第64話 それぞれが選んだ未来
朝の光が、医療区画の窓から差し込んでいた。
「準備できた?」
ダニエルが尋ねると、少年はベッドの端に腰掛けたまま、何度もうなずいた。
「うん!」
「そんなに急ぐな。まだ長く歩けないんだからな」
「わかってるよ」
そう言いながら、少年は立ち上がろうとした。
身体が傾く。
「おっと」
ダニエルが腕を伸ばして支えた。
「……ごめん」
「謝らなくていい。ゆっくりでいいんだ」
少年は少し悔しそうに唇を結んだ。
以前なら、身体が動かないことさえ、研究者たちの判断に委ねられていた。
今は違う。
自分の足で立とうとして、失敗して、それでももう一度挑戦できる。
その自由を、少年は少しずつ理解し始めていた。
「もう一回」
少年が言った。
ダニエルはうなずいた。
「よし。今度は俺の腕につかまれ」
二人はゆっくりと歩き始めた。
廊下を抜け、医療区画の出口へ向かう。
扉の向こうには、施設の外へ続く通路があった。
かつて、この施設は世界の未来を決めるために使われていた。
その内部では、人間の記憶や人格が数字として扱われ、意思さえも制御の対象になっていた。
だが、今は違う。
壁面の管理端末は停止している。
自動認証のランプも消えている。
誰かの意思を無視して動くシステムは、もう存在しない。
少年は通路の先にある扉を見つめた。
「……あの向こう?」
「ああ」
「本当に、外なんだね」
「そうだ」
ダニエルが認証パネルを操作すると、扉がゆっくり開いた。
風が吹き込んできた。
少し冷たい、外の風だった。
少年は目を閉じ、顔を上げた。
「……風って、こんな感じなんだ」
ダニエルは何も言わず、彼が感じるままに任せた。
しばらくして、少年は目を開けた。
空が広がっていた。
雲が流れ、遠くの木々が風に揺れている。
建物の向こうでは、鳥が飛んでいた。
特別な景色ではない。
世界のどこにでもある、ごく普通の朝だった。
それでも、少年にとっては初めて自分の意思で見に来た景色だった。
「……きれいだね」
「ああ」
「僕、もっといろんなものを見たい」
「見に行こう」
「いろんな場所に?」
「いろんな場所に」
少年は、ダニエルの腕を握る手に少し力を込めた。
「じゃあ、約束」
「またか?」
「うん。大事だから」
ダニエルは笑った。
「わかった。約束だ」
*
その日の午後、リナは施設の管理室で、最後の報告書をまとめていた。
CODE Ωの停止。
旧管理者認証の無効化。
人格複製および強制的な神経制御機能の恒久停止。
研究記録の保全。
被験者の個人情報へのアクセス制限。
そして、独立した監査体制への移行。
ひとつひとつ確認し、報告書に記載していく。
最後の項目を入力したところで、彼女の手が止まった。
《最終管理者:Ω-004》
かつて、自分の記憶構造を参考に設計された権限。
リナ自身が、その権限を手放すと決めた。
今、その表示はすでに無効になっていた。
彼女は画面を見つめた。
自分の過去について、まだわからないことは多い。
なぜ自分の記憶構造が利用されたのか。
誰がどこまで関わっていたのか。
失われた記憶の中に、何が残っているのか。
だが、以前とは違う。
今の彼女は、それらの答えを得るために、誰かの指示に従う必要はない。
調べるかどうかも、自分で決められる。
「……まずは、普通の生活からかな」
小さくつぶやいた。
そのとき、背後から声がした。
「普通の生活って、具体的には何をするんだ?」
振り返ると、ダニエルが立っていた。
「人の報告書を勝手にのぞかないこと」
「見てない。声が聞こえただけだ」
「そういうことにしておくわ」
リナは端末を閉じた。
「少年は?」
「外に出られた。ずっと空を見てたよ」
「よかった」
「かなり疲れたみたいだけどな。今は休んでる」
ダニエルは窓の外を見た。
「……リナ。これからどうする?」
リナは少し考えた。
「自分の過去を調べるわ。でも、急がない。今度は誰かに答えを与えられるんじゃなくて、自分で確かめたい」
「そうか」
「あなたは?」
「俺も、まだわからない」
ダニエルは正直に答えた。
「記憶を取り戻したからって、これから何をすればいいのかまで決まるわけじゃないだろ」
「ええ」
「だから、しばらくは少年の回復を手伝いながら、自分の生活を考えるよ」
リナは微笑んだ。
「いいんじゃない? ようやく自分の人生を考えられるようになったんだから」
「……そうだな」
ダニエルは、窓の向こうの空を見つめた。
かつては、何かを決めるたびに、失われた記憶が答えを持っているのではないかと考えていた。
だが、記憶は過去を教えてくれても、未来を決めてはくれない。
未来は、自分で選ぶものだ。
*
施設の別棟では、ヴィクターが古い資料を整理していた。
父、アレクサンダー・レイン。
彼が何を計画し、どこまで実行に関わったのか。
その全貌は、まだ明らかになっていない。
ヴィクターは資料の束を机に置いた。
父の思想は、理解できないものではなかった。
争いをなくしたい。
人間が互いを傷つける世界を終わらせたい。
その願い自体は、間違いとは言い切れない。
だが、父はそのために、人間が選ぶ自由を奪おうとした。
ヴィクターは、それを受け入れられなかった。
「……父さん」
誰もいない部屋で、彼はつぶやいた。
「俺は、あなたとは違う道を選ぶ」
資料をすべて捨てるつもりはなかった。
罪を隠すためでも、父を正当化するためでもない。
何が起きたのかを明らかにし、同じことを繰り返さないためだ。
ヴィクターは新しい保管箱を開き、資料を分類し始めた。
父の名前を消しても、起きたことは消えない。
だが、その過去をどう扱うかは、自分で決められる。
*
別の場所では、カイとシックスが静かな時間を過ごしていた。
正確には、ふたりが共有する神経接続の内側だった。
以前のように、誰かが無理やり接続を変更しようとすることはない。
ふたりの接続は安定していた。
『……外の空って、どんな感じなんだろうな』
カイの声が響いた。
『記録上の情報なら持っている』
シックスが答える。
『そういう意味じゃない』
『理解している。実際に見たとき、どう感じるかという質問だろう』
『そうだよ』
少しの沈黙があった。
『僕には、まだわからない』
シックスが言った。
以前なら、その言葉を欠陥として扱っていたかもしれない。
理解できないものは、学習して補うべきもの。
答えがないなら、誰かの記憶から答えを取り出せばいい。
だが、今は違う。
『わからないなら、いつか確かめればいい』
カイが言った。
『僕たちが、自分で選んで?』
『ああ。誰かに命令されるんじゃなくてな』
シックスは、しばらく考えた。
『……それなら、僕も見てみたい』
『いつか行こうぜ』
『そのときは、君も一緒に来るのか?』
『当たり前だろ』
カイは笑った。
『勝手にひとりで行かれたら困る』
シックスは、その言葉の意味を考えた。
誰かと一緒にいること。
誰かに利用されること。
誰かの意思に従わされること。
それらは、同じではない。
自分で一緒にいることを選ぶなら、それは自分の意思だ。
『わかった。僕も、その日を待つ』
ふたりの接続は、静かに安定を続けていた。
今すぐ分離する必要はない。
安全な方法が見つかり、ふたりが望んだときに、改めて考えればいい。
それは先延ばしではなかった。
自分たちで決めるための、選択だった。
*
夕方。
ダニエルは、再び医療区画を訪れた。
少年はベッドの上で、今日撮影した空の写真を見ていた。
「それ、どうしたんだ?」
「リナが撮ってくれたんだ」
画面には、雲ひとつない青空が映っていた。
「今日の空、忘れたくないから」
ダニエルは、その隣に座った。
「忘れてもいいんだぞ」
少年は顔を上げた。
「え?」
「忘れたくないと思う気持ちは大事だ。でも、忘れたら全部なくなるわけじゃない。写真だってあるし、また見に行けばいい」
「……そっか」
少年はもう一度、写真を見た。
「じゃあ、また明日も見に行きたい」
「体調がよければな」
「うん」
しばらくして、少年が口を開いた。
「ダニエル」
「何だ?」
「僕、怖いんだ」
ダニエルは、黙って続きを待った。
「これから、いろんなことを自分で決めるんでしょ?」
「ああ」
「間違えたら、どうしよう」
少年の指が、写真の端を握った。
「また、誰かを困らせたり、傷つけたりしたら?」
ダニエルは、すぐには答えなかった。
自分だって、間違えてきた。
逃げることを選んだ。
真実を知るのを恐れた。
誰かを守ろうとして、別の誰かを傷つけたこともある。
正しい選択だけをして生きてきたわけではない。
「……間違えることはあると思う」
ダニエルは言った。
「俺だって、これから間違えるかもしれない」
「うん」
「でも、間違えたら、そこから考えればいい。謝ることもできるし、やり直せることもある。自分ひとりでは難しいなら、誰かに助けてもらえばいい」
少年は、じっと聞いていた。
「大事なのは、最初から正しい答えを知っていることじゃない。自分で考えて、選んで、その結果と向き合うことだと思う」
「……ダニエルも、そうするの?」
「ああ」
「じゃあ、僕もそうする」
少年は、少しだけ胸を張った。
「僕、まだ何も知らないけど、これから覚えていくよ」
「そうだな」
「それで、いつか自分の名前も決める」
ダニエルは微笑んだ。
「楽しみにしてる」
少年はうなずき、写真を大切そうに保存した。
窓の外では、日が沈み始めていた。
CODE Ωは止まった。
ノー・ゼロが残した記録も、すべてを明らかにしたわけではない。
リナの過去には、まだ調べるべきことがある。
ヴィクターも、父の行いに向き合っていく必要がある。
カイとシックスは、これから自分たちの関係を考えていく。
誰もが、すべての答えを手に入れたわけではない。
それでも、彼らはもう、誰かに決められた未来を歩く必要はなかった。
明日、何をするのか。
誰と一緒にいたいのか。
どんな自分になりたいのか。
その答えは、これからの日々の中で見つけていけばいい。
ダニエルは立ち上がり、少年に手を差し出した。
「また明日な」
少年は、その手を握った。
「うん。また明日」
その約束には、認証コードも、管理者の承認も必要なかった。
二人が自分の意思で交わした、ただの約束だった。




