第45話 目覚めない理由
カプセルの前に戻ったダニエルは、少年の様子を確認した。
生命維持は安定。
神経活動にも大きな変化はない。
だが、モニターには新しい表示が出ていた。
《記憶反応:自発的回復》
《外部刺激:なし》
《覚醒意思:保留》
「保留、か……」
ダニエルがつぶやくと、リナが隣に立った。
「以前は、まだ目覚めたくないと明確に答えていた。今は、その回答を変えるかどうかも含めて、判断を保留しているみたい」
「何かあったのか?」
「旧記録サーバーの記録が再生された影響かもしれない。でも、本人が何を感じているかまでは、数値から読み取れないわ」
ダニエルはカプセルの透明な蓋に手を置いた。
「……聞こえるか?」
返事はない。
「父さんの記録を見つけた。お前を研究のために利用することには、反対していたらしい」
少年の指が、かすかに動いた。
ダニエルはその反応を見逃さなかった。
「お前が何者なのか、俺はまだ全部わかっていない。お前と俺が、どうしてつながっているのかもな」
一度、言葉を切る。
「でも、もう勝手に決めたりはしない。目覚めるかどうかも、ここを出るかどうかも、お前が決めていい」
波形がわずかに変化した。
リナが端末を確認する。
「反応が強くなった。何かを思い出しているのかもしれない」
ダニエルは、少年の顔を見つめた。
「……何を思い出した?」
その瞬間、モニターに文字が浮かんだ。
《音声応答:準備》
ダニエルは息を止めた。
少年の唇が、ゆっくりと動いた。
「……にい……」
かすれた声。
聞き間違いかと思った。
だが、もう一度、唇が動いた。
「……おにいちゃん……」
ダニエルの身体が固まった。
リナが驚いて彼を見た。
「今、聞こえた?」
「……ああ」
少年が、再び口を開いた。
「……どうして……」
声は小さく、途切れ途切れだった。
「どうして、僕を置いていったの……?」
ダニエルは答えられなかった。
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
白い部屋。
床に落ちたパン。
小さな手を握りしめた自分。
そして、目の前で泣いている少年。
『迎えに来てね』
幼い自分は、確かにそう言われた。
いや、違う。
迎えに行くと約束したのは、自分だった。
施設の警報。
閉じていく扉。
少年の手をつかもうとして、届かなかった指先。
そして、自分は逃げた。
生き延びるために。
ダニエルは壁に手をついた。
「……そうだ」
声が震えた。
「俺は、お前を置いていった」
リナは何も言わなかった。
慰めることも、否定することもしなかった。
ダニエル自身が、その記憶と向き合う必要があるとわかっていたからだ。
「戻るつもりだった。でも、戻れなかった。いや……戻らなかった」
彼は少年を見つめた。
「ごめん」
それ以上、言い訳はしなかった。
「お前がどれだけ待っていたのか、俺にはわからない。でも、約束を破ったのは俺だ」
カプセルの波形が大きく揺れた。
警告音が鳴り、リナが画面を確認する。
「神経活動が急上昇している……! ダニエル、少し離れて!」
だが、ダニエルは動かなかった。
少年の唇が震えていた。
「……こわかった」
その一言が、ダニエルの胸をえぐった。
「……うん」
「ずっと、ひとりだった」
「……うん」
「でも……」
少年の声が途切れる。
波形が不安定になり、カプセルの表示が赤く点滅した。
リナが緊急制御を起動しようとした。
「このままだと神経反応が限界を超える!」
「待ってくれ!」
ダニエルは画面を見た。
《覚醒意思:未確定》
《記憶反応:急上昇》
システムは、少年の反応を覚醒の兆候として処理しようとしている。
だが、少年が望んでいるのは、本当に目覚めることなのか。
ダニエルはカプセルへ向き直った。
「無理に話さなくていい。今、全部思い出す必要もない」
少年の波形が、わずかに落ち着いた。
「俺はここにいる。今度は、お前の返事を待つ」
リナが緊急制御の手を止めた。
画面の数値は少しずつ安定していく。
やがて、少年の唇が再び動いた。
「……おにいちゃん……」
「……ああ」
「……今度は……いなくならない?」
ダニエルは目を閉じた。
簡単に約束できる言葉ではなかった。
敵はまだいる。
CODE Ωも止まっていない。
自分がこの先どうなるのかさえ、わからない。
それでも。
「俺は、ここに戻ってきた」
ダニエルは静かに答えた。
「これからも、お前をひとりにしないために戦う。何が起きても、勝手にお前の未来を決めたりしない」
少年の指が、もう一度動いた。
そして、モニターに文字が表示された。
《意思反応:安定》
《覚醒意思:保留を継続》
リナが、ほっと息を吐いた。
「……反応が落ち着いたわ」
ダニエルはうなずいた。
少年は、まだ目覚めないことを選んだ。
だが、それは以前のような拒絶とは違っていた。
誰かに見捨てられることを恐れながら、目覚めることも怖がっている。
その両方の気持ちを抱えたまま、少年は答えを保留した。
それもまた、本人の選択だった。
*
「ダニエル」
カプセルから離れたところで、リナが声をかけた。
「あなたは、あのときのことを思い出したのね」
「ああ」
「全部?」
「いや。断片的だ。何が起きたのか、まだわからない部分もある」
ダニエルは自分の手を見つめた。
「でも、ひとつだけはっきりした。俺は、ただ連れ去られたわけじゃない。自分で逃げることを選んだ」
「それは、あなたが生きるための選択だった」
「そうかもしれない。でも、あいつをひとりにした事実は変わらない」
リナは少し考えてから言った。
「自分の選択に責任を持つことと、自分を一生責め続けることは違うわ」
ダニエルは彼女を見た。
「……わかってる」
「本当に?」
「努力する」
リナは小さく笑った。
「それならいいわ」
そのとき、ヴィクターが通路から戻ってきた。
「感動の時間を邪魔して悪いが、外の連中について報告がある」
ダニエルの表情が引き締まった。
「何がわかった?」
「拘束した二人の端末を調べた。所属を示す情報は削除されていたが、任務内容の一部が残っていた」
「少年の状態確認か?」
「それだけじゃない。旧記録サーバーからデータが再生された場合、その内容を記録するよう指示されていた」
リナが顔を上げた。
「つまり、あの記録が再生されることを知っていたの?」
「少なくとも、可能性は想定していたらしい」
ダニエルは考え込んだ。
ジェームズの記録を、誰かが監視している。
それが、記録を再生させた相手なのか。
それとも、別の目的で監視しているだけなのか。
まだ判断できない。
「ほかには?」
ヴィクターは端末を見せた。
「任務の最後に、ひとつだけ命令が残っていた」
画面には、短い文章が表示されていた。
《第一候補が記録を閲覧した場合、接触を試みること》
ダニエルの目が細くなった。
「接触……?」
「そうだ。拘束した男は、相手が誰なのかは知らないと言っている。ただ、接触方法だけは指示されていた」
「どんな方法だ?」
ヴィクターは画面を下へスクロールした。
そこには、短い音声ファイルが添付されていた。
リナが再生する。
ノイズの混じった音声が流れた。
『ダニエル。記録を見たなら、次は私の話を聞いてほしい』
ダニエルは息を止めた。
聞き覚えのある声。
だが、すぐには思い出せない。
音声は続いた。
『ジェームズの記録だけでは、真実の半分にも届かない。君の父親が何を守ろうとしたのか、そして、何を諦めたのか。それを知りたければ、ひとりで来てほしい』
そこで音声は終わった。
リナがすぐに言った。
「罠よ。ひとりで来いなんて、従う必要はない」
「わかってる」
ダニエルは端末を見つめた。
「だが、声は無視できない」
「知っている声なの?」
「ああ……たぶんな」
彼はもう一度、音声を再生した。
今度は、声の低さや息継ぎの癖まで注意して聞いた。
そして、ひとつの名前が頭に浮かんだ。
「……マーティン」
ヴィクターが顔を上げた。
「少年のそばにいた、あの男か?」
「声が似ている。でも、確信はない」
マーティンは、第一被験者を守ろうとしていた。
それなのに、なぜ今になってダニエルへ接触しようとするのか。
彼は何を知っているのか。
そして、なぜ直接ではなく、侵入者を使って連絡してきたのか。
ダニエルは端末をポケットへしまった。
「ヴィクター。少年を頼む。リナは、この音声の発信経路を調べてくれ」
「あなたは?」
「マーティンが本当に発信者なのか、確認する」
リナはすぐに首を振った。
「ひとりでは行かせない」
「罠かもしれないからこそ、こちらも準備する。正面から相手の要求に従うつもりはない」
ダニエルは拳銃の残弾を確認した。
「接触場所も、方法も、こちらで決める」
今度は、相手の用意した選択肢に従うつもりはなかった。
少年の意思を守るために。
そして、父親が残した真実を知るために。
ダニエルは、自分の足で次の一歩を踏み出した。




