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Code Ω  作者: ニコル
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第49話 母が選んだ真実


『ダニエル。もし、あなたがこれを聞いているなら……私は、あなたにひとつだけ、謝らなければならないことがある』


母、エレナの声が隔離室に響いた。


ダニエルは、画面から目を離せなかった。


三年前から、母の声は何度も聞いてきた。


研究記録の中の声。


自分を守ろうとした声。


そして、真実を隠したことを悔やむ声。


だが、今回の音声は違っていた。


研究者としての説明ではない。


息子に向けた、ひとりの母親の声だった。


『あなたに、第一被験者のことを話さなかったのは、記憶を封じる必要があったから。それだけではありません』


エレナは、少し間を置いた。


『私は、あなたがあの子を忘れれば、あなた自身が苦しまずに済むと思っていました』


ダニエルは、ゆっくりと目を閉じた。


『あなたは、あの子を助けられなかった自分を責めるでしょう。あの子が何をされたのか知れば、研究施設に戻ろうとするでしょう。そして、あなた自身の命を危険にさらすでしょう』


音声の向こうで、小さく息を吸う音がした。


『私は、それが怖かった』


ダニエルは拳を握った。


母は自分を守ろうとした。


そのことは、もう理解している。


それでも、忘れさせられた側の苦しみが消えるわけではない。


『でも、私は間違えました。あなたから苦しみを取り除くつもりで、あなたが自分の過去と向き合う機会まで奪ってしまった』


エレナの声が、少し震えた。


『ごめんなさい、ダニエル』


音声は、そこで一度途切れた。


数秒後、別の記録が続いた。


『もうひとつ、伝えておかなければならないことがあります』


リナが音量を調整した。


『あなたと第一被験者の接続について、私はジェームズとは別の仮説を持っていました』


ダニエルが顔を上げる。


「仮説……?」


リナは再生を止めずに、画面を見つめていた。


『第一被験者の反応は、単純な記憶の回復だけでは説明できませんでした。ほかの被験者では、失われた記憶を呼び起こすことがあっても、神経反応が長期間にわたって同じ相手と連動することはなかった』


音声には、研究データの一部が添付されていた。


『しかし、あなたたち二人には、その連動が幼い頃から見られました。私は、それが研究によって作られたものではない可能性を考えていました』


「研究前から……?」


ダニエルがつぶやく。


リナはうなずいた。


「ジェームズの記録とも一致するわ。少なくとも、意図的な接続実験より前から反応があった」


『私は、その原因を突き止めることができませんでした。だから、ひとつの結論に飛びつくことは避けました』


エレナの言葉は慎重だった。


『血縁によるものなのか。幼少期の環境によるものなのか。それとも、まだ知られていない神経上の特徴によるものなのか。どれも、確かな証拠はありません』


ダニエルは、思わず息を吐いた。


自分と少年がなぜつながっているのか。


その答えを、母も知らなかった。


少なくとも、記録に残された範囲では。


『ただ、ひとつだけ確かなことがあります』


エレナの声が、はっきりと響いた。


『そのつながりが、あなたたちの意思よりも大切だと考えた瞬間、私たちは間違えるのです』


ダニエルは、カプセルの中で眠る少年を思い浮かべた。


目覚めたくないと、自分で選んだ少年。


あの選択を尊重したとき、神経反応は落ち着いた。


無理に答えを出させる必要はなかった。


『あなたたちが特別なつながりを持っていたとしても、それによって、どちらかが相手のために生きなければならないわけではありません』


エレナは続けた。


『あなたは、あの子を救うためだけに生きる必要はない。あの子も、あなたを救うためだけに存在しているわけではないのです』


その言葉に、ダニエルは目を伏せた。


ずっと、何かを取り戻そうとしていた。


失われた記憶。


失った時間。


守れなかった約束。


そのすべてを取り戻せば、過去をやり直せるような気がしていた。


だが、過去は戻らない。


できるのは、今から何をするかを選ぶことだけだった。


*


音声の最後には、短い記録が添えられていた。


『ダニエル。もしあなたが、私の判断を許せないと思うなら、それもあなたの自由です』


エレナの声は、静かだった。


『私は母親だから、あなたに許してほしいと思っています。でも、許すことまであなたに求めるつもりはありません』


ダニエルは、目を閉じた。


『どうか、私のために答えを出さないでください。私が正しかったのか、間違っていたのか。それを決めるのは、あなた自身です』


少しの沈黙。


『そして、あなた自身の人生を選んでください。誰かを守るために自分を失うことも、誰かを許すために自分の気持ちを押し殺すことも、しなくていいのです』


最後に、エレナは小さく息を吸った。


『……あなたが生きていてくれることを、私は願っています』


音声が終わった。


誰も、すぐには口を開かなかった。


ダニエルは、しばらく画面を見つめていた。


母を許せるのか。


その問いに、今すぐ答えることはできなかった。


だが、母が何を恐れ、何を守ろうとしていたのかは、少しだけわかった。


「……母さんは、俺に選ばせたかったんだな」


リナが静かに答えた。


「ええ。少なくとも、最後にはそう考えていたんだと思う」


「だったら、俺もそうする」


ダニエルは顔を上げた。


「母さんを許すかどうかも、父さんの判断をどう受け止めるかも、俺が決める。あの子のことも、カイと第六のことも、俺が勝手に答えを出さない」


ヴィクターが腕を組み直した。


「ずいぶん難しい道を選ぶな」


「簡単な答えがあれば、もう誰かが見つけているだろう」


「違いない」


ヴィクターは、わずかに口元を緩めた。


そのとき、リナが記録の画面を切り替えた。


「待って。音声ファイルに付属しているデータが、もうひとつあるわ」


「何だ?」


「エレナの記録を保存したときの操作履歴よ。削除要求を出したあと、本人が再登録したのは間違いない。でも、再登録の直前に、別の記録が参照されている」


「どの記録だ?」


リナが画面を拡大した。


《参照記録:FIRST SUBJECT》


《参照項目:記憶回復後の反応》


ダニエルは眉を寄せた。


「少年の反応を見て、母さんは記録を残し直したのか?」


「可能性はある。でも、なぜその記録を見たのかは、操作履歴だけではわからない」


リナは、さらに詳細を開こうとした。


だが、アクセスは拒否された。


《閲覧権限なし》


「また権限か……」


ダニエルは画面を見つめた。


「これ以上、無理に開くのはやめよう。今はわかっていることだけでいい」


リナは少し驚いたように彼を見たが、すぐにうなずいた。


「そうね。ここで強引にアクセスする必要はないわ」


ダニエルは記録媒体をケースに戻した。


父と母が残した情報は、少しずつつながり始めている。


だが、すべてを一度に明らかにする必要はない。


答えを急いで、また誰かの意思を踏みにじるわけにはいかなかった。


*


その頃、施設の別区画では、カイが第六に話しかけていた。


「ダニエルは、無理に記録を開けとは言わなかった」


『……そうか』


「お前が迷っていることも、理解しているらしい」


第六は、しばらく沈黙した。


『私は、記録を開けば、自分が何のために作られたのかを知ることができるかもしれないと考えていた』


「なら、開けばいいんじゃないか?」


『だが、その記録が私の判断に影響を与える可能性がある。そこに書かれた目的を知った瞬間、私は自分の存在理由を、その目的だけで理解してしまうかもしれない』


カイは、少し考えた。


「俺も、自分が何のために第五候補にされたのか、知りたいと思ったことがある」


『……』


「でも、理由がわかったからって、それに従わなきゃいけないわけじゃない。お前だって、そうだろ?」


第六は答えなかった。


ただ、接続画面の波形がゆっくりと変化した。


『私は……もう少し考えたい』


「それでいい」


カイは目を閉じた。


「俺も、お前も、急いで決める必要はない」


二人の神経反応は、まだ完全には分離できない。


混ざり合った記憶の中には、どちらのものなのか判別できない断片もある。


それでも、今は互いの意思を確認できる。


それだけでも、以前とは違っていた。


*


ダニエルの端末が鳴った。


ヴィクターからの連絡だった。


「カプセルの状態に変化はない。ただ、少年の神経活動が少しだけ変わった」


「危険な変化か?」


「いや。むしろ安定している。外部からの照会も再開していない」


ダニエルは息を吐いた。


「そうか。ありがとう」


通信を切る直前、ヴィクターが言った。


「ダニエル。お前は、これからどうする?」


「まず、少年が安心して選べる環境を守る。カイと第六の分離も、本人たちが望むなら安全な方法を探す」


「その先は?」


ダニエルは少し考えた。


「CODE Ωの最終制御系を解除する。誰かひとりの判断で、他人の意思が上書きされる仕組みを残したくない」


「簡単にはいかないぞ」


「ああ。だから、ひとつずつやる」


ダニエルは、カプセルの前に立った。


少年はまだ眠っている。


彼が目覚める日がいつになるのかはわからない。


それでも、今はそれでよかった。


「……待ってるからな」


ダニエルは、小さくつぶやいた。


その瞬間、カプセルの表示が一度だけ切り替わった。


《外部照会:なし》


《本人意思:維持》


そして、画面の隅に、これまで表示されていなかった項目が現れた。


《最終制御系解除条件:残り一項目》


ダニエルは、息を止めた。


「……残り一項目?」


リナが端末を確認する。


「待って。今までの記録では、解除条件は三つだったはずよ」


画面の文字が更新された。


《未確認条件:第一被験者と第一候補の相互意思確認》


ダニエルは、少年を見つめた。


「相互……意思確認?」


リナは慎重に画面を読み取った。


「あなたが少年の意思を尊重するだけでは足りない。少年も、あなたとの接続について、自分の意思を示す必要があるのかもしれない」


ダニエルは、すぐには答えなかった。


少年は、目覚めないことを選んだ。


そして、自分を置いていったダニエルに、もう一度ひとりにしないかと尋ねた。


その問いに、ダニエルは答えた。


だが、それが解除条件としての意思確認を満たしたかどうかは、まだわからない。


「……次に話せるとき、聞いてみる」


ダニエルはカプセルの前に腰を下ろした。


「俺たちのつながりを、どうしたいのか」


答えがどんなものであっても、受け止めるつもりだった。


今度こそ、少年自身が選んだ未来を守るために。

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