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Code Ω  作者: ニコル
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第1話 男の名前

挿絵(By みてみん)

 銃声が三発、夜の街に響いた。


 一発目で監視カメラが砕けた。


 二発目で街灯が消えた。


 三発目は、俺の頭を狙っていた。


 弾丸が耳元をかすめる。


 俺は濡れた路面を転がり、路地裏に飛び込んだ。


「……初対面にしては、ずいぶんと熱烈な歓迎だな」


 返事の代わりに、銃弾が壁を削った。


 コンクリートの破片が頬に当たる。


 痛みを感じる暇はなかった。


 敵は三人。


 全員が黒い戦闘服を着ている。顔は特殊なマスクで覆われ、胸元には見覚えのない紋章が刻まれていた。


 黒い円の中に、白い三本線。


 俺はその紋章を知らない。


 知らないはずなのに、見るだけで胸の奥がざわついた。


『ダニエル、聞こえる?』


 耳元の通信機から、少女の声がした。


「聞こえてる。敵は三人。全員、銃を持ってる」


『そんなことは映像で分かってる。左側の建物に逃げ道があるから、そこを使って』


「了解」


『あと、勝手に突っ込まないで。あなた、今日の作戦は情報収集だけだって理解してる?』


「もちろん」


『その返事、絶対に理解してないでしょ』


 俺は口元を緩めた。


 次の瞬間、路地の入口に手榴弾が転がってきた。


「おいおい……!」


 爆発。


 衝撃波が背中を叩いた。


 俺は地面を蹴り、崩れかけた塀を飛び越えた。


 着地と同時に、目の前に敵の一人が現れる。


 速い。


 相手の拳が顔面に迫った。


 俺は反射的に頭を傾けた。


 拳が頬をかすめる。


 続く肘打ちを腕で受け流し、相手の懐に潜り込んだ。


 鳩尾に一撃。


 男が息を詰まらせる。


 俺はその手から銃を奪い、残る二人に向けた。


「動くな」


 だが、二人は止まらなかった。


 片方が銃を構える。


 もう片方は、まっすぐ俺に突っ込んできた。


 銃を持つ相手を先に止めるべきか。


 接近してくる相手を迎え撃つべきか。


 考えたのは一瞬だった。


 俺は奪った銃を地面に滑らせ、接近してきた男の足元へ蹴り込んだ。


 男の視線が一瞬だけ下がる。


 その隙に肩をぶつけ、体勢を崩す。


 倒れた男を盾にするように身を低くした瞬間、銃声が響いた。


 弾丸は、俺の背後にいた男の武器を弾き飛ばした。


 俺が蹴った銃が、転がった拍子に暴発したのだ。


 偶然だった。


 少なくとも、俺にはそう思えた。


『……あなた、今のを狙ってやったの?』


「まさか。俺だって命は惜しい」


『本当に?』


「本当に」


 通信機の向こうで、少女が深いため息をついた。


『あなたの報告書、絶対に盛って書いてあるわね』


「あとで好きなだけ褒めてくれ」


『不合格にしてほしいなら、そう言って』


 俺は笑った。


 しかし、すぐに笑みは消えた。


 倒れた男のマスクが、爆風で外れていた。


 その顔を見た瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。


「……なんだ、これ」


 知らない男だ。


 見覚えなどない。


 なのに、脳裏に映像が浮かんだ。


 白い部屋。


 赤い警告灯。


 床に広がる血。


 誰かが俺の名前を叫んでいる。


 そして、目の前に立つ白衣の人物。


『被験体の記憶消去を開始します』


 知らない声だった。


 だが、その言葉だけは、はっきりと聞こえた。


「ダニエル!」


 少女の声で我に返った。


『どうしたの? 応答して!』


「……なんでもない」


『嘘。心拍数が急上昇してる。怪我をした?』


「少し昔のことを思い出しかけただけだ」


『昔のこと?』


「いや、気にするな」


 俺は立ち上がった。


 過去の記憶。


 それは俺にとって、ひどく曖昧なものだった。


 自分の名前はダニエル。


 年齢は二十二歳。


 そして、今日から秘密諜報組織オルフェウスの正式エージェント候補になる。


 それ以外のことは、ほとんど覚えていない。


 家族がいたのか。


 どこで生まれたのか。


 なぜ戦闘技術を身につけているのか。


 何ひとつ、確かな記憶がなかった。


 それでも、俺は前に進むことを選んだ。


 自分が何者なのかを知るために。


 そして今夜、その手掛かりが見つかるはずだった。


 敵の目的は、政府の極秘データを奪うこと。


 俺の任務は、データの中身と奪取した人物の身元を調べること。


 ただし、殺すな。


 正体を知られるな。


 余計な戦闘を起こすな。


 出発前に、上官から何度も念を押された。


 その結果が、これだ。


「リナ、敵は全員倒した。次はどうする?」


『まずは目標地点へ向かって。残り時間は四分よ』


「了解」


 俺は路地を抜け、廃ビルの入口へ向かった。


 街の上空には、監視用の無人機が飛び交っている。


 この世界では、人工知能が交通を管理し、医療を支え、金融市場の大半を動かしている。


 戦争すら、AIの予測を参考にして計画される時代だ。


 各国は超国家連邦という巨大な枠組みの中で協調を装いながら、裏では互いの情報を奪い合っていた。


 その均衡を陰から支える組織がある。


 オルフェウス。


 そして、その均衡を破壊しようとする組織も存在する。


 シャドウ。


 俺はまだ、その名前を知らなかった。


 廃ビルの三階。


 目標の端末は、窓のない部屋に置かれていた。


 俺は小型装置を接続し、データの複製を開始する。


 画面に暗号化されたファイルが次々と表示された。


 政府高官の通信記録。


 軍事施設の配置図。


 企業間の秘密契約。


 そして、一番下に奇妙なファイルがあった。


 ファイル名は、たった三文字。


 Ω。


 俺の指が止まった。


 理由は分からない。


 ただ、その記号を見た瞬間、頭の奥で何かが弾けた。


 耳鳴り。


 激しい頭痛。


 そして、脳裏に浮かぶ一人の少年。


 少年はガラス越しに、こちらを見ていた。


 唇が動く。


 ――逃げろ。


 次の瞬間、端末の画面が真っ黒になった。


『ダニエル! 何が起きたの?』


「分からない。端末が勝手に停止した」


『そんなはずない。接続を切って! 今すぐ!』


 警告音が鳴った。


 ビル全体の照明が赤く点滅する。


 壁のスピーカーから、機械音声が流れた。


『未登録の生体反応を確認』


『認証を開始します』


『対象――ダニエル』


 俺は息を止めた。


 今、なんと言った?


 端末に触れたのは俺だ。


 だが、この施設に俺の生体情報が登録されているはずはない。


『認証完了』


『ようこそ、ダニエル』


 画面に文字が浮かび上がった。


『おかえりなさい』


 直後、背後で銃声がした。


 俺は床に伏せた。


 弾丸が端末を貫き、火花が散る。


「誰だ!」


 振り返った先に、一人の男が立っていた。


 黒いコート。


 銀色の瞳。


 年齢は三十歳前後だろうか。


 男は銃口を俺に向けていた。


「動くな、ダニエル」


「……俺の名前を知っているのか?」


「知っているとも」


 男は淡々と答えた。


「お前を殺すなという命令が出ている」


「誰からの命令だ?」


「それを知る必要はない」


 男の指が引き金にかかった。


 俺は身構えた。


 だが、男は撃たなかった。


 代わりに、ポケットから小さな黒いカードを取り出し、床に投げた。


「それを持って逃げろ」


「何?」


「次に会ったとき、お前がまだ何も思い出していなければ……今度こそ殺す」


 男は銃を下ろした。


「オルフェウスを信じるな」


 その言葉を残し、男は暗闇の中へ消えていった。


 直後、ビルの入口から複数の足音が響く。


『ダニエル、応答して! 警備部隊が向かってる!』


「分かってる!」


 俺は黒いカードを拾い、窓から隣のビルへ飛び移った。


 背後で爆発音が響く。


 煙が夜空へ立ち上った。


 逃走経路を確保しながら、俺はカードの表面を見た。


 そこには、白い文字が刻まれていた。


 ――CODE Ω。


 その瞬間、再び記憶の断片がよみがえった。


 白い部屋。


 赤い警告灯。


 誰かの叫び声。


 そして、俺自身の声。


『もし俺が記憶を失ったら……絶対に、俺を止めてくれ』


 誰に向かって言った言葉なのか。


 なぜ、そんなことを頼んだのか。


 分からない。


 ただひとつ、確かなことがあった。


 俺の失われた記憶と、コードΩはつながっている。


 そして、オルフェウスは何かを隠している。


 通信機から、リナの声が聞こえた。


『ダニエル。無事なの?』


「ああ。なんとかな」


『さっきの施設、記録を確認したんだけど……おかしなことが分かった』


「何だ?」


『あなたの生体認証が、三年前に登録されていたの』


 足が止まった。


「三年前?」


『そう。でも、登録された日付が……』


 リナは言葉を切った。


「どうした?」


『ダニエル。落ち着いて聞いて』


 彼女の声が震えていた。


『その日付、あなたの死亡記録と同じなの』


 夜風が吹き抜けた。


 俺は黒いカードを握りしめた。


 三年前、俺は死んでいた。


 それなのに、今ここにいる。


 俺は一体、何者なんだ。


 そして、誰が俺を生き返らせた?


 答えはまだ、どこにもなかった。


 ただ、カードの裏側に刻まれた小さな文字だけが、月明かりに浮かび上がっていた。


 ――第一段階、完了。


 俺は知らない。


 この夜、世界の裏側で、ある計画が再び動き始めたことを。


 そして、その計画の中心にいるのが、俺自身だということを。

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