第59話 最後の選択
翌朝。
施設の医療区画には、夜明け前から三人が集まっていた。
ダニエル、リナ、そしてヴィクター。
少年の神経反応は、前夜から少しずつ変化していた。
外部からの信号はない。
強制的な神経接続も行われていない。
それなのに、少年の脳は、まるで何かを確かめるように活動を続けていた。
「反応の周期が変わっているわ」
リナがモニターを確認した。
「以前は外部の神経ネットワークに依存していた部分が、少しずつ独立した活動を示している」
「目覚める準備ができてきたってことか?」
ダニエルが尋ねる。
「そうかもしれない。でも、医学的に覚醒できる状態かどうかは、まだ判断できない。少なくとも、今ここで無理に何かをするべきではないわ」
「わかった」
ダニエルは迷わず答えた。
以前なら、少しでも可能性があれば手を伸ばしていたかもしれない。
目覚めさせたい。
約束を果たしたい。
自分の知っている少年に、もう一度会いたい。
その気持ちは今も変わらない。
だが、それを理由に少年の意思を無視すれば、自分たちが止めたはずのCODE Ωと同じことをしてしまう。
「ダニエル」
ヴィクターが声をかけた。
「お前に見せたいものがある」
彼が差し出したのは、昨夜の監視記録だった。
「外周を調べたとき、旧管理棟の通信設備が一度だけ起動していた。誰かが侵入した形跡はなかったが、設備の中に古い記録が残っていた」
「LEGACY OBSERVERと関係があるのか?」
「断定はできない。ただ、起動時刻はあの閲覧要求とほぼ一致している」
リナが記録を確認した。
「この設備、外部への通信は行っていないわ。内部の記録を読み出しただけみたい」
「何の記録だ?」
「最終管理機能の停止確認。それから……ノー・ゼロに関する記録」
ダニエルは顔を上げた。
「見せてくれ」
リナが映像データを開く。
画面には、三年前の研究施設が映っていた。
認証装置が破壊された直後。
非常灯だけが点灯する廊下を、ひとりの少年が歩いている。
赤い瞳。
ダニエルと同じ顔。
ノー・ゼロだった。
映像の彼は、片腕を押さえていた。歩き方も不安定で、何度か壁に手をついている。
それでも、彼は立ち止まらなかった。
「負傷していたのか……」
ダニエルがつぶやく。
「映像だけでは程度まではわからない。でも、少なくとも自力で移動できる状態だったようね」
ノー・ゼロは廊下の突き当たりにある扉の前で立ち止まった。
扉には、第一被験者の医療区画を示す表示があった。
彼は認証端末に手を伸ばした。
しかし、扉は開かなかった。
《アクセス拒否》
表示が点灯する。
ノー・ゼロはしばらく画面を見つめていた。
やがて、扉の前に小さな記録媒体を置いた。
そして、カメラに顔を向けた。
『……これを見ている奴がいるなら、聞いておけ』
音声が再生された。
『俺の認証情報は、もう使うな。俺の記憶を使って、俺と同じものを作るな』
ノー・ゼロは、苦しそうに息を吐いた。
『俺が何者だったのか、俺自身にも全部はわからない。だが、誰かに作られた存在だからといって、何をされてもいいわけじゃない』
ダニエルは画面を見つめた。
『もしダニエルが生きているなら、あいつに選ばせろ。あいつの人生まで、俺のために使うな』
そこで映像が乱れた。
ノー・ゼロは扉を一度だけ振り返り、歩き去った。
映像はそこで終わっていた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて、リナが静かに言った。
「この記録が本物なら、彼は認証装置が壊れたあとも、第一被験者のところへ向かおうとしていた」
「でも、扉は開かなかった」
「ええ。施設封鎖の影響かもしれない。彼がそのあとどうなったのかは、この映像には残っていない」
ダニエルは、画面に映った扉を見つめた。
ノー・ゼロは、最後まで自分の行動を選ぼうとしていた。
そして、ダニエルにも同じことを望んでいた。
自分を救うために生きるな。
自分の記憶を受け継ぐために生きるな。
自分の代わりに正しい答えを出そうとするな。
ただ、自分自身の人生を選べ。
「……あいつは、俺を自由にしたかったんだな」
ダニエルが言った。
「そうなのかもしれないわ」
リナは映像を保存した。
「でも、これで本人が生きていたと証明されたわけじゃない。映像のあとに何が起きたのか、まだわからないから」
「ああ。もう、証拠がないことを希望だけで埋めるつもりはない」
ダニエルは、はっきりと言った。
「もし、あいつが生きているなら、いつか自分で姿を見せるだろう。もし、もういないのなら……残された意思を、勝手に利用させない。それでいい」
そのとき、医療区画のモニターが小さく音を立てた。
少年の神経反応に変化があった。
リナが急いで確認する。
「待って……これ、今までと違う」
波形がゆっくりと変化している。
外部からの信号はない。
旧ネットワークからの接続もない。
少年の神経活動だけが、自発的に変化していた。
「ダニエル、声をかけてみて」
リナが言った。
ダニエルはカプセルに近づいた。
以前と同じように、透明な壁に手を置く。
「聞こえるか?」
返事はない。
「俺だ。ダニエルだ」
静かな時間が流れた。
「約束どおり、迎えに来た。お前がいつ目を覚ますかは、もう誰にも決めさせない」
ダニエルは、一度言葉を切った。
「目覚めたくなければ、今はそのままでもいい。俺はここにいる。お前が自分で決めるまで、待っている」
その瞬間。
少年の指が、わずかに動いた。
今度は、モニターの誤作動ではなかった。
神経反応と、指の動きが一致している。
ヴィクターが息をのむ。
「おい……今のは」
「ええ。自発的な動きよ」
リナの声が震えていた。
ダニエルは、少年の手を見つめた。
指は再び静止した。
それ以上の反応はない。
だが、確かに動いた。
「目覚めるのか……?」
ダニエルは、問いかけるようにつぶやいた。
誰も答えなかった。
まだ、何も確定していない。
それでも、今までとは違う一歩だった。
そのとき、端末に新しいメッセージが届いた。
送信元はΩ-000。
《最終解除の条件は満たされた》
続いて、もう一行。
《残るのは、記録の処理だけだ》
ダニエルは画面を見た。
そして、返信を入力した。
《人格の複製と強制制御に使われる機能は停止する。治療に必要な記録は、独立した監査のもとで残す。候補者本人の情報は、本人の同意なしに公開しない》
送信。
しばらくして、返事が届いた。
《それでいい》
短い言葉だった。
ダニエルは、もう一度だけ画面を確認した。
《最後に聞く。お前は、俺に何を望む?》
今度は、返信が届かなかった。
代わりに、旧管理ネットワークの接続状態が変化した。
《LEGACY OBSERVER:終了》
《旧管理認証:無効化》
《自動再起動機能:停止》
画面から、Ω-000の表示が消えた。
リナは処理結果を確認し、静かにうなずいた。
「これで、旧管理ネットワークからCODE Ωを再起動する経路は閉じられたはずよ」
「完全に、か?」
「確認できる範囲ではね。少なくとも、残された管理認証を使って、誰かが一人で全機能を動かすことはできない」
ダニエルは息を吐いた。
長い戦いの中で、初めて、本当に終わりが見えた気がした。
すべての疑問に答えが出たわけではない。
ノー・ゼロが生きているのか、少年がいつ目覚めるのか、まだわからないことは残っている。
だが、それらの答えを知るために、誰かの意思を犠牲にする必要はなくなった。
ダニエルは、カプセルの中の少年に向き直った。
「もう大丈夫だ」
その言葉は、少年だけに向けたものではなかった。
三年前の自分にも。
記録の中に残されたノー・ゼロにも。
そして、これから自分の人生を選んでいく、すべての候補者たちにも。
ダニエルは、静かに目を閉じた。
誰かが決めた正解を選ぶのではない。
正解がわからなくても、自分で選ぶ。
その自由を守るために、彼らは戦ってきた。
そして今、ようやく、その戦いに終止符を打つ準備が整った。
残された最後の選択は、もうシステムの中にはない。
彼ら自身の手の中にあった。




