第58話 目覚めるための条件
施設に戻ると、ヴィクターが入口で待っていた。
「遅かったな」
「少年に何かあったのか?」
ダニエルが尋ねると、ヴィクターは首を横に振った。
「危険な変化じゃない。だが、少し妙なことが起きている」
ヴィクターに案内され、二人は少年のいる医療区画へ向かった。
白い照明に照らされた部屋の中央で、少年はカプセルの中に眠っていた。
その傍らには、神経反応を監視する装置が並んでいる。
「三十分ほど前、外部からの接続がない状態で、少年の神経活動に変化があった」
ヴィクターがモニターを指さした。
「これまで、外部からの信号に反応することはあった。だが、今回は違う。外部信号がないのに、神経活動が一定のパターンを示したんだ」
「自発的な反応か?」
「その可能性がある。ただし、これだけでは意識が戻っているとは断定できない」
ダニエルはカプセルに近づいた。
少年の顔は、以前と変わらない。
あの小さな部屋でパンを分け合ったときも、窓のない部屋で眠っていたときも、少年は同じ顔をしていた。
そして、別れ際に言った。
――迎えに来てね。
ダニエルは、その約束を果たすために戻ってきた。
だが、戻ってきたからといって、すぐに目覚めさせていいわけではない。
「神経活動が変わった原因は、CODE Ωの解除か?」
リナがモニターを確認した。
「時刻は一致している。主要管理機能が停止した直後から、反応に変化が出始めているわ」
「システムが止まったことで、少年の脳が自分の活動を取り戻し始めた……ということか」
「可能性はある。でも、まだ断定はできない。長期間の神経接続による影響も考えられるし、別の要因が残っているかもしれない」
ダニエルは、カプセルの透明な壁に手を置いた。
「目覚めるために、何か操作が必要なのか?」
ヴィクターは少し考えてから答えた。
「少なくとも、外部から覚醒を強制する必要はない。むしろ、それは避けるべきだろう。今までの記録を見る限り、無理に接続を変えれば、本人の神経に負担がかかる可能性がある」
「じゃあ、待つしかないのか」
「待つことと、何もしないことは違う」
ヴィクターの声は、いつもより穏やかだった。
「状態を監視し、危険な接続が再び試みられないようにする。本人が目覚めたときに、選べる環境を整えておく。それが今、俺たちにできることだ」
ダニエルはヴィクターを見た。
以前の彼なら、そんな答えを口にしなかったかもしれない。
最短の手段を選び、危険を承知で実行する。それがヴィクターのやり方だった。
だが、彼も変わった。
誰かの意思を守るためには、あえて何もしない時間が必要なこともある。
「……ありがとう」
「礼を言われるようなことじゃない。俺は、ここにいると決めただけだ」
ヴィクターは照れ隠しのように顔を背けた。
そのとき、リナの端末に警告が表示された。
「待って。旧ネットワークから照会が来ている」
三人の表情が変わった。
「またΩ-000か?」
「違う。今回は、認証情報を使った接続要求じゃない。保存されている記録に対する、外部からの閲覧要求よ」
「どの記録だ?」
リナは画面を確認した。
「第一被験者の神経データ。それと、候補者たちの人格関連記録」
ダニエルはカプセルを振り返った。
「誰かが、少年の記録を持ち出そうとしているのか」
「まだ閲覧要求の段階。データの転送は始まっていない」
「接続元は?」
「旧研究ネットワークの外側。場所までは絞れていないけど、管理機能が止まったあとも残っていた経路を使っている」
ヴィクターが腰のホルスターに手を添えた。
「施設内に侵入者がいる可能性は?」
「今のところ確認されていない。でも、念のため外周を調べてくれ」
「わかった」
ヴィクターが部屋を出ていく。
リナはすぐに接続要求を遮断しようとしたが、ダニエルが画面を見て言った。
「待て。要求の内容を詳しく確認してくれ」
「危険かもしれないわ」
「わかってる。でも、相手が何を求めているのか、先に知りたい」
リナは接続を限定し、閲覧要求の付随情報だけを取り出した。
そこには、短い文が記されていた。
《第一被験者の覚醒状態を確認する》
ダニエルの表情が険しくなった。
「状態を確認するだけなら、なぜ候補者の人格記録まで要求する?」
「おそらく、神経接続の変化を比較するため。でも、誰が何の目的で調べているのかはわからない」
リナはさらに解析を進めた。
すると、要求に添付された識別情報の一部が判明した。
《LEGACY OBSERVER》
旧システムに登録された、監視用の識別名だった。
「管理者権限はない。でも、研究記録を閲覧するための限定権限が残っている」
「誰が登録した?」
「登録者情報は破損している。少なくとも、ジェームズの最終記録には、この識別名は出てこないわ」
ダニエルは考え込んだ。
新たな敵が現れたのか。
それとも、旧システムが停止したことで、残っていた監視機能が自動的に動き始めたのか。
今の情報だけでは判断できない。
「要求を拒否してくれ。少年の記録は、本人の同意なしに渡さない」
「わかった」
リナが拒否操作を行う。
画面に、処理完了の表示が出た。
しかし、直後に別のメッセージが表示された。
《閲覧要求:拒否を確認》
《再要求:停止》
それだけだった。
攻撃も、警告もない。
相手は拒否されたことを受け入れ、そのまま接続を終了した。
「……妙ね」
リナがつぶやいた。
「何がだ?」
「通常の自動監視なら、閲覧要求が拒否された時点で、別の経路から再試行する設定が残っていてもおかしくない。でも、今回は一度の拒否で止まった」
「つまり、相手が自分で止めた可能性がある?」
「ええ。少なくとも、拒否されたあとも強引にデータを取得しようとはしていない」
ダニエルは、画面に残る識別名を見つめた。
LEGACY OBSERVER。
旧システムの監視者。
それが誰なのかはわからない。
だが、ひとつだけ確かなことがあった。
相手は、少年の覚醒状態を知りたがっていた。
そして、拒否されると引き下がった。
「今は追跡よりも、少年を守ることを優先しよう」
ダニエルは言った。
「アクセス経路を閉じて、同じ要求が来ても自動で拒否できるようにしてくれ。誰かが記録を見ようとするたびに、少年を危険にさらすわけにはいかない」
「了解」
リナは設定を変更した。
やがて、モニターに表示されていた警告が消えた。
室内には、機器の作動音だけが戻ってきた。
ダニエルはカプセルの中の少年を見つめた。
「……お前が目を覚ましたら、全部話すよ」
返事はない。
「でも、無理に起こしたりはしない。お前が決めていいんだ」
彼は少しだけ笑った。
「もう、誰かの命令で未来を決められる必要はないからな」
その瞬間だった。
モニター上の神経反応が、わずかに変化した。
波形が一度、大きく揺れる。
リナが息をのんだ。
「ダニエル、今の反応……」
三人が画面を見つめる。
神経活動は数秒間、不規則に変化したあと、再び安定した。
警告は出ていない。
外部接続もない。
ただ、少年の神経が、自分自身のリズムを取り戻すように動いていた。
「意識が戻ったのか?」
ダニエルが尋ねた。
リナは慎重にデータを確認した。
「まだわからない。でも、今の反応は外部から与えられた信号とは違う」
ダニエルは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
目覚める日は、近いのかもしれない。
あるいは、まだ時間が必要なのかもしれない。
それでも、今度は違う。
誰かが勝手に決めた覚醒計画も、本人の意思を無視した接続もない。
少年が目覚めるかどうかを決めるのは、少年自身だ。
ダニエルはカプセルから手を離した。
待つことも、信じることも、彼が自分で選んだ行動だった。
そして今、守るべきものは、過去に残された答えではない。
まだ何も決まっていない、一人の少年の未来だった。




