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Code Ω  作者: ニコル
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第10話 母を殺した男

「――お前自身だ」


 その言葉が、ダニエルの頭の中で何度も繰り返された。


 母親を殺したのは、自分。


 意味がわからない。


 そもそも、自分に母親がいたという記憶さえない。


「ふざけるな」


 ダニエルは男を睨みつけた。


「俺には何も覚えがない」


「当然だ。お前の記憶は消されている」


 アラン・クロスは淡々と答えた。


「だが、記憶を消したところで、事実まで消えるわけではない」


「何が事実だ!」


 ダニエルの声が工場に響いた。


「俺が母親を殺したという証拠はあるのか?」


「証拠なら、お前自身の中にある」


 アランは一歩踏み出した。


 その瞬間、ヴィクターが銃を構え直す。


「それ以上近づくな」


「相変わらずだな、ヴィクター。命令に背くことだけは一人前か」


「次の一歩で撃つ」


「撃てばいい。だが、その前に一つ教えておこう」


 アランはヴィクターではなく、ダニエルを見た。


「三年前、ECLIPSE施設で起きた爆発。あれは事故ではなかった」


 ダニエルの脳裏に、炎がよみがえった。


 赤く染まった廊下。


 崩れ落ちる天井。


 誰かの手を握りしめていた感覚。


「施設の中では、CODE Ωの最終実験が行われていた。人間の神経系と人工知能を接続し、意思決定を外部から制御するための実験だ」


 アランは続けた。


「実験の中心にいたのは、第零号と第一号。つまり、お前たち二人だ」


「第零号……」


 ダニエルは、赤い瞳の少年を思い出した。


 自分と瓜二つの顔。


 自分を兄弟と呼ぶ存在。


「第零号は、人工知能との接続において極めて高い適合性を示した。だが、重大な問題が発生した」


「問題?」


「自我の境界が崩れ始めたんだ。システムの判断と本人の意思を区別できなくなり、やがて第零号は実験そのものを拒絶した」


 アランの表情が、わずかに変わった。


「そこで、研究チームは第一号を使って第零号を制御しようとした」


「俺を使ったのか?」


「そうだ」


 ダニエルの胃の奥が冷たくなった。


 自分の知らないところで、自分の人生が決められていた。


 そして、その実験は三年前に破綻した。


「母親はどうなった?」


 ダニエルは低い声で尋ねた。


「彼女は計画を止めようとした。実験の危険性に気づき、お前たちを施設から逃がそうとしたんだ」


「それで……俺が殺したと?」


「最後の瞬間、お前の神経制御プログラムが暴走した。施設の防衛システムが起動し、研究員たちが次々と倒れた。お前の母親も、その中にいた」


「嘘だ……」


「信じたくないのはわかる。だが、私はあの場にいた」


 ダニエルは後ずさった。


 頭痛が再び襲ってくる。


 記憶の奥で、誰かが泣いていた。


 自分の手が、赤く染まっている。


 そして、目の前に倒れている女性。


 顔は見えない。


 それでも、女性が最後に口にした言葉だけが、鮮明に聞こえた。


『ダニエル……あなたは、悪くない……』


「やめろ……」


 ダニエルは頭を抱えた。


「それ以上、言うな……!」


 アランが何かを口にしようとした、その瞬間だった。


 銃声が響いた。


 ヴィクターの銃弾が、アランの頭部を狙って飛ぶ。


 しかし、アランは首をわずかに傾けただけで回避した。


 弾丸は背後の壁を砕く。


「話は終わりだ」


 ヴィクターが言った。


「こいつを連れていかせるわけにはいかない」


「まだわからないのか、ヴィクター」


 アランの目が細くなる。


「君もまた、計画の一部だ」


「黙れ!」


 ヴィクターが連続して発砲した。


 アランは常人離れした動きで弾丸をかわす。背後に控えていた黒服たちが、一斉に工場へ突入した。


「リナ、伏せろ!」


 ダニエルは彼女を引き倒し、コンテナの陰へ飛び込んだ。


 銃弾が金属板を叩く。


 リナは端末を取り出し、敵の通信を探った。


「まずい! こいつら、神経妨害装置を持ってる!」


「何だ、それは?」


「強い電磁パルスで電子機器を停止させる装置よ。あなたの脳に埋め込まれた制御系統にも影響するかもしれない!」


 その言葉と同時に、黒服の一人が手のひらほどの装置を掲げた。


 青白い光が走る。


「ぐっ……!」


 ダニエルの視界が一瞬、真っ白になった。


 頭の奥で何かが弾ける。


 足元が揺れ、呼吸が乱れた。


《神経接続に異常を検知》


《戦闘補助プログラム、強制停止》


《警告:記憶領域への干渉を検知》


「ダニエル!」


 リナの声が聞こえる。


 だが、身体が動かない。


 黒服が接近してくる。


 銃口が、ダニエルの額に向けられた。


「対象を確保する」


 引き金に指がかかる。


 その瞬間、ダニエルの中で何かが切り替わった。


 敵の動きが遅く見える。


 銃口の角度。


 引き金を引く指の動き。


 床に散らばる金属片。


 すべてが、頭の中で一つの図形につながっていく。


 だが、以前のように機械を直接制御する感覚ではなかった。


 もっと原始的なもの。


 身体の動きを、極限まで最適化する感覚だった。


 ダニエルは床を蹴った。


 銃口が火を噴く。


 弾丸が肩をかすめる。


 彼は敵の懐に潜り込み、銃を持つ手首を打ち上げた。続けて肘を打ち、相手の体勢を崩す。落ちた銃を蹴り飛ばし、敵の膝裏を払った。


 一人。


 二人目が飛び込んでくる。


 ダニエルはコンテナの側面を蹴り、身体を反転させた。相手の腕をつかみ、その勢いを利用して床へ叩きつける。


 だが、三人目の攻撃を避けきれなかった。


 腹部に衝撃が走る。


「がっ……!」


 ダニエルは吹き飛ばされ、床に転がった。


 強化兵士。


 相手の身体能力は、明らかに人間の限界を超えていた。


「ダニエル、無理よ! 今のあなたじゃ勝てない!」


 リナが叫ぶ。


 ダニエルは血を吐き出しながら立ち上がった。


「勝つ必要はない……」


 彼は敵の背後を見た。


「ここから逃げればいい」


 ダニエルは手近な金属製の台車を蹴り飛ばした。


 台車が床を滑り、敵の足元に突っ込む。


 強化兵士が一瞬、体勢を崩した。


「今だ!」


 ヴィクターが煙幕弾を投げた。


 白煙が工場を覆う。


「リナ、出口へ!」


 三人は煙の中を駆け抜けた。


 だが、ダニエルだけは、出口の手前で振り返った。


 煙の向こうに、アランが立っている。


 彼は追ってこなかった。


 ただ、ダニエルを見つめていた。


「逃げろ、ダニエル」


 アランの声が響く。


「今はまだ、お前が真実を知るべき時ではない」


「だったら、最初から全部話せ!」


「真実を知れば、お前は選ばなければならなくなる」


 アランは静かに言った。


「母親の死を受け入れるか。それとも、世界を救うためにもう一度、同じことをするか」


 ダニエルの足が止まった。


 その言葉の意味を問いただす前に、ヴィクターが彼の腕をつかんだ。


「行くぞ!」


 三人は工場を脱出した。


     *


 十分後。


 港湾地区から離れた高架道路の下で、三人は身を隠していた。


 リナがダニエルの肩の傷を処置している。


「傷は深くない。でも、しばらく右腕は無理に動かさないで」


「わかった」


「本当にわかってる?」


「たぶん」


「……あなたって、どうしてそうなの」


 リナはため息をついた。


 その表情には、怒りと不安が入り混じっていた。


 ダニエルは、先ほどの映像を思い返していた。


 母親。


 ECLIPSE。


 そして、自分自身が引き起こしたという惨劇。


「ヴィクター」


「何だ」


「さっきの話、どこまで本当なんだ?」


 ヴィクターはすぐには答えなかった。


 しばらくして、静かに口を開いた。


「アラン・クロスがECLIPSEにいたことは事実だ。だが、あいつが語った内容がすべて真実とは限らない」


「母親のことは?」


「俺は、お前の母親を見たことがない」


「……そうか」


「ただし、三年前の施設で、お前が誰かを守ろうとしていたことは覚えている」


 ダニエルは顔を上げた。


「誰を?」


「そこまではわからない。炎の中で、お前は誰かを抱えていた。俺が近づこうとしたとき、お前は叫んだ」


「何て?」


 ヴィクターは目を伏せた。


「『この子だけは、連れていかせない』と」


 ダニエルの胸が強く締めつけられた。


 子供。


 第零号。


 そして、赤い瞳。


 すべてがつながりかけている。


 しかし、まだ決定的な何かが欠けていた。


 リナが端末を操作しながら言った。


「アランがいた施設の記録を調べてみる。もし彼が本当に三年前に死亡したことになっているなら、死亡記録の改ざんが見つかるかもしれない」


「頼む」


 ダニエルはうなずいた。


 そのとき、彼女の端末に一通のメッセージが届いた。


 送信元は、登録されていないアドレス。


 本文には、短い文章だけが記されていた。


《リナ・アシュフォード》


《あなたの本当の名前を知りたければ、一人で来なさい》


 その下に、場所と時刻が記されている。


 今夜二十三時。


 旧中央医療研究センター。


 リナの顔から、血の気が引いた。


「……どうした?」


 ダニエルが尋ねる。


 彼女は一瞬だけ迷い、それから端末を差し出した。


 ダニエルは文章を読み、顔をしかめた。


「罠だ」


「そうでしょうね」


「行くな」


 ダニエルは即座に言った。


 しかし、リナは首を振った。


「でも、私の過去につながる手がかりかもしれない」


「罠だとわかっていて行く必要はない」


「あなたは自分の記憶を取り戻そうとしている。私だって、自分が何者なのか知りたい」


 彼女の声は震えていた。


 それでも、その目はまっすぐだった。


「私だけ何も知らないまま、あなたたちについていくわけにはいかない」


 ダニエルは何も言えなかった。


 彼女の言葉は、自分自身がずっと抱えてきた思いと同じだったからだ。


 ヴィクターが静かに口を開いた。


「行くなら、俺も同行する」


「一人で来いって書いてあるわ」


「敵の要求に従う理由はない」


 ヴィクターは端末を見つめた。


「旧中央医療研究センター……三年前、ECLIPSE作戦に関係する医療記録が保管されていた施設だ」


「またECLIPSEか」


 ダニエルは立ち上がった。


「決まりだ。今夜、そこへ行く」


 リナが彼を見つめる。


「本当にいいの?」


「お前の過去が俺たちの過去とつながっているなら、確かめる必要がある」


 ダニエルは拳を握りしめた。


「ただし、何があっても一人で動くな。俺たちは三人で行く」


 ヴィクターは小さくうなずいた。


「……今度こそ、誰も置いていかない」


 その言葉に、ダニエルは違和感を覚えた。


 まるで、三年前に誰かを置き去りにしたことがあるかのような口ぶりだった。


 問いただそうとした瞬間、ヴィクターの通信機が震えた。


 彼は画面を見た。


 そこに表示されていたのは、暗号化された一文だった。


《ヴィクター・レイン》


《次に裏切るのは、お前だ》


 ヴィクターの表情が凍りついた。


 そして、誰にも気づかれないように、通信機を握りつぶした。


 夜は、まだ終わらない。


 そして三年前の真実は、彼らが想像していたよりも、はるかに残酷なものだった。

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