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Code Ω  作者: ニコル
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第61話 君の名前を呼ぶ日


 朝、ヴィクターはモニターの警告音で目を覚ました。


 椅子に座ったまま、いつの間にか眠っていたらしい。


 反射的に立ち上がり、カプセルへ目を向ける。


「……何だ?」


 神経反応に異常はない。


 外部接続も確認されていない。


 だが、昨夜までとは明らかに違っていた。


 少年の脳波が、一定の周期を保ちながら変化している。


 まるで、長い眠りの底から、ゆっくりと浮かび上がってくるように。


 ヴィクターは通信端末を手に取った。


「ダニエル、すぐに来い」


     *


「意識が戻り始めている可能性がある?」


 駆けつけたダニエルは、モニターを見つめた。


「正確には、覚醒に向かっている兆候があるということよ」


 リナは慎重にデータを確認していた。


「神経活動は安定している。外部からの刺激に依存している様子もない。だけど、実際に意識が戻っているかは、本人が反応するまでわからないわ」


「無理に起こすことは?」


「しない。今の状態を維持して、本人の反応を待つ」


 ダニエルはカプセルに近づいた。


 三年前、彼はここから逃げた。


 少年を助けようとした。


 戻ってくると約束した。


 けれど、施設が封鎖され、何が起きているのかもわからない状況で、彼は生き残ることを選んだ。


 その選択を、今さらなかったことにはできない。


 だからこそ、もう一度会えたなら、言い訳をするつもりはなかった。


「……来たぞ」


 ダニエルは透明な壁に手を置いた。


「約束しただろ。迎えに来るって」


 返事はない。


「遅くなって、ごめん」


 言葉にした途端、胸の奥が痛んだ。


 謝りたいことは、これだけではない。


 少年がひとりで過ごした時間。


 何も知らされず、誰にも選ばせてもらえなかった時間。


 そのすべてを、ダニエルが取り戻してやることはできない。


 それでも、これからの時間を一緒に過ごすことはできる。


「もう、誰もお前の人生を勝手に決めたりしない」


 ダニエルは、ゆっくりと言った。


「目を覚ましたくなければ、無理に起きなくてもいい。俺を許せなくてもいい。何を選んでも、お前の選択を聞く」


 リナがモニターから顔を上げた。


「ダニエル……」


「俺は、お前に目を覚ましてほしい。だけど、それは俺の願いだ。お前の答えじゃない」


 静かな時間が流れた。


 やがて、カプセルの中で、少年のまぶたがわずかに震えた。


 ヴィクターが息を止める。


 リナはモニターを確認した。


 神経活動に急激な変化はない。


 少年の身体に負担がかかっている様子もなかった。


 そして――


 ゆっくりと、少年の目が開いた。


「……っ!」


 ダニエルは言葉を失った。


 青い瞳。


 記憶の中に残っていた、あの日と同じ瞳だった。


 少年はぼんやりと天井を見つめたあと、視線を動かした。


 ダニエルの姿を見つける。


 その目が、少しだけ大きくなった。


「……ダニ、エル?」


 かすれた声だった。


 それでも、確かに彼の名前を呼んだ。


「……ああ」


 ダニエルの喉が詰まった。


「俺だ」


 少年は、しばらく彼を見つめていた。


 やがて、小さく口を開いた。


「……本当に、来たんだ」


「来たよ」


「……遅かったね」


 ダニエルは苦笑した。


「本当に、ごめん」


 少年は目を閉じかけたが、すぐにまた開いた。


「……僕、どれくらい寝てたの?」


「三年だ」


「三年……?」


 少年の表情が変わった。


 すぐには理解できないのだろう。


 無理もなかった。


 最後に覚えている時間と、今の時間の間には、大きな隔たりがある。


「詳しいことは、あとで話す。今は無理に思い出そうとしなくていい」


 リナが慎重に状態を確認しながら告げた。


「あなたの身体は、まだ十分に回復していないの。少しずつ、ゆっくり進めていきましょう」


 少年は彼女を見て、小さくうなずいた。


 そして、もう一度ダニエルへ視線を戻した。


「……ねえ」


「なんだ?」


「僕、また眠るの?」


 ダニエルは、すぐには答えなかった。


 目を覚ましたばかりの少年に、これからのことを断言することはできない。


 身体の回復には時間がかかる。


 記憶がどこまで残っているのかも、まだわからない。


 それでも、ひとつだけ約束できることがあった。


「眠ることになっても、今度は何も言わずにいなくなったりしない」


 少年はダニエルの顔を見つめた。


「……本当?」


「ああ」


「約束?」


「約束だ」


 少年は、小さく笑った。


 その笑顔を見た瞬間、ダニエルは三年前の記憶を思い出した。


 窓のない部屋。


 分け合ったパン。


 帰ってくると約束した日。


 失われた記憶のすべてが戻ったわけではない。


 けれど、もう、それだけで十分だった。


 少年は、かすかな声で尋ねた。


「……僕の名前、覚えてる?」


 ダニエルの表情が止まった。


 少年の名前。


 その答えを、彼はずっと探していた。


 しかし、これまでの記録にも、明確な名前は残されていなかった。


 第一被験者。


 最初の被験者。


 管理番号。


 少年を指し示す言葉はいくつもあった。


 だが、それは名前ではない。


 ダニエルは、少年の目を見た。


「……ごめん。まだ、わからない」


 少年は少しだけ寂しそうにした。


 それでも、怒りはしなかった。


「そっか」


「でも、これから一緒に考えよう。お前が覚えていることも、俺が覚えていることも、全部確かめていけばいい」


 少年は、ゆっくりとうなずいた。


「……うん」


 そのとき、ダニエルの端末が震えた。


 反射的に画面を見る。


 旧ネットワークからの通知だった。


 ダニエルの表情が一瞬だけ硬くなる。


 しかし、そこに表示されていたのは、停止処理の最終報告だけだった。


 新しい命令も、接続要求もない。


 Ω-000の認証も、すでに無効化されている。


 彼は端末を伏せた。


「どうしたの?」


 少年が尋ねた。


「何でもない。もう大丈夫だ」


 ダニエルは答えた。


 それは、世界のすべてが安全になったという意味ではない。


 危険が二度と起きないという保証でもない。


 ただ、少なくとも今、この場所で、少年を何かの計画に組み込もうとする命令は存在しない。


 少年は、ただの少年として目を覚ました。


 そして、これから自分の人生を歩き始める。


     *


 その日の午後。


 少年は医療区画のベッドに移されていた。


 身体への負担を考慮し、長時間の会話は控えることになった。


 ヴィクターが入口を警護し、リナは回復に必要な環境を整えていた。


 ダニエルは、ベッドのそばの椅子に座っていた。


「ねえ、ダニエル」


「ん?」


「僕が寝てる間、何かあった?」


 ダニエルは少し考えた。


 すべてを話すには、まだ早い。


 それに、少年が知るべきことは、彼自身が知りたいと思ったときに話せばいい。


「いろいろあったよ。大変なことも、たくさん」


「……怖いこと?」


「ああ。怖いこともあった」


 少年は、シーツを握った。


「でも、もう終わったの?」


 ダニエルは、正直に答えた。


「全部が終わったわけじゃない。これから調べなきゃいけないこともあるし、まだわからないこともある」


 少年は不安そうに彼を見た。


 ダニエルは続けた。


「だけど、お前が何かのために無理をする必要はない。誰かを助けるために、自分を犠牲にする必要もない」


「……僕は、何もしなくていいの?」


「もちろん。まずは身体を治そう。それから、やりたいことを考えればいい」


 少年は、しばらく黙っていた。


 やがて、小さな声で言った。


「……外に出てみたい」


「外?」


「うん。空が見たい。ずっと、空を見てなかったから」


 ダニエルは微笑んだ。


「じゃあ、元気になったら一緒に行こう」


「約束?」


「また約束か」


 少年は、少しだけ笑った。


「……うん。約束」


 ダニエルは、その言葉を胸に刻んだ。


 今度こそ、守りたいと思った。


 だが、それは少年の未来を自分が決めるという意味ではない。


 約束した場所へ行くこと。


 そのとき少年が何を見て、何を感じ、何を選ぶのか。


 それを隣で見守ること。


 今のダニエルにできるのは、それだった。


     *


 夜。


 施設の屋上で、ダニエルは一人、星を見上げていた。


 背後から足音が近づく。


「ここにいたのね」


 リナだった。


「少年は?」


「眠ったわ。今日は十分に頑張ったから」


「そうか」


 ダニエルは、夜空へ視線を戻した。


「目を覚ましたとき、名前を聞かれたんだ」


「名前?」


「自分の名前を覚えているかって」


 リナは隣に立った。


「……答えられなかったのね」


「ああ。記録を探しても、まだ確かなものは見つかっていない」


「なら、本人と一緒に探せばいいわ。記録に名前がなかったからといって、あの子に名前がないわけじゃないもの」


「そうだな」


 ダニエルはうなずいた。


 しばらく、二人は黙って星を見ていた。


「ノー・ゼロのことは、まだ気になっている?」


 リナが尋ねた。


「気にならないと言えば嘘になる」


「これからも調べる?」


「証拠が見つかればな。でも、無理に探し回るつもりはない。あいつが何者だったのか、最後までわからなかったとしても、残した言葉まで消えるわけじゃないから」


 リナは微笑んだ。


「あなたらしい答えね」


「そうか?」


「ええ。前のあなたなら、答えが出るまで全部を追いかけていたと思う」


 ダニエルは苦笑した。


 確かに、そうだったかもしれない。


 記憶を取り戻すため。


 過去の真実を知るため。


 誰かを救うため。


 彼はいつも、何かを解決しなければ前へ進めないと思っていた。


 だが、今は違う。


 わからないことを抱えたままでも、生きていくことはできる。


 答えが出ないからといって、未来まで止める必要はない。


「リナ」


「なに?」


「これからも、よろしく頼む」


 リナは、少しだけ目を丸くした。


 そして、静かに笑った。


「こちらこそ」


 二人は、夜空を見上げた。


 世界は、何もかもが変わったわけではない。


 争いは残る。


 人は間違える。


 技術は、使い方次第で誰かを救うことも、傷つけることもある。


 それでも、人の未来を人の手から奪っていい理由にはならない。


 誰かが決めた正解を選ぶのではなく、自分で考え、自分で選ぶ。


 その自由を守ること。


 それが、ダニエルたちの戦いがたどり着いた答えだった。


 そして翌朝。


 少年は、再び目を覚ました。


 窓から差し込む光を見つめ、ゆっくりと口を開く。


「……空って、こんなに明るかったんだ」


 その声を聞いたダニエルは、何も言わずに微笑んだ。


 これから、どんな未来が待っているのか。


 まだ誰にもわからない。


 けれど、それでいい。


 未来は、誰かに決めてもらうものではないのだから。


 少年は、自分の意思で空を見上げた。


 ダニエルもまた、その隣で空を見上げた。


 長い戦いの果てに、二人はようやく、同じ朝を迎えたのだった。

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