている。
敵は要人を守っていたのではない。
要人を使って、何かを運び出そうとしていたのだ。
「この任務、最初から情報が足りない」
ダニエルは呟いた。
「要人の救出だけを考えていたら、地下通路には気づけなかった」
「……続けろ」
ヴィクターの声が、初めて少しだけ変わった。
ダニエルは残り時間を確認した。
七分。
地下通路の出口に敵が集まる前に、要人を救出する必要がある。
彼は監視カメラの映像を利用し、敵の視線を反対側へ誘導した。
ヴィクターには高所からの援護を指示する。
「俺に命令するつもりか?」
「嫌なら従わなくていい。俺は俺の判断で動く」
ヴィクターは数秒、ダニエルを見つめた。
そして、何も言わずに動き始めた。
ダニエルは地下通路に侵入し、要人のいる部屋へ向かった。
途中、敵兵と遭遇した。
正面から戦えば勝てない。
ダニエルは照明を落とし、音響センサーの位置を確認しながら、敵の背後へ回り込む。
一人を無力化。
二人目の武器を奪い、警報装置を破壊。
三人目が振り向くより早く、遮蔽物の向こうへ滑り込んだ。
完璧な戦闘ではない。
何度も判断を誤り、肩を撃たれかけた。
それでも、敵の動きを観察し、次の一手を修正していく。
残り三分。
ダニエルは、ようやく要人のいる部屋にたどり着いた。
「救出対象を確認!」
彼は要人を連れて、地下通路へ戻る。
出口では、ヴィクターが待っていた。
「遅い」
「文句はあとで聞く」
二人は追撃してきた敵兵を振り切り、制限時間内に安全区域へ到達した。
『任務完了』
シミュレーションが終了した。
『評価結果を表示します』
モニターに結果が表示される。
任務達成率――八十七パーセント。
被弾判定――三回。
戦術判断評価――A。
総合評価――B。
ダニエルは息を吐いた。
「Bか……」
「当然だ」
ヴィクターは淡々と言った。
「無駄な動きが多すぎる。判断も遅い。戦闘技術は素人同然だ」
「そこまで言うか?」
「事実だ」
ヴィクターはモニターを指さした。
「だが、一つだけ認めてやる」
「何を?」
「お前は、与えられた情報を疑った」
ヴィクターの視線が、ダニエルを射抜く。
「大半の人間は、表示された情報を正しいと思い込む。お前は情報そのものに疑問を持った。だから隠された通路を見つけた」
「それが何だ?」
「戦場では、敵より先に情報を疑え。情報を支配する者が、戦場を支配する」
その言葉に、ダニエルは引っかかりを覚えた。
情報を支配する者。
さっき、誰かが訓練場の記録を消去した。
そして、CODE Ωの表示を誤作動として処理した。
もし、オルフェウスそのものが情報を操作しているのなら。
自分が信じている世界は、最初から偽物なのかもしれない。
*
訓練終了から二十分後。
ヴィクターは、施設最深部にある会議室へ呼び出された。
部屋の中には三人の人影があった。
顔は暗く、壁面モニターにも名前は表示されていない。
オルフェウスの最高評議会。
その一部の人間だけが使える、極秘の通信回線だった。
『ヴィクター・レイン。ダニエルについて報告しろ』
「戦闘能力は低い。しかし、戦術分析能力に異常な特徴があります」
『異常とは?』
「敵の配置だけでなく、与えられた情報そのものを疑いました。通常の訓練生には見られない思考パターンです」
『記憶の兆候は?』
ヴィクターは一瞬、黙った。
「……確認できません」
『嘘をつくな』
室内の空気が凍りついた。
『お前は、あの動きを知っているはずだ』
ヴィクターの拳が、わずかに握られる。
あの動き。
今日の訓練で、ダニエルが見せた一瞬の身のこなし。
敵の攻撃を避けるため、無意識に重心をずらした動作。
それは、三年前に封印された作戦記録の中にあった。
そして、その作戦で失われた人間の一人が――。
『命令する。ダニエルを監視しろ。必要なら、記憶の復元を阻止しろ』
「復元を阻止……?」
『聞こえなかったのか?』
ヴィクターは唇を引き結んだ。
「了解しました」
通信が切れる。
誰もいなくなった会議室で、ヴィクターは壁に拳を叩きつけた。
鈍い音が響く。
「ふざけるな……」
彼は知っていた。
ダニエルが何者なのか。
少なくとも、知っていると思っていた。
だが、もしあいつが生きているのなら。
三年前の作戦で死んだはずの少年が、本当に戻ってきたのなら。
すべてが変わる。
オルフェウスも。
シャドウも。
そして、ヴィクター自身も。
そのとき、彼の個人端末に一通の暗号化メッセージが届いた。
送信者は不明。
本文は、たった一行だった。
――あの少年を、二度と殺させるな。
ヴィクターは、しばらく画面を見つめていた。
やがて端末を握りしめ、低く呟いた。
「……誰が送ってきた?」
返事はない。
だが、メッセージの末尾には、見覚えのある記号が添えられていた。
ギリシャ文字のオメガ。
CODE Ω。
その瞬間、ヴィクターは理解した。
ダニエルが戻ってきたことを、誰かがずっと待っていたのだ。
そして、その誰かは――オルフェウスの中にいる。




