第63話 ノー・ゼロの最後の記録
少年が目を覚ましてから、五日が過ぎた。
回復は順調だった。まだ長時間歩くことはできないが、食事も少しずつ取れるようになり、医療区画の窓辺で過ごす時間も増えていた。
一方、ダニエルとリナは、停止したCODE Ωの管理記録を整理していた。
強制的な人格制御機能は停止している。
旧管理者の認証権限も無効化された。
自動再起動の仕組みも遮断済みだ。
残るのは、研究記録の保全と、関係者の個人情報を守るための独立した監査体制を整えることだった。
「これで、少なくともシステムが勝手に動き出す可能性はかなり抑えられたわ」
リナが端末を閉じた。
「残っている問題は?」
「過去の記録にアクセスできる経路が、完全に消えたわけじゃない。ただし、以前のように管理者権限だけで個人の記憶や人格情報を操作することはできない。アクセスは記録され、本人の同意が必要になる」
「それなら、次に進めるな」
ダニエルは、机の上に置かれた別の端末を見た。
そこには、ひとつの識別情報が表示されていた。
《Ω-000》
ジェームズ・クロスの名前を使ってアクセスした旧管理経路。
そして、ノー・ゼロを名乗る存在との通信に使われた経路。
あの存在が何者だったのか。
記憶を引き継いだ本人なのか。
それとも、複数の記録から再構成された人格なのか。
最後まで、確かな答えは得られなかった。
「リナ。旧管理経路を、もう一度だけ調べたい」
「ノー・ゼロの記録?」
「ああ。今なら、管理者権限を復旧させずに確認できるはずだ」
「危険は?」
「残っている。ただし、以前のような強制接続は起こせない。記録の閲覧だけに限定する」
リナは少し考えたあと、うなずいた。
「わかった。私が監視する。異常があれば、その場で止めるわ」
二人は端末を起動した。
画面に、旧管理経路の記録が表示される。
過去の通信履歴。
拒否されたアクセス要求。
停止した管理機能の記録。
その中に、ひとつだけ未確認のデータが残っていた。
《NO.0:PERSONAL RECORD》
「……個人記録?」
ダニエルがつぶやいた。
「これまでの記録とは別ね。システムの管理情報じゃなくて、本人が残した記録に近い形式だわ」
「開けるか?」
「ええ。でも、内容が完全に保存されている保証はない」
「それでもいい」
リナが閲覧要求を送信した。
数秒後、画面が切り替わった。
映像はなかった。
音声データだけだった。
ダニエルは再生ボタンに指を置いたまま、しばらく動かなかった。
もし、これが本物のノー・ゼロの声なら。
もし、記録の中に彼が生きていた証拠が残されているなら。
その答えを知りたいと思う一方で、また別の記録が、自分の人生を決める材料にされることへの恐怖もあった。
だが、もう逃げるつもりはなかった。
ダニエルは再生ボタンを押した。
『……この記録を聞いている人間がいるなら、まず伝えておく』
若い男の声だった。
ダニエル自身と、よく似ている。
だが、完全に同じではない。
『俺がノー・ゼロと呼ばれていたことは知っているだろう。だが、その名前を信用するな』
リナが画面を見つめた。
『記録に残された名前と、その名前を持っていた人間が同じとは限らない。俺自身も、自分の記憶がどこまで本物なのか、最後まで確かめられなかった』
音声が一瞬途切れた。
『だから、俺が何者だったのかを、誰かに決めてほしくない』
ダニエルは、静かに息を吐いた。
以前の通信と同じ言葉だった。
だが、今回は違う。
この記録は、ダニエルが問いかける前から存在していたものだ。
『ひとつだけ、確かなことがある』
声が続いた。
『俺は、自分の意思で拒否した』
ダニエルの指が止まった。
『俺の認証情報を使って、誰かを支配することを。俺の記憶を使って、俺と同じ存在を作り続けることを。そして、俺の名前を理由に、誰かの選択を奪うことを』
短い沈黙。
『それが、俺にできた最後の選択だった』
リナは何も言わなかった。
『ダニエル。もし、お前がこの記録を聞いているなら、ひとつだけ覚えておいてくれ』
ダニエルの肩がわずかに動いた。
『俺が生きていたのか、死んでいたのか。それを知ることだけが、真実じゃない』
音声の向こうで、かすかな物音がした。
遠くで扉が閉まるような音。
誰かが歩いているような音。
しかし、声はそれ以上、周囲の状況を説明しなかった。
『俺の名前を使って、誰かが他人の人生を決める世界を終わらせてくれ』
最後の言葉は、静かだった。
『そして、お前自身の人生を生きろ』
音声が終了した。
画面には、再生完了の表示だけが残った。
ダニエルはしばらく、何も言わなかった。
ノー・ゼロは、自分が何者だったのかを明らかにしなかった。
生きていたとも、死んでいたとも言わなかった。
それでも、最後に何を拒否し、何を選んだのかは伝わった。
「……これが、答えなのか」
ダニエルがつぶやいた。
「全部の答えではないわ」
リナは正直に言った。
「でも、彼が残した意思については、これ以上の証拠を求める必要はないと思う」
「俺は、あいつが生きていたのか知りたかった」
「うん」
「もし生きていたなら、何を考えていたのか。なぜ、あんなことをしたのか。直接、聞きたかった」
ダニエルは目を閉じた。
「でも、俺が本当に知りたかったのは、あいつが俺と同じだったのかどうかじゃないのかもしれない」
「どういうこと?」
「俺はずっと、自分が何者なのかを知ろうとしていた。失った記憶を取り戻せば、正しい答えが見つかると思っていた」
彼は端末を見た。
「でも、記憶が戻っても、わからないことは残った。あいつの正体も、俺たちがなぜ似ているのかも、全部はわからない」
「それでも?」
「ああ。それでも、俺が何を選ぶかは、俺が決められる」
リナは、わずかに笑った。
「あなたらしい答えね」
「そうか?」
「ええ。最初から、あなたは誰かが用意した選択肢を、そのまま受け入れる人じゃなかった」
ダニエルは苦笑した。
「それで何度も危ない目に遭ったけどな」
「否定はしないわ」
二人は小さく笑った。
そのとき、端末に新しい通知が表示された。
旧管理経路の完全停止を確認したという、監査システムからの報告だった。
かつてノー・ゼロが使った認証情報は、もう何の権限も持たない。
その名前を利用して、システムを再起動することもできない。
記録は保存される。
だが、記録に残った人物が、再び誰かを支配することはない。
ダニエルは通知を確認し、端末を閉じた。
「……これで、終わりだな」
「ええ。少なくとも、CODE Ωが人の意思を奪う仕組みとして動くことは、もうない」
リナは立ち上がった。
「行きましょう。あの子が待っているわ」
医療区画に戻ると、少年はベッドの上で本を読んでいた。
文字を読むことにも、少しずつ慣れてきたらしい。
「ダニエル!」
少年が顔を上げた。
「今日は何をしていたの?」
「昔の記録を調べていた」
「何かわかった?」
ダニエルは少し考えた。
「わかったこともあるし、わからないままのこともある」
「そっか」
少年は、意外にもあっさりとうなずいた。
「僕もね、まだ自分の名前を思い出せないんだ」
「焦らなくていい」
「うん。でも、ひとつ決めたことがある」
少年は本を閉じた。
「いつか、自分の名前を決めるときは、怖いからとか、誰かに喜んでもらいたいからじゃなくて、自分がそう呼ばれたいと思う名前にする」
ダニエルは、少年を見つめた。
「……いいと思う」
「それまでは、今のままでもいいかな?」
「もちろんだ」
少年は笑った。
「じゃあ、もう少し考えてみる」
窓の外には、夕方の空が広がっていた。
かつて、彼らの人生は研究記録と管理番号によって縛られていた。
誰が何者なのか。
何のために存在するのか。
どんな未来を選ぶべきなのか。
すべてを決める仕組みがあった。
だが、その仕組みは止まった。
これから先、彼らが迷うことはあるだろう。
過去を知って苦しむことも、選択を間違えることもあるかもしれない。
それでも、誰かが用意した答えに従う必要はない。
ダニエルは、少年の隣に椅子を置いた。
「なあ」
「何?」
「明日、体調がよかったら、外に出てみるか?」
少年の目が輝いた。
「本当に?」
「ああ。医師の許可が出たらな」
「約束だよ」
「わかってる」
少年は、うれしそうに窓の外を見た。
空には、ゆっくりと星が現れ始めていた。
その空の下に、まだ見つかっていない答えがある。
けれど、もう誰も、その答えを急ぐ必要はなかった。
彼らには、自分で選べる明日があるのだから。




