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Code Ω  作者: ニコル
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第48話 二人の記録


旧医療研究棟の隔離室。


ダニエルは、マーティンから受け取った記録媒体を机の上に置いた。


隣ではリナが端末を操作し、ヴィクターが扉の近くで周囲を警戒している。


「解析用の端末は外部ネットワークから切り離したわ。記録媒体から何かが実行されても、施設のシステムには直接つながらない」


リナが画面を示した。


「ただし、神経データそのものに何が記録されているかはわからない。映像や文章だけとは限らないから、慎重に進めましょう」


ダニエルはうなずいた。


「開いてくれ」


リナが記録媒体を接続した。


画面が一度暗くなり、やがて古い文書ファイルが表示された。


《個人研究記録》


《記録者:ジェームズ・クロス》


《閲覧対象:ダニエル・クロス》


その下には、さらに短い注意書きがあった。


《この記録は、第一候補の認証復旧を目的としない》


ダニエルは眉をひそめた。


「わざわざ、そんなことを書く必要があったのか」


「あなたの認証情報を復旧させようとする処理が、何度も動いているからでしょうね」


リナは文章を読み進めた。


「おそらく、お父さんは自分の記録が利用される可能性を考えていた。少なくとも、あなたを認証者に戻すための資料ではないと明確にしているわ」


ダニエルは画面を見つめた。


父親は、自分が認証者に戻ることを望んでいなかった。


それなのに、なぜ自分の脳には認証情報が残されているのか。


その疑問は、まだ解けていない。


リナが次のページを開いた。


そこには、二人の名前が並んでいた。


《第一被験者》


《第一候補:ダニエル・クロス》


二つの名前を結ぶ線が描かれている。


その横に、ジェームズの手書きらしい文章が残されていた。


『接続が発生した理由は不明。意図的な接続実験の結果と断定できる証拠はない』


ダニエルは息を吐いた。


「やっぱり、父さんにもわからなかったんだな」


「ええ。でも、続きがある」


リナが文章を拡大した。


『二人の神経反応は、互いの記憶を強制的に共有するものではない。一方の反応が、もう一方の記憶回復を促す場合がある。現象の仕組みは未解明だが、本人の意思を介さずに利用することは避けなければならない』


ダニエルは、少年との会話を思い出した。


自分が謝罪したとき、少年は記憶を取り戻しかけた。


だが、システムが強制的に記憶を再生させたわけではなかった。


少年自身が、何かを伝えようとしたのだ。


「つまり、俺が何かを思い出したからといって、あいつの記憶を奪っているわけじゃないんだな」


「少なくとも、この記録ではそう考えられているわ」


リナは慎重に答えた。


「ただ、神経反応が連動する以上、何の影響もないとは言い切れない。だからこそ、お父さんは本人の意思を重視していたんでしょうね」


ダニエルはうなずいた。


わからないことを、都合のいい答えで埋めるつもりはなかった。


父親でさえ、すべてを理解していたわけではない。


ならば、自分たちも確かめながら進むしかない。


*


次のページには、別の記録があった。


《研究計画変更:最終制御系》


『複数の神経反応を統合することで、個人の判断に左右されない安定した意思決定を実現する。当初は医療支援を目的とした構想だったが、現在の計画では、個人の判断を事前に制限する仕組みへと変質している』


ヴィクターが腕を組んだ。


「父が言っていたことと同じだ。自由を制限すれば争いを減らせる、という理屈だな」


「でも、ジェームズは反対した」


ダニエルが言うと、リナはうなずいた。


「ここに理由が書いてあるわ」


画面には、短い一文が表示された。


『争いを防ぐために、争うかどうかを選ぶ権利まで奪うのなら、それは治療ではない』


室内が静まり返った。


ダニエルは、その文章をしばらく見つめていた。


父親が何を守ろうとしたのか。


少なくとも、それは自分の命だけではなかったのだろう。


人間が間違える自由。


迷う自由。


それでも自分で選ぶ自由。


父親は、その価値を信じていた。


「……なのに、最後まで俺には何も話さなかった」


ダニエルの声には、怒りよりも疲れがにじんでいた。


リナは彼の横顔を見た。


「信じていなかったから、とは限らないわ」


「わかってる。でも、話してほしかった」


「ええ。それは当然よ」


リナは無理に父親を擁護しなかった。


「守るためだったとしても、あなたが真実を知る機会を奪ったことは変わらないもの」


ダニエルは小さくうなずいた。


父親を理解することと、父親の判断をすべて正しいと認めることは違う。


その区別を、ようやく受け入れられるようになっていた。


*


さらに先へ進むと、ひとつの音声ファイルが見つかった。


ファイル名は《記録対象への説明》。


再生すると、ジェームズの声が流れた。


『もし、この記録をダニエルが聞いているなら、私は直接説明する機会を失ったのだろう』


ダニエルは思わず画面に近づいた。


『お前に謝らなければならないことがある。私は、お前を研究対象にしないと決めた。それでも、お前を研究計画そのものから完全に切り離すことはできなかった』


声は落ち着いていたが、ところどころに疲労がにじんでいた。


『第一被験者との接続が自然に発生していた以上、認証情報だけを消せば解決するとは限らなかった。下手に処理すれば、お前自身の記憶や、相手の神経活動を傷つける可能性があった』


ダニエルは、無意識に拳を握っていた。


『私は安全な方法を探した。しかし、確実な方法を見つける前に、計画は私の手を離れた』


音声が一瞬途切れた。


『だからといって、何も話さなかったことが正しかったとは思わない。お前には知る権利があった。私は、それを守ることができなかった』


ダニエルは目を伏せた。


父親の謝罪を聞いても、三年前の出来事が変わるわけではない。


それでも、自分の苦しみをなかったことにせず、父親の言葉として受け止めることはできた。


音声は続いた。


『もし第一被験者が目覚めることを望まないなら、その意思を優先してほしい。私が残した手順も、そのために使われるべきだ』


そこで、音声は終わった。


リナが画面を確認した。


「このファイルは、ここまでみたい。編集された形跡はないわ」


「……ああ」


ダニエルは椅子の背にもたれた。


父親の記録は、すべてを解決してはくれなかった。


だが、少なくとも、父親が何を望んでいたのかはわかってきた。


少年を目覚めさせることではない。


自分を認証者に戻すことでもない。


誰かが決めた正解を、ふたりに押しつけないこと。


そのための方法を、父親は探していたのだ。


「リナ。最後の制御系を解除するには、何が必要なんだ?」


「今ある記録を整理すると、三つの条件が必要ね」


リナは指を折った。


「第一被験者本人の意思。あなたの認証情報を強制復旧させないこと。そして、カイと第六の人格データを本人たちの意思に反して上書きしないこと」


「それが揃えば、解除できるのか?」


「解除に必要な条件は満たせる可能性がある。でも、実際に解除した後、システム全体がどう動くかは、まだ検証が必要よ」


「わかった。条件を満たすことと、解除が安全に成功することは別なんだな」


「そういうこと」


ダニエルは立ち上がった。


「なら、ひとつずつ確認していこう」


*


そのとき、別室から通信が入った。


カイの声だった。


『ダニエル、聞こえるか』


「ああ。どうした?」


『第六が、旧サーバーの記録を見つけた』


ダニエルはリナと顔を見合わせた。


「どんな記録だ?」


『俺たちの分離に関係するものらしい。ただ……』


カイの声が少し弱くなった。


『第六は、その記録を開くべきか迷っている』


ダニエルはすぐに答えなかった。


以前なら、必要な情報を得るために開くよう指示していたかもしれない。


だが、今は違う。


「カイ。第六に伝えてくれ。開くかどうかは、お前たちが決めていい。俺たちは、必要なら手伝う。でも、急ぐ必要はない」


短い沈黙のあと、カイが答えた。


『……わかった。伝えておく』


通信が切れた。


ダニエルは、記録媒体をケースに戻した。


父親が残した答えは、完成された解決策ではなかった。


誰かの意思を守るためには、答えを急がず、相手が選べる状況をつくる必要がある。


それは、ジェームズが最後まで探し続けたものだった。


ダニエルは、カプセルのある部屋へ向かった。


少年は、まだ眠っている。


カイと第六も、まだ答えを出していない。


そして、リナ自身も、自分の過去についてすべてを知っているわけではない。


彼らが抱えている問題は、それぞれ違う。


だからこそ、ひとつの命令ですべてを解決することはできない。


ダニエルはカプセルの前で足を止めた。


「……父さん。今度は、俺が選ぶよ」


それは父親への反抗ではなかった。


父親が残した考えを、自分の意思で引き継ぐという決意だった。


そのとき、リナの端末が小さく鳴った。


彼女は画面を見て、表情を変えた。


「ダニエル……この記録媒体、もうひとつデータが残っている」


「さっきは見つからなかったのか?」


「通常のファイル一覧には表示されていなかった。でも、音声ファイルの作成日時を調べたら、同じ時刻に別のデータが保存されていたことがわかったの」


画面に、新しいファイル名が表示された。


《ELENA CROSS ― PERSONAL》


ダニエルの呼吸が止まった。


母親の名前。


ジェームズが残した記録の中に、なぜ母親の個人的なファイルがあるのか。


リナは慎重に尋ねた。


「開く?」


ダニエルは、しばらく画面を見つめた。


そして、うなずいた。


「……ああ。今度こそ、母さんの話を聞きたい」


リナが再生ボタンに指を置いた。


音声が始まる直前、画面にひとつの注意書きが表示された。


《記録者本人による削除要求:受理済み》


《復元理由:本人の意思による再登録》


ダニエルは、その文字を見つめた。


母親は、一度この記録を消そうとした。


それでも、自分の意思で残し直した。


何を伝えるために。


そして、なぜ消す必要があったのか。


音声ファイルの再生が始まった。


『ダニエル。もし、あなたがこれを聞いているなら……私は、あなたにひとつだけ、謝らなければならないことがある』


母親の声だった。


ダニエルは、息を潜めて聞き入った。

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