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Code Ω  作者: ニコル
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第56話 残された記録

施設を出ると、冷たい風が頬を撫でた。


 ダニエルは空を見上げた。雲の切れ間から差し込む光は、地下で過ごした時間が嘘のように穏やかだった。


 だが、手の中の端末には、まだ解決していない問題が残っている。


 《次は、残された記録をどうするか決めろ》


 送信元はΩ-000。


 ノー・ゼロなのか、ジェームズの認証情報を利用している別の存在なのか。それはまだわからない。


「そのメッセージ、見せて」


 リナが端末を覗き込んだ。


「送信経路は?」


「調べたけど、途中で追跡が途切れてる。古い施設のネットワークを通っているのは確か。でも、送信元そのものは特定できない」


「またか」


「ただ、今回は違う点がある」


 リナは画面を拡大した。


「メッセージが届いたのは、解除処理が終わった直後。しかも、私たちが施設の外へ出たことを確認したようなタイミングだった」


「監視されているってことか?」


「可能性はある。でも、施設の外部カメラは一部しか復旧していない。私たちの位置を正確に把握できるとは限らないわ」


 ダニエルは考えた。


 脅迫なら、もっと直接的な言葉を使うはずだ。


 少なくとも、今のメッセージには攻撃の意思が見えない。むしろ、次に何をするかを自分たちに委ねているように思えた。


「残された記録って、具体的には何のことだろうな」


「CODE Ωの研究記録。候補者たちの神経データ。それに、人格の上書きや意思決定の制限に使われていた制御情報……考えられるものはいくつもある」


「全部消せばいい、という話じゃないんだな」


「ええ。危険な制御情報は消す必要がある。でも、記憶の回復や脳の治療に使える技術まで失えば、助けられる人も助けられなくなる」


 リナの言葉に、ダニエルはうなずいた。


 CODE Ωを破壊することは、これまでの目的だった。


 しかし、すべての記録を消去することが、本当に正しいとは限らない。


 残すべきものと、二度と使わせてはいけないもの。


 それを決めることも、また選択だった。


「まずは、ジェームズの記録を確認しよう。父さんが何を残そうとしていたのか、まだ全部はわかっていない」


「でも、ジェームズの記録は一部しか開けなかったはずよ」


「だからこそだ。解除が進んだ今なら、見られるものが増えているかもしれない」


 二人は施設の近くに停めていた車へ向かった。


 ヴィクターからは、少年の状態に変化があればすぐに連絡すると約束をもらっている。今は彼に任せるしかない。


 車に乗り込むと、リナは端末を接続した。


「ジェームズの個人記録にアクセスする。以前は閲覧できなかった項目が、いくつか開いているわ」


 画面に、複数のファイルが並んだ。


 研究記録。


 候補者の管理履歴。


 そして、最後にひとつだけ、個人宛ての記録があった。


 《JAMES CROSS:最終記録》


「これか……」


 ダニエルが開こうとすると、リナが手を止めた。


「待って。ファイルには閲覧制限が残っている。でも、以前のような管理者認証じゃない」


「何が必要なんだ?」


「記録の対象者本人による確認。つまり、あなたに向けて残されたものかもしれない」


 ダニエルは画面を見つめた。


 父親が自分に何を伝えようとしていたのか。


 今まで何度も記録を読んできたが、まだ知らないことがある。


「開いてくれ」


 リナが確認操作を行う。


 画面が暗くなり、短い映像が再生された。


 映像の中には、疲れた表情のジェームズ・クロスが座っていた。


『この記録を見ているのがダニエルなら、私は直接、お前に説明することができなかったのだろう』


 ダニエルは息を止めた。


 写真でしか知らなかった父親。


 これまでの記録の中で、何度も名前を見てきた父親。


 その声を聞くのは、これが初めてではない。それでも、自分に向けて語りかける姿を見ると、胸の奥が重くなった。


『まず、謝らなければならない。私は、お前を守ることを優先しすぎた。その結果、お前が自分で選ぶために必要な情報まで隠してしまった』


 ジェームズは一度、視線を落とした。


『CODE Ωは、最初から人間を支配するために作られたわけではない。失われた記憶を取り戻し、傷ついた神経機能を補うための研究だった。私も、その可能性を信じていた』


 映像の中の彼は、言葉を選ぶように続けた。


『だが、研究が進むにつれて、記憶を扱う技術は、人格や意思決定に干渉する技術へと変わっていった。人間の争いをなくすために、人間が争う理由そのものを消そうとする者が現れたんだ』


 アレクサンダーの思想と重なる。


 自由を制限すれば、争いを減らせる。


 その考えは、誰かを守りたいという願いから始まったのかもしれない。


 だが、その願いが他人の意思を奪う理由になることはない。


『私は、それに反対した。だが、反対するだけでは足りなかった。研究を止めることも、関係者を説得することも、完全にはできなかった』


 ジェームズは苦笑した。


『私は、自分が正しいと信じていた。だが、正しさを信じることと、正しく行動できることは違う。そのことを、もっと早く理解すべきだった』


 ダニエルは、無意識に手を握りしめていた。


 父親もまた、すべてを見通していたわけではない。


 失敗し、迷い、それでも何とかしようとしていた一人の人間だった。


『お前に伝えておきたいことがある。記録をすべて残す必要はない。すべてを消す必要もない』


 リナが画面を見つめた。


『重要なのは、誰がその記録を持ち、何のために使えるのかということだ。危険な制御情報を誰か一人が管理できる状態にしてはいけない。だが、研究のすべてを闇に葬れば、私たちが犯した過ちを正しく知ることもできなくなる』


 ジェームズは、まっすぐにカメラを見た。


『ダニエル。お前がこの研究のすべてを背負う必要はない。私の罪を償うために生きる必要もない』


 ダニエルの喉が詰まった。


『お前は、私の代わりに正しい人間にならなくていい。自分で考え、自分で間違え、そこからやり直せばいい。それができる自由を、私はお前から奪いたくなかった』


 映像が一瞬、乱れた。


 ジェームズは最後に、静かに告げた。


『もし、まだ少年がそこにいるのなら、あの子の未来も、お前の未来も、誰かの罪を償うためのものにするな。二人がどう生きるかは、二人が決めることだ』


 映像はそこで終わった。


 しばらく、車内には何の音もなかった。


 ダニエルは窓の外を見ていた。


 父親に聞きたいことは、山ほどあった。


 なぜ、もっと早く話してくれなかったのか。


 なぜ、自分を研究から遠ざけようとしたのか。


 なぜ、少年とのつながりについて、答えを残せなかったのか。


 だが、今となっては、返事を聞くことはできない。


「……父さんも、全部はわかっていなかったんだな」


「そうね」


 リナは静かに答えた。


「でも、わからないことを、わからないまま残してくれた。それは大事なことだと思う」


 ダニエルはうなずいた。


 わからないことを、無理にひとつの答えに押し込めない。


 知らないことを理由に、誰かの未来を決めない。


 それは、これまで彼らが戦ってきたことと、つながっていた。


 リナが、映像の最後に記録されていた添付ファイルを見つけた。


「もうひとつある。研究記録の整理に関する文書よ」


「読めるか?」


「ええ。これは解除処理が終わったことで、閲覧できるようになったみたい」


 画面に、ジェームズが作成した文書が表示された。


 《CODE Ω残存記録の取り扱い方針》


 そこには、三つの項目が記されていた。


 強制的な人格統合と意思決定制限に関する制御情報は、実行不能な状態にすること。


 治療目的の研究記録は、独立した複数の管理者による監査のもとで保存すること。


 候補者本人の記憶や人格に関する情報は、本人の同意なしに公開しないこと。


「……これが、父さんの考えた方法か」


「完成された解決策ではないわ。でも、少なくとも一人の管理者がすべてを決める仕組みではなくなる」


 ダニエルは、文書を読み終えた。


 これなら、すべてを破壊する必要はない。


 危険な機能を止めながら、治療のための技術を残せる可能性がある。


「これを基に、残された記録を整理しよう。リナ、協力してくれるか?」


「もちろん」


 彼女は迷わず答えた。


 そのとき、ダニエルの端末が震えた。


 ヴィクターからの連絡だった。


『少年の状態に変化があった。意識が戻ったわけじゃないが、神経反応が安定している。外部からの接続要求もない』


「わかった。引き続き頼む」


 通信を切ったダニエルは、もう一度、父親の最終記録を見た。


 残された記録を、どうするか。


 その答えは、少しずつ見えてきた。


 だが、最後にひとつだけ、確かめなければならないことがある。


 ノー・ゼロは、なぜ自分の記憶が失われることを承知で、認証装置を破壊させたのか。


 あのとき、彼は何を恐れていたのか。


 ダニエルは端末を閉じた。


「リナ。次は、ノー・ゼロが残した記録を探そう」


「本人が残したものなのか、それとも後から作られたものなのか。それも含めて調べるのね」


「ああ。もう、名前だけで判断するつもりはない」


 車が静かに走り出した。


 CODE Ωの主要機能は止まった。


 だが、その研究に関わった人々の選択と、その結果までは消えない。


 ダニエルは、前を見つめた。


 過去をすべて知ることはできないかもしれない。


 それでも、残された記録をどう扱うかは、今を生きる自分たちが決められる。


 その選択から逃げないこと。


 それが、父親の残した言葉に対する、ダニエルなりの答えだった。

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