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Code Ω  作者: ニコル
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第2話 最強の男

オルフェウス本部は、東京湾の地下に存在する。


 地上から見れば、そこには巨大な複合企業の研究施設があるだけだ。


 しかし、その地下深くには、国家機密を扱う情報分析室、最新鋭の訓練施設、医療区画、そして世界各地の諜報活動を統括する作戦司令室が広がっている。


 世界を裏から動かす者たちの拠点。


 それが、俺の所属する秘密諜報組織オルフェウスだった。


「おかえり、ダニエル」


 帰還ゲートを抜けると、白衣姿の少女が腕を組んで待っていた。


 黒髪を肩のあたりで切りそろえ、薄い青色の瞳を持つ少女。


 リナ・アシュフォード。


 オルフェウスの情報分析部門に所属する天才ハッカーであり、俺の任務を遠隔支援している相棒だ。


「ずいぶん遅かったわね」


「敵に歓迎会を開かれていたんだ。断るのに時間がかかった」


「銃撃戦になったことを、そんなふうに説明する人は初めて見たわ」


「新しい才能の発見だな」


「その才能、今すぐ捨ててきて」


 リナは呆れたように息を吐いた。


 だが、その表情はすぐに真剣なものへ変わった。


「それで、例のカードは?」


 俺はポケットから黒いカードを取り出した。


 表面に刻まれた文字。


 CODE Ω。


 それを見た瞬間、リナの瞳がわずかに見開かれた。


「……本物なの?」


「本物かどうか、俺に聞かれても困る」


「どこで手に入れたの?」


「任務先で会った男からだ。俺の名前を知っていた。しかも、オルフェウスを信じるなと言っていた」


「その男の顔は?」


「覚えてる」


「特徴は?」


「黒いコート。銀色の瞳。三十歳前後。銃を持っていたが、俺を撃たなかった」


 リナは黙り込んだ。


「心当たりがあるのか?」


「……今は何も言えない」


「どうして?」


「このカードに関する情報は、私の権限では閲覧できないの」


「お前でも?」


「私でも、よ」


 リナはカードを専用端末にかざした。


 画面に数字が並ぶ。


 数秒後、端末が低い警告音を鳴らした。


『アクセス拒否』


『最高機密レベル』


『閲覧権限:オルフェウス最高評議会』


 リナは眉をひそめた。


「こんな権限設定、見たことがない」


「つまり、偉い連中しか見られないってことか」


「そういうこと」


「じゃあ、偉い連中に聞けばいい」


「あなた、本当にスパイに向いてないわね」


「よく言われる」


「褒めてない」


 リナがカードを返そうとした、そのときだった。


『ダニエル・クロス。直ちに訓練区画へ出頭せよ』


 天井のスピーカーから、無機質な男性の声が響いた。


 続いて、もう一つの命令が告げられる。


『ヴィクター・レインとの合同評価試験を実施する』


 リナの表情が凍りついた。


「……あなた、運が悪いわね」


「どうして?」


「ヴィクターと戦うことになるからよ」


「強いのか?」


 リナは俺を見つめた。


「オルフェウスで、彼に勝てる人間はほとんどいない」


     ◇


 訓練区画は、地下施設の第七階層にあった。


 直径百メートルほどの円形空間。


 壁面には衝撃吸収材が埋め込まれ、天井には複数の監視カメラが設置されている。


 床の一部は可動式になっており、戦闘環境に応じて地形を変化させることができた。


 その中央に、一人の男が立っていた。


 黒い訓練服。


 短く整えられた銀髪。


 無駄のない姿勢。


 男は腕時計を確認すると、こちらに視線を向けた。


「お前がダニエルか」


「ああ。あんたがヴィクター?」


「そうだ」


 ヴィクター・レイン。


 オルフェウス所属のエージェント。


 戦闘、潜入、射撃、情報分析のすべてにおいて高い成績を収め、若くして実戦部隊の指揮を任されている男だった。


 俺は握手を求めようとした。


 しかし、ヴィクターはその手を見ただけで、すぐに視線をそらした。


「無駄な挨拶は必要ない。時間の浪費だ」


「ずいぶん愛想がないな」


「お前と仲良くなるために呼ばれたわけではない」


「それは残念だ。友達が少ないんだよ」


「なら、なおさら戦闘技術を磨け。友達を作る前に死ぬことになる」


 ヴィクターの言葉に、周囲の訓練生たちが小さく笑った。


 俺は肩をすくめた。


「忠告ありがとう」


「忠告ではない。事実だ」


 ヴィクターが訓練用のグローブを装着する。


 その動作に迷いはなかった。


 まるで、これから起きることをすべて知っているかのようだった。


『合同評価試験を開始します』


 機械音声が響く。


『試験内容は近接戦闘。制限時間三分。相手を戦闘不能と判断した時点で終了とします』


 ヴィクターは構えた。


 俺も拳を上げる。


『開始』


 その瞬間、ヴィクターの姿が消えた。


「なっ……!」


 腹部に衝撃が走った。


 気づいたときには、俺の身体は床を滑っていた。


 息ができない。


 何をされたのか理解する前に、ヴィクターが目の前に立っていた。


「立て」


「……少しくらい手加減してくれないか?」


「実戦で敵が手加減してくれると思うのか」


 ヴィクターが踏み込む。


 俺は反射的に身をひねった。


 拳が頬をかすめる。


 続く蹴りを腕で受けた瞬間、骨が軋むような衝撃が走った。


 重い。


 明らかに、人間の筋力だけで出せる威力ではない。


 ヴィクターの右腕には、軍用の人工筋繊維が組み込まれていた。


 身体能力を強化するサイバネティック・インプラント。


 オルフェウスの上位エージェントには珍しくない技術だ。


 だが、ヴィクターの動きは機械的ではなかった。


 むしろ、人間の限界を知り尽くしたうえで、その限界を踏み越えているように見えた。


 俺は距離を取った。


 正面から戦えば負ける。


 ならば、動きを読む。


 肩の傾き。


 視線の方向。


 踏み込む足の角度。


 次に来る攻撃を予測し、最小限の動きでかわす。


 ヴィクターの拳が空を切った。


 俺はその隙を狙い、脇腹に拳を打ち込む。


 手応えがあった。


 しかし、ヴィクターは一歩も動かなかった。


「なるほど」


 ヴィクターが初めて、わずかに表情を変えた。


「反射神経だけは悪くないらしい」


「褒めてくれたのか?」


「勘違いするな」


 次の瞬間、ヴィクターの足が俺の軸足を払った。


 視界が反転する。


 背中から床に叩きつけられた。


 肺の空気がすべて押し出される。


 立ち上がろうとしたが、ヴィクターの靴が胸元を押さえた。


「終わりだ」


 冷たい声だった。


 俺は歯を食いしばった。


 まだだ。


 相手の重心は右側に偏っている。


 左腕の動きがわずかに遅れている。


 ならば――。


 俺はヴィクターの足首を掴み、身体をひねった。


 ほんの一瞬、彼の体勢が崩れる。


 俺はその隙に抜け出し、立ち上がった。


 周囲がざわめいた。


 ヴィクターは数歩下がり、俺を見つめた。


「今の動き……どこで覚えた?」


「知らない」


「ふざけるな」


「本当に知らないんだ」


 ヴィクターの瞳が細くなった。


 彼は何かを考えるように、しばらく俺を見つめていた。


 そして、再び構えた。


「なら、身体に聞いてやる」


 ヴィクターが踏み込む。


 今度は、さっきよりも速かった。


 拳をかわす。


 肘を受け流す。


 足払いを跳んで避ける。


 俺は必死に食らいついた。


 しかし、差は埋まらなかった。


 ヴィクターは俺の動きを観察し、少しずつ対応を変えていた。


 俺が同じ回避を二度使えば、三度目にはそこを狙ってくる。


 俺が反撃のタイミングを変えれば、その変化すら利用される。


 まるで、俺の思考そのものを読まれているようだった。


 そして、残り時間が十秒になった。


 ヴィクターの拳が、俺の顎を正確に捉えた。


 視界が白く弾ける。


 身体が宙を舞い、床に落ちた。


『試験終了』


 機械音声が響いた。


『勝者、ヴィクター・レイン』


 俺は天井を見つめた。


 悔しい。


 それ以外の言葉が見つからなかった。


 ヴィクターはグローブを外し、俺を見下ろした。


「お前は弱い」


「ああ、そうだな」


「だが、妙な動きをする」


「それは褒め言葉か?」


「違う」


 ヴィクターは背を向けた。


「お前の戦い方は、どこかで見たことがある」


 その言葉に、俺は顔を上げた。


「どこで?」


「……思い出せない」


 ヴィクターは歩き出した。


 その背中を見ながら、俺は拳を握りしめた。


 いつか必ず、追いついてやる。


 そして、勝つ。


 そう思った瞬間だった。


 訓練区画の大型モニターが突然切り替わった。


 映し出されたのは、黒い背景に白い文字。


 CODE Ω。


 その場にいた全員が沈黙した。


 ヴィクターが足を止める。


 リナの声が、通信機から小さく聞こえた。


『……どうして、ここにその名前が?』


 画面に、新たな文字が表示された。


『対象者ダニエルの生存を確認』


 そして、その下に続く一文。


『計画を第二段階へ移行する』


 俺は息を呑んだ。


 誰が表示させたのか。


 何の計画なのか。


 分からない。


 だが、ヴィクターの表情が変わったことだけは分かった。


 彼は画面を見つめたまま、低い声で呟いた。


「……あり得ない」


「ヴィクター?」


 彼は答えなかった。


 ただ、俺に向かって振り返った。


 その目には、先ほどまでの冷静さがなかった。


 警戒。


 疑念。


 そして、ほんのわずかな恐怖。


「ダニエル」


「何だ?」


「お前は一体、何者なんだ?」


 その問いに答えられる者は、ここにはいなかった。


 俺自身でさえ、何も知らなかったのだから。


 ただひとつ、分かったことがある。


 俺の過去を知る者は、敵だけではない。


 この組織の中にも、俺の存在を恐れている人間がいる。


 そして、その中心には――コードΩがある。


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