第57話 ノー・ゼロが選んだもの
ノー・ゼロの記録を探すため、ダニエルとリナは施設の旧記録区画へ戻った。
CODE Ωの主要管理機能が停止したことで、これまで閲覧できなかったデータの一部が開放されている。だが、旧記録区画は研究初期に構築された独立サーバーにつながっており、すべての情報が新しい管理システムに移されたわけではなかった。
「ここにある記録は、三年前の事件より前のものが中心よ」
リナが端末を操作しながら言った。
「ノー・ゼロが本当に存在していたなら、名前そのものではなく、認証装置の破壊記録を追うべきだと思う」
「俺が撃った、あの装置か」
「ええ。あなたの記憶では、ノー・ゼロ本人ではなく、認証装置を撃った。なら、その直後に何が起きたかを調べればいい」
ダニエルはうなずいた。
記憶を取り戻したとき、彼は確かに思い出していた。
赤い瞳の少年。
自分と同じ顔。
そして、最後に交わした言葉。
――わからないまま選べ。誰かが決めた正解を選ぶな。
あの言葉が、なぜ今も自分の中に残っているのか。
答えを知るためには、過去の出来事を都合よく解釈するのではなく、残された事実を確かめる必要があった。
「見つけたわ」
リナの声が、静かな区画に響いた。
画面には、三年前の事故報告が表示されていた。
《認証装置破損》
《第一候補:認証機能停止》
《NO.0:生命反応、測定不能》
《施設封鎖プロトコル:実行》
「生命反応、測定不能……死亡確認じゃないのか」
「そう。施設の封鎖が優先されたせいで、正確な検査が行われていない。少なくとも、この記録だけでは死亡したとは断定できない」
「じゃあ、あのときのノー・ゼロが生きていた可能性もある」
「否定はできない。でも、逆に生きていた証拠もないわ」
ダニエルは画面を見つめた。
期待だけで結論を出すつもりはなかった。
あの声が本人のものなら、聞きたいことがある。
だが、本人ではなく、記憶を基に作られた存在だったとしても、これまで自分たちに伝えてきた言葉まで無意味になるわけではない。
問題は、その存在が何を知っていて、何を知らないのかだ。
「ほかに記録は?」
「事故報告に添付ファイルがある。でも、破損しているみたい」
リナはファイルを別の領域に移し、復元処理を始めた。
数秒後、映像が表示された。
映っていたのは、事故直前の研究室だった。
中央には認証装置。
その前に立っているのは、ダニエルだった。
まだ幼さの残る顔で、拳銃を構えている。
画面の外から、誰かが叫んだ。
『ダニエル、やめろ!』
その声はジェームズのものだった。
だが、映像のダニエルは引き金を引いた。
銃声。
装置が砕け、室内の照明が消える。
映像が大きく揺れた。
暗闇の中で、誰かが床に倒れる音がした。
そして、ノー・ゼロの声が聞こえた。
『……それでいい』
ダニエルの指が止まった。
「今の……」
「ええ。認証装置を撃った直後の音声ね」
映像はそこで途切れていた。
だが、音声データだけは残っていた。
リナが波形を確認すると、もう一度、音声を再生した。
『……それでいい』
短い言葉だった。
それでも、ダニエルにはわかった。
ノー・ゼロは、自分が装置を破壊することを予想していた。
いや、単に予想していたのではない。
その選択を受け入れていた。
「俺が装置を壊せば、CODE Ωの認証は止まる。でも、ノー・ゼロがどうなるかはわからなかった」
「それでも、彼は止めなかった」
「なぜだ?」
リナはすぐには答えなかった。
記録をさらに調べると、音声の前後に、別の通信データが残っていた。
ジェームズの認証情報を使った、研究室内部への緊急通信。
送信先は、ノー・ゼロの端末だった。
本文は短かった。
《計画を中止しろ。お前まで消える必要はない》
送信時刻は、認証装置が破壊される数分前。
ダニエルは眉を寄せた。
「ジェームズは、ノー・ゼロを助けようとしていたのか」
「その可能性は高いわ。ただ、返事は残っていない」
リナは通信記録の続きを探した。
すると、返信ではなく、別の操作履歴が見つかった。
《NO.0:最終認証拒否》
《認証情報の複製:停止》
《独立人格記録:保護対象に設定》
「独立人格記録……」
ダニエルはその言葉を繰り返した。
「ノー・ゼロは、自分の認証情報を複製させないようにしたのか?」
「そう読めるわ。彼の人格記録を使って、別のノー・ゼロを作ることを防ごうとしたのかもしれない」
「でも、今の俺たちと通信している存在は?」
「その記録だけではわからない。彼が残した保護機能を基に、後から作られた可能性もある。本人の意識が続いている可能性も、完全には否定できない」
ダニエルは目を閉じた。
これまで、ノー・ゼロが生きているのか、それとも残された記録にすぎないのかを知ろうとしてきた。
しかし、今見つかった記録は、それ以上に重要なことを示していた。
ノー・ゼロは、少なくとも最後の瞬間、自分自身の人格を勝手に複製されることを拒んでいた。
誰かに利用される存在ではなく、自分で選ぶ存在であろうとしたのだ。
「……あいつも、自由を奪われたくなかったんだな」
ダニエルがつぶやいた。
「だから、お前にあの言葉を残したのかもしれない」
そのときだった。
端末の画面が切り替わった。
新しい通信が届いていた。
送信元は、またしてもΩ-000。
リナはすぐに外部接続を遮断しようとしたが、ダニエルが手で制した。
「待ってくれ。今回は、話を聞きたい」
画面に文字が表示される。
《記録を確認したな》
ダニエルはキーボードに手を伸ばした。
《お前は、ノー・ゼロ本人なのか》
返信まで、数秒かかった。
《それを証明できる記録はない》
ダニエルは続けて入力した。
《なら、なぜ俺に協力する》
今度は、すぐに返事が届いた。
《お前が選ぶ機会を、これ以上奪わせないためだ》
ダニエルは画面を見つめた。
以前にも、似た言葉を聞いた。
だが、今回は違った。
ノー・ゼロを名乗る存在は、自分が本人であると主張しなかった。
過去の記憶を盾にして、信じろとも言わなかった。
ただ、自分が何をしようとしているのかを答えた。
ダニエルは、もうひとつ質問を送った。
《お前は、何を望んでいる》
長い沈黙があった。
リナが不安そうに画面を見つめる。
やがて、返事が表示された。
《俺が何者だったのかを、お前に決めてほしくはない》
ダニエルは息をのんだ。
《だが、もし俺がもう存在しないのなら、俺の名前を使って誰かを支配する仕組みは終わらせてくれ》
最後に、もう一行。
《それが、俺の残せる最後の選択だ》
通信が途切れた。
今度は、追跡する間もなく消えた。
リナは接続ログを保存した。
「これで本人だと確認できたわけじゃない」
「ああ」
「それでも、メッセージの内容は記録と矛盾していない。少なくとも、残された人格記録を使ってCODE Ωを再起動させようとしているわけではなさそうね」
ダニエルは、壊れた認証装置の映像をもう一度見た。
ノー・ゼロが生きているのか。
あの夜に本当に死んだのか。
その答えは、まだ出ていない。
だが、彼が最後に何を守ろうとしたのかは、少しだけわかった気がした。
自分と同じ顔をした少年は、誰かの命令に従うために生きていたわけではない。
たとえ、その存在が記録の中にしか残っていなかったとしても。
「リナ」
「なに?」
「残された記録の中に、人格の複製に使えるデータがあるなら、全部洗い出してくれ。ノー・ゼロのものだけじゃない。候補者全員の記録もだ」
「消すの?」
「いや。本人たちの記憶を勝手に消すことはしたくない。ただ、本人の知らないところで人格を複製したり、別の誰かを動かすために利用したりできない状態にする」
リナは静かにうなずいた。
「ジェームズの方針とも一致するわね。危険な機能を止めて、治療に必要な記録は独立した管理のもとに残す」
「ああ。俺たちが終わらせるのは、記録そのものじゃない。人間を記録で縛る仕組みだ」
ダニエルは端末を閉じた。
その言葉を口にしたとき、ようやく自分がどこへ向かおうとしているのか、はっきりとわかった。
過去を消すことではない。
過去に縛られ続ける未来を、終わらせることだ。
そして、そのために最後に確かめなければならない存在が、まだひとり残っていた。
眠り続ける少年。
彼の記憶と人格を、誰も勝手に利用できないようにすること。
そして、いつか目を覚ましたとき、彼自身が自分の未来を選べるようにすること。
ダニエルは車の窓から、遠くの空を見上げた。
長い戦いは、終わりに近づいている。
だが、本当の終わりは、敵を倒した瞬間に訪れるものではない。
誰もが、自分の意思で明日を選べるようになったとき。
そのとき初めて、CODE Ωは本当の意味で終わるのだ。




