第42話 父の権限
「登録者がジェームズ・クロス……?」
リナは、画面に表示された名前をもう一度確認した。
「古い認証情報が残っているだけなら、名前が表示されること自体は不思議じゃない。でも、今回の接続には、現在の管理者認証が使われている」
「つまり、誰かが父さんの権限を使った?」
「そう。ただし、本人が使ったとは限らない。認証情報が複製されている可能性もあるわ」
ダニエルは床に座らされた侵入者へ視線を向けた。
「お前たちは、ジェームズの認証情報を知っていたのか」
男は口を閉ざしたままだった。
「答えないなら、別の方法で調べる」
ダニエルは男の端末を拾い上げた。
画面には施設の見取り図と、侵入前に取得されたデータが残っている。
その中に、ひとつだけ不自然な記録があった。
《旧記録サーバー:アクセス可能》
《認証方式:管理者権限不要》
ダニエルは眉をひそめた。
「リナ。これを見てくれ」
彼女が画面をのぞき込む。
「管理者権限が不要……? そんなはずない。旧記録サーバーは、重要な研究記録を保管していた場所よ」
「なのに、侵入者はアクセスできると知っていた」
「待って。これはアクセス可能という意味じゃない。サーバーが応答するかどうかを調べた記録ね」
リナは画面を拡大した。
「つまり、向こうもサーバーの中身を確認できていなかった。誰かが、そこに何かがあると知っていただけ」
ダニエルは侵入者を見た。
「お前たちは、俺たちより先にサーバーへ行こうとしていたのか?」
男は答えなかった。
だが、その視線が一瞬だけ揺れた。
それで十分だった。
「ヴィクター、こいつらを拘束しておけ。武器と端末も回収しろ」
『了解。そっちはどうする?』
「旧記録サーバーへ向かう。リナとアランも連れていく」
『罠かもしれないぞ』
「だから、こっちから確かめる」
ダニエルは通信を切った。
そして、床に落ちた端末をポケットへしまった。
父親の名前が使われている。
それだけで、ジェームズが生きていると考えるのは早すぎる。
だが、誰かがその名前を利用している理由は、必ずある。
*
旧記録サーバーは、地下四階の奥にあった。
以前、ダニエルたちが出生記録を調べた部屋とは別の区画だ。
通路には電源が入っていない機器が並び、壁の案内表示も半分以上が剥がれていた。
「この先だ」
アランが足を止めた。
「昔は、研究記録と認証情報を別々のサーバーに保管していた。ひとつが破られても、すべての情報が漏れないようにするためだ」
「それなのに、父さんの名前が両方に残っている」
「ジェームズは、初期システムの設計に関わっていた。管理者権限を持っていたこと自体は、不自然じゃない」
「なら、なぜ権限が今も有効なんだ?」
アランは答えるまでに、わずかな間を置いた。
「……すべての権限が削除されたわけではなかったからだ」
「誰が残した?」
「知らない」
ダニエルはアランを見た。
「本当に?」
「知っていることと、推測できることは違う。君の父親が何を残したのか、私はすべてを把握していない」
その答えには、以前のような言い逃れの響きがなかった。
少なくとも今のアランは、自分が知らないことを認めている。
ダニエルはそれ以上追及せず、扉へ向かった。
リナが端末を接続する。
「電子ロックは生きている。でも、外部から開けるには時間がかかるわ」
「時間はどれくらいだ?」
「五分。妨害が入らなければ」
「三分で頼む」
「簡単に言ってくれるわね」
そう言いながらも、リナの指は止まらなかった。
アランは通路の後方を警戒していた。
ダニエルも、扉だけを見ていたわけではない。
床に残る新しい靴跡。
壁の低い位置についた擦り傷。
そして、通路の隅に落ちていた小さなプラスチック片。
ここを通った人間は、侵入者たちだけではない。
「リナ、ロックを開けたら、すぐに中へ入るな」
「どうして?」
「床を見ろ。誰かが重い機材を運び込んでいる。つい最近だ」
リナは足元を確認した。
確かに、埃の上に二本の細い跡が伸びていた。
「罠?」
「その可能性がある」
ダニエルはホルスターから拳銃を抜いた。
残弾は少ない。
できる限り撃ち合いは避けたい。
だが、警戒を解く理由もなかった。
電子ロックが解除される。
扉がわずかに開いた。
ダニエルは正面から入らず、壁に身を寄せて内部を確認した。
暗い室内。
中央に並ぶサーバーラック。
その奥に、小型の機材がひとつ置かれていた。
「……あれは何だ?」
リナが画面を確認した。
「外部通信装置みたい。でも、通常のネットワークには接続されていない」
ダニエルは床の跡をたどった。
機材は最近運び込まれたものだ。
しかも、サーバーラックの配線に直接つながっている。
「誰かが、この装置を使って旧記録サーバーへアクセスしている」
アランの表情が険しくなった。
「そんなはずはない。この区画は三年前に封鎖された」
「封鎖された場所に、誰かが機材を運び込んだんだ」
ダニエルは装置へ近づいた。
その瞬間、リナが声を上げた。
「待って!」
装置のランプが点滅した。
同時に、サーバーラックのファンが一斉に回り始める。
画面に文字が浮かんだ。
《管理者認証を確認》
《登録者:JAMES CROSS》
《記録再生を開始します》
「離れろ!」
ダニエルはリナの腕を引き、装置から距離を取った。
室内のモニターが次々と点灯する。
そこに映し出されたのは、古い研究室だった。
白い壁。
中央の机。
その前に立つ、若い男。
ダニエルは息を止めた。
写真で見た顔だった。
ジェームズ・クロス。
自分の父親。
映像の中のジェームズは、カメラを見て話し始めた。
『この記録を見ている者へ。もし、私の管理者権限が現在も使用されているなら、システムの一部が残されているということだ』
映像が乱れる。
『私は、CODE Ωの最終制御系を停止させるための手順を記録した。ただし、これは完全な停止方法ではない。システムが人間の神経反応を利用して再起動する場合、通常の管理者権限では制御できない』
リナが小さく息をのんだ。
「再起動……」
ジェームズは続けた。
『第一被験者の反応を、システムの起動条件に使わせてはならない。あの子の能力は、失われた記憶を呼び起こすためのものだ。人間の意思を再現するためでも、誰かの判断を上書きするためでもない』
ダニエルは拳を握った。
父親は、少年を守ろうとしていた。
そのことは、もう疑いようがなかった。
だが、映像の次の言葉は、彼の予想を超えていた。
『そして、第一候補について。ダニエルの神経認証を、最終制御系に使用することは認めない』
ダニエルの顔から血の気が引いた。
「俺の……認証?」
アランが画面を見つめた。
「ジェームズは、君の認証情報を最終制御系から切り離そうとしていたのか」
『ダニエルは研究対象ではない。私の息子だ』
映像の中で、ジェームズは一度目を閉じた。
『もし、私が失敗したなら、あの子に真実を伝えてほしい。何も知らないまま生きることも、すべてを知って戦うことも、本人が選ぶべきだ。私が代わりに決めることではない』
ダニエルは言葉を失った。
記録の中の父親は、彼を守ろうとしていた。
だが、その方法が正しかったかどうかは、まだわからない。
真実を隠せば、本人が選ぶための情報まで奪ってしまう。
それを、ダニエル自身がアランに指摘したばかりだった。
ジェームズもまた、同じ矛盾を抱えていたのかもしれない。
映像が終わりに近づく。
『最後に、ひとつだけ伝えておく』
ジェームズはカメラへ顔を近づけた。
『CODE Ωを止めるために、第一被験者を犠牲にしてはならない。そして、ダニエルの認証を復旧させるな。もし両方が必要だと主張する者が現れたなら、それは私の研究を利用しているだけの人間だ』
映像が停止した。
室内に静寂が戻る。
リナが画面を確認した。
「記録はこれで終わり。でも、再生されたデータは、外部から送られたものじゃない。サーバーの中に最初から保存されていたみたい」
「誰が再生した?」
「管理者認証が使われたのは確か。でも、再生を開始したのは、この部屋にある装置よ」
ダニエルは小型機材を見た。
誰かがここに装置を持ち込み、ジェームズの記録を再生できる状態にしていた。
そして、外部から接続していた者たちは、その存在を知っていた可能性がある。
「アラン。この記録の内容は知っていたか?」
「知らなかった」
「父さんが、俺の認証を切り離そうとしていたことも?」
「知らなかった。私は、君の認証がCODE Ωに使われていたことまでは把握していたが、ジェームズがどこまで手を加えていたのかは知らなかった」
ダニエルはアランの目を見た。
嘘をついているかどうか、確実に見抜けるわけではない。
だが、少なくとも今回の映像は、アランがこれまで話してきた内容と矛盾していなかった。
ジェームズは、研究を続けながらも、その利用方法には抵抗していた。
そして、自分の息子まで研究に巻き込まれることを拒んでいた。
それでも、認証情報は残った。
システムも完全には停止しなかった。
何かが、ジェームズの計画を途中で止めたのだ。
「リナ、認証情報を消せるか?」
「この場で削除するのは危険よ。どの機能とつながっているか、まだ確認できていない。下手に消せば、別の処理が起動するかもしれない」
「なら、まず記録を複製して、アクセス経路を調べる」
「賛成。原本には触れず、読み取り専用で保存するわ」
リナが作業を始めた。
そのとき、端末に新しい通知が届いた。
《記録再生:完了》
《最終制御系:認証情報の不一致》
《第一候補:認証保留》
ダニエルは画面を見つめた。
父親の認証が使われたにもかかわらず、システムは何かを拒否している。
ジェームズが残した記録によって、ダニエルの認証が一時的に保留されたのか。
それとも、別の条件が満たされていないのか。
まだ判断できない。
だが、ジェームズが自分の認証を切り離そうとしていた事実は、はっきりした。
ダニエルは拳銃をホルスターへ戻した。
「戻ろう。少年の状態を確認する」
「サーバーはどうするの?」
「記録は保存できた。ここに長居する理由はない」
アランがうなずいた。
三人は部屋を出た。
扉が閉じる直前、サーバーのモニターが一度だけ点滅した。
記録の一覧に、新しい項目が表示される。
《JAMES CROSS:最終制御系の解除手順》
その項目の状態は、まだ未開封だった。
そして、その横には小さな文字があった。
《閲覧条件:第一候補の意思確認》
*
通路を戻りながら、ダニエルは考えていた。
父親は、自分を研究対象にすることを拒んでいた。
少年をシステムの起動条件にすることも拒んでいた。
それでも、CODE Ωは動き始めている。
ジェームズが残した停止手順を使うには、自分の意思が必要なのかもしれない。
だが、意思を確認することと、意思を利用することは違う。
ダニエルは、もう誰かの計画に従うつもりはなかった。
父親の計画であっても。
自分を守るための計画であっても。
選ぶのは、自分だ。
そのとき、通信機が鳴った。
ヴィクターの声だった。
『ダニエル、少年に変化があった』
「何が起きた?」
『目は覚ましていない。だが、カプセルの画面に新しい表示が出ている』
「何と?」
短い沈黙。
そして、ヴィクターは告げた。
『《第一被験者:意思確認を要求》だ』
ダニエルは足を止めた。
少年は、まだ眠っていたいと選んだ。
その意思はシステムに受け入れられている。
それなのに、今度はシステム側から、意思確認を求めている。
「……何を確認するつもりだ?」
通信の向こうで、ヴィクターが答えた。
『わからない。ただ、表示の下にもうひとつ項目がある』
「読め」
『《最終制御系:解除手順の選択待ち》』
ダニエルは目を閉じた。
ジェームズが残した解除手順。
第一被験者の意思。
そして、自分の認証。
三つが、ようやくひとつの場所につながり始めていた。
だが、父親が望んだ結末が何だったのかは、まだわからない。
ダニエルは再び歩き出した。
今度こそ、すべてを確かめるために。




