第53話「最後の管理者」
――リナ・アシュフォード。
解除処理の最終承認者として表示された名前を、リナは黙って見つめていた。
「私が……最終管理者?」
「以前、お前自身が管理権限を書き換えたんだろう」
ダニエルが言った。
「そう。でも、あのとき変更したのは、メインシステムの管理権限だけ。並列ネットワークまで含めて、最終承認者に登録した覚えはない」
リナは端末を操作し、登録情報を開いた。
そこには、彼女が以前確認したものと同じ識別情報が表示されていた。
《Ω-004》
《権限:最終管理者》
《承認対象:CODE Ω解除処理》
《追加条件:管理者本人による意思確認》
「誰かが私の権限を利用してるの?」
「まだわからない」
ダニエルは画面を見たまま答えた。
「ただ、ここまで来て、お前に承認させようとしてる理由はあるはずだ」
「私が承認すれば、解除が完了する?」
「そうかもしれない。だが、先に調べよう。承認した瞬間に別の処理が動く可能性もある」
リナはうなずいた。
その慎重さは、今の彼女にはありがたかった。
以前の自分なら、管理権限を得たことを利用して、システムの奥まで一気に踏み込んでいたかもしれない。
だが、今は違う。
自分の正体を知ることと、自分の正体を誰かに決めてもらうことは、同じではない。
「ヴィクター、周囲の監視を頼む。リナ、承認処理の前に、何が解除されるのか全部確認する」
「了解」
ヴィクターは通路の先へ向かった。
リナは解除処理の詳細を開いた。
画面には、停止対象が三つ並んでいた。
認証情報の強制復旧。
人格データの上書き。
そして、候補者間の意思決定を制限する管理命令。
「……これが全部止まれば、少なくともメインシステムが人間の選択を強制することはできなくなる」
「並列ネットワークは?」
「残る可能性がある。でも、今までみたいにメインシステムの権限を使って、勝手に解除を妨害することは難しくなるはず」
ダニエルは、画面の下部にある小さな項目に目を留めた。
《解除完了後の管理権限:消失》
「待て。これ、お前の権限も消えるのか?」
「そういうことね」
リナはあっさり答えた。
「最終管理者としての権限も、解除が完了すれば失われる。私が管理者であり続ける必要はないから」
「本当にそれでいいのか?」
「何が?」
「ここまで来るために、お前は自分の記憶に関わるものまで調べてきた。その権限を失えば、アクセスできなくなる記録もあるかもしれない」
リナはすぐには答えなかった。
彼女の正体につながる記録。
自分と同じ顔をした、金色の瞳の女。
第二被験者という識別名。
まだ、わからないことは残っている。
それでも。
「知りたいことがあるからって、誰かを管理する権限を持ち続ける理由にはならない」
リナは端末を閉じた。
「それに、私が何者なのかを知ることと、私が何者になるかは別の話でしょ」
ダニエルは小さく笑った。
「そうだな」
そのとき、施設内の通信回線がつながった。
『ダニエル、聞こえるか』
カイだった。
「どうした?」
『こっちの接続は安定してる。ただ、ひとつ気になることがある』
『保全プロトコルの中に、古い記録が残っていた』
第六の声が続いた。
『最終管理者に関する記録だ。僕たちの接続保全とは別に、解除処理の承認条件が記されている』
「何が書いてある?」
『管理者本人が、自分の権限を失うことに同意しなければならない』
リナが顔を上げた。
「……自分の権限を失うことへの同意?」
『そうだ。管理者が解除を実行するふりをして、裏で権限を維持することを防ぐためらしい』
ダニエルは、リナを見た。
つまり、この仕組みは、ただ管理者に命令を実行させるだけではない。
管理者自身にも、手放す覚悟を求めている。
「リナ。お前が承認しなければ、解除は完了しないかもしれない」
「わかってる」
「もし、この権限を失うことで、お前自身に何か影響が出るなら――」
「ダニエル」
リナは彼の言葉を遮った。
「私に選ばせて」
強い口調だった。
だが、怒っているわけではない。
「これまで、私の正体や過去について、いろんな人が答えを決めようとしてきた。システムも、あの女も。私が何者で、何をすべきなのか」
彼女は自分の手を見つめた。
「でも、私が今まで経験してきたことまで、偽物になるわけじゃない。あなたと出会ったことも、ここまで来たことも、私が自分で選んだことだから」
ダニエルは黙って聞いていた。
「だから、この権限を手放すかどうかも、私が決める」
端末の画面が切り替わった。
《最終管理者:意思確認》
《管理権限の消失を了承しますか?》
選択肢は二つ。
《了承する》
《拒否する》
リナは迷わなかった。
指先が、《了承する》に触れた。
だが、画面は反応しなかった。
「……どうして?」
リナがもう一度操作する。
同じだった。
《承認保留》
《管理者本人の記憶情報との照合が必要です》
ダニエルの表情が険しくなった。
「まだ記憶を条件にしてるのか」
「違う……。これ、記憶の内容を照合するんじゃない」
リナは表示された文字を読み直した。
「記憶情報が、本人の意思によって登録されたものかどうかを確認してる」
彼女の端末に、新しい項目が現れた。
《第二被験者に関する記録》
《最終管理者の原初登録情報》
《参照許可:本人の選択による》
リナの指が止まった。
そこに表示された記録の名称には、見覚えがあった。
以前、第一被験者のカプセルに触れたとき、彼女の中に一瞬だけ浮かんだ白い部屋。
幼い子ども。
そして、金色の瞳をした女。
「……ここに、私の記録がある」
「開くか?」
ダニエルが尋ねた。
リナは画面を見つめた。
今なら、管理者として記録を開けるかもしれない。
しかし、開けば自分が望まない形で、過去の情報にアクセスされる可能性もある。
彼女は深く息を吸った。
「開く。ただし、記録の内容を私の人格に反映させる処理は無効にして」
リナが操作すると、画面に確認が表示された。
《記録の閲覧のみを許可》
《人格への反映:拒否》
彼女は、二つの条件を確かめてから実行した。
表示されたのは、短い記録だった。
《第二被験者は、最終管理者として登録された存在ではない》
リナの目がわずかに見開かれる。
その下に、続きが表示された。
《最終管理者の権限は、第二被験者の記憶構造を参照して設計された》
《ただし、人格の複製および統合は行わない》
「……私が管理者として作られたわけじゃない?」
リナはつぶやいた。
「少なくとも、この記録ではそうなってる」
ダニエルが画面をのぞき込む。
「お前の記憶構造を、管理権限の設計に使った。でも、お前自身を管理者として作ったわけじゃない」
「そう。私の過去と、この権限は関係している。でも、私の人格そのものが、システムのために作られたとは限らない」
その違いは大きかった。
自分が何者なのか。
その答えは、まだ完全にはわからない。
だが少なくとも、彼女が今まで生きてきた時間まで、誰かの設計図に書かれていたわけではないのかもしれない。
リナは記録を閉じた。
「もう十分。残りは、解除が終わってから自分で調べる」
端末に戻り、彼女はもう一度、管理権限の消失を了承した。
今度は、画面が反応した。
《最終管理者の意思確認:完了》
《管理権限の消失:承認済み》
《CODE Ω解除処理:最終段階へ移行》
施設全体に、低い駆動音が響いた。
長い間、候補者たちの意思を縛ってきた管理システムが、ようやく停止へ向かい始めた。
しかし、ダニエルの端末には、まだひとつの表示が残っていた。
《並列ネットワーク:解除未完了》
その下に、NO.0の管理記録が表示される。
《最終管理者の権限消失を確認》
《第一候補の認証復旧を停止》
《次段階への移行を許可》
ダニエルは、最後の一文を見つめた。
「次段階……?」
リナが記録を開こうとした瞬間、アクセス権が失われた。
画面には、ただ一行だけが残った。
《NO.0との直接照合を開始します》
そして、施設のスピーカーから、聞き覚えのある声が響いた。
『久しぶりだな、ダニエル』
ダニエルは息を止めた。
忘れたくても、忘れられない声。
自分と同じ顔を持つ、あの存在の声だった。
『今度こそ、最後まで話をしよう』




