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Code Ω  作者: ニコル
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第62話 君に名前を返す


 目を覚ましてから三日目。


 少年は、窓の外を眺めていた。


 医療区画のベッドから見える空は、決して広くはない。それでも、窓のない部屋で過ごしていた頃とは違う。


 雲が流れている。


 鳥が飛んでいる。


 世界は、彼が眠っていた間も止まらずに動いていた。


「何を見てるんだ?」


 ダニエルが部屋に入ると、少年は振り返った。


「雲」


「雲?」


「うん。ずっと見てても、同じ形じゃないんだね」


 ダニエルは窓の外を見た。


「そうだな。風に流されて、形が変わるからな」


「……僕も変われるのかな」


 思いがけない質問だった。


 ダニエルは少年のそばに椅子を置いた。


「もちろんだ」


「でも、僕は普通じゃないんでしょ?」


 少年は自分の手を見つめた。


「僕の記録には、名前じゃなくて番号が書いてあった。第一被験者って。みんな、僕のことを何かのために必要な存在みたいに話してた」


 ダニエルは、すぐには答えられなかった。


 少年の言うことは正しかった。


 彼は研究者たちから番号で呼ばれ、神経接続の実験に使われた。彼の記憶や能力は、CODE Ωの開発において重要な意味を持っていた。


 だが、それは少年自身の価値を示すものではない。


「……お前は、番号じゃない」


 ダニエルは、少年の目を見た。


「研究者が何と呼んでいたとしても、お前が何者なのかを、それだけで決めることはできない」


「じゃあ、僕は何なの?」


「それは……」


 ダニエルは言葉を探した。


 簡単に答えることはできた。


 大切な友達だ。


 助けたい相手だ。


 自分が守ると約束した少年だ。


 けれど、そう答えれば、また彼の存在を自分との関係だけで定義してしまう。


「お前自身が、これから決めていけばいい」


 少年は不思議そうに彼を見た。


「自分で?」


「ああ。何が好きなのか。何をしたいのか。誰と一緒にいたいのか。そういうことを、少しずつ見つけていけばいい」


「……わからないことばかりだよ」


「俺だって、わからないことだらけだ」


 ダニエルは苦笑した。


「それでも、今はこうして生きてる」


 少年は、少しだけ笑った。


「ダニエルも、わからないことがあるんだね」


「当たり前だろ」


 そのとき、リナが端末を持って部屋に入ってきた。


「二人とも、少しいい?」


 彼女の表情は真剣だった。


「少年の覚醒が安定してきたから、旧記録の一部を確認できるようになったの。本人の同意があれば、過去の記録を一緒に確認できるわ」


 少年の顔から、笑みが消えた。


「……僕の記録?」


「ええ。ただし、無理に見る必要はない。知りたくないことまで、今すぐ知る必要はないから」


 リナは、端末をベッドの脇に置いた。


「あなたが知りたいと思うなら、一緒に確認する。見たくないなら、今はやめてもいい」


 少年は画面を見つめた。


 そこには、いくつものファイル名が並んでいた。


 神経活動の記録。


 覚醒状態の推移。


 研究対象の管理履歴。


 そして、一番下に、ひとつのファイルがあった。


 《FIRST SUBJECT:PERSONAL ARCHIVE》


「……これを見たら、僕が何者なのかわかる?」


 リナは正直に答えた。


「すべてがわかるとは限らない。でも、あなたが過ごしてきた時間の一部は、確認できると思う」


 少年はダニエルを見た。


「一緒に見てくれる?」


「もちろん」


「途中で、見たくなくなったら?」


「そのときは止める。お前が決めていい」


 少年はしばらく考えたあと、小さくうなずいた。


「……見たい」


 リナがファイルを開いた。


 画面に、古い映像が表示された。


 幼い少年が、白い部屋の隅に座っていた。


 今よりもさらに小さな身体。


 膝を抱え、扉の方をじっと見つめている。


 しばらくして、扉が開いた。


 入ってきたのは、幼いダニエルだった。


「……っ」


 現在のダニエルが息をのんだ。


 記憶の中にあった光景。


 窓のない部屋。


 床に置かれたパン。


 何も知らなかった二人が、同じ時間を過ごしていた場所。


 映像の中のダニエルは、少年の隣に座った。


『また、ひとりでいたの?』


 幼い少年が尋ねる。


『うん。でも、もう慣れた』


『慣れなくていいよ』


 ダニエルは、手に持っていたパンを半分に割った。


『はい』


『……いいの?』


『半分こだ』


 少年はパンを受け取り、うれしそうに笑った。


 映像を見ていた少年の目に、涙が浮かんだ。


「……覚えてる」


 かすかな声だった。


「全部じゃない。でも、このときのこと……覚えてる気がする」


 映像は続いた。


 幼い二人は、床に座って話していた。


 何を話しているのか、音声はほとんど残っていない。


 それでも、最後に交わした言葉だけは、はっきりと記録されていた。


『いつか、ここから出られるかな』


 少年が尋ねる。


『出られるよ』


 ダニエルは答えた。


『どうしてわかるの?』


『わからない。でも、ずっとここにいるって決まったわけじゃないだろ』


 少年は、少し考えた。


『じゃあ、出られたら、また会える?』


『ああ』


『約束だよ』


『約束する』


 映像が止まった。


 少年は顔を伏せていた。


 ダニエルも、何も言えなかった。


 思い出した。


 あのとき、自分は確かに約束した。


 けれど、約束を守れなかった。


 施設が封鎖されたとき、彼は少年を連れて逃げることができなかった。


 生き残るために、ひとりで逃げることを選んだ。


 その事実は変わらない。


「……ごめん」


 ダニエルは、もう一度謝った。


「約束したのに、戻ってくるまでに三年もかかった」


 少年は顔を上げた。


「……でも、戻ってきたよ」


「ああ」


「だから、もういい」


 ダニエルは、驚いたように少年を見た。


「許してくれるのか?」


 少年は少し考えた。


「まだ、よくわからない。寂しかったし、怖かったから」


「……そうだよな」


「でも、ダニエルも怖かったんでしょ?」


 ダニエルは、答えられなかった。


「僕、覚えてるんだ。あの日、ダニエルが扉の向こうに行ったこと。追いかけたかったけど、身体が動かなかったこと」


 少年はシーツを握った。


「ずっと、また会えるのかなって思ってた」


「……ああ」


「だから、今すぐ全部許せるかはわからない。でも、これから一緒に話していくことはできるよ」


 ダニエルは目を閉じた。


 許しを求めることと、許すことを強いることは違う。


 少年が自分を許すかどうかまで、決めてはいけない。


「ありがとう」


 それだけを、静かに伝えた。


 リナは、映像の続きを確認していた。


「もうひとつ、記録があるわ」


 彼女が表示したのは、研究者が残した短い報告書だった。


 そこには、少年の名前に関する記述があった。


 《対象者の正式登録名:未確認》

 《研究上の識別番号:第一被験者》

 《本人が使用していた呼称:記録なし》


「……名前がない?」


 少年が尋ねた。


「正式な登録名は残っていない。少なくとも、今確認できる資料にはないわ」


 少年は画面を見つめた。


「じゃあ、僕には名前がないの?」


「違う」


 ダニエルは、はっきりと言った。


「記録に残っていないことと、名前がないことは違う」


 少年は顔を上げた。


「お前が自分の名前を覚えていないなら、今すぐ思い出す必要はない。誰かが勝手に名前を決めて、お前に押しつける必要もない」


「……自分で決めてもいいの?」


「もちろんだ」


 少年は、長い間考えていた。


 窓の外を見つめる。


 雲が流れていく。


 やがて、彼は小さな声で言った。


「……僕、まだ自分の名前がわからない」


「うん」


「でも、番号で呼ばれるのは、もう嫌だ」


「わかった」


 ダニエルはうなずいた。


「名前が決まるまでは、俺たちが勝手に番号で呼ぶことはない」


 少年は、少しだけ安心したように笑った。


「ありがとう」


 その言葉を聞きながら、ダニエルは思った。


 名前は、過去を証明するためだけにあるのではない。


 誰かに与えられた役割を示すものでもない。


 自分が自分として生きていくために、必要なら自分で選べばいい。


 少年は再び窓の外を見た。


「……僕、もう少し考えてみる」


「ああ。ゆっくりでいい」


 リナが端末を閉じた。


「今日の確認はここまでにしましょう。疲れているはずだから、休んで」


 少年はうなずき、枕に頭を預けた。


 目を閉じる直前、ダニエルを見た。


「……また、明日も来てくれる?」


「もちろん」


「約束?」


「約束だ」


 少年は安心したように目を閉じた。


 今度の眠りは、誰かに強制されたものではなかった。


 自分の意思で休むための、短い眠りだった。


 ダニエルは椅子から立ち上がり、リナと一緒に部屋を出た。


「名前は、まだ決まらなかったな」


 廊下でダニエルが言うと、リナは首を横に振った。


「いいえ。ひとつ、決まったことがあるわ」


「何だ?」


「彼はもう、自分を番号で呼ばれることを受け入れなくていい。自分の名前を、自分で考えていいと知った」


 ダニエルは、静かにうなずいた。


 それは小さな一歩だった。


 だが、誰かに未来を決められてきた少年にとっては、初めて自分自身のために選べる一歩だった。


 過去の記録には、彼の名前が残っていない。


 けれど、これからの記録には、彼自身が選んだ名前を書き込める。


 ダニエルは、医療区画の扉を振り返った。


「……次に会うときは、何か好きなものでも聞いてみるか」


「そうね。名前より先に、好きな食べ物が決まるかもしれないわ」


「それはありそうだな」


 二人は小さく笑った。


 長い間、少年は研究者たちの記録の中で生きていた。


 第一被験者。


 重要な神経反応。


 CODE Ωの中核となる存在。


 だが、もうそれだけではない。


 彼は、空を見たいと思った。


 明日もダニエルに会いたいと思った。


 そして、自分の名前を自分で考えたいと思った。


 そのひとつひとつが、彼自身の人生の始まりだった。


 まだ名前はない。


 けれど、彼の未来は、もう誰かの記録の中だけには存在しなかった。

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