第39話 待ち合わせ場所
医療研究棟は、街の外れにひっそりと建っていた。
かつては神経疾患の治療研究を行っていた施設らしい。建物の外壁は黒ずみ、正面玄関のガラスにはひびが入っている。
ダニエルは周囲を確認した。
「人の気配がないな」
「隠れている可能性はあるわ」
リナは携帯端末を操作した。
「通信設備はほぼ停止している。外部から監視されているかどうかも、今の状態では判断できない」
「歓迎されている感じはしないな」
「そもそも、歓迎されると思って来たの?」
「まさか」
二人は正面玄関を避け、建物の側面にある搬入口へ回った。
鍵は壊されていた。
最近、誰かが出入りした形跡がある。
ダニエルは拳銃を構え、ゆっくりと中へ入った。
廊下には、古い医療器具や空になった薬品棚が並んでいた。
その奥から、かすかな物音が聞こえた。
ダニエルはリナに合図した。
二人は左右に分かれ、廊下の角へ近づく。
そこにいたのは、アランだった。
壁にもたれ、片手で脇腹を押さえている。
「遅かったな」
「待ち合わせに来た人間の第一声が、それか?」
ダニエルは銃を下ろさなかった。
「その傷は?」
「大したことはない」
「質問に答えろ」
アランは小さく息を吐いた。
「ここへ来る途中、襲撃を受けた」
リナがすぐに近づき、傷を確認した。
「銃創ね。出血は抑えられているけど、放っておける状態じゃない」
「治療は後でいい」
「あなたが倒れたら、話を聞けなくなる。黙って座って」
アランは反論しかけたが、リナの目を見て諦めた。
ダニエルは廊下の奥を警戒しながら尋ねた。
「誰に襲われた?」
「顔は見ていない。だが、目的は私の殺害ではなかったようだ」
「どうしてそう思う?」
「撃たれたあと、相手は追撃せず、私の端末だけを奪おうとした」
リナの手が止まった。
「端末には何が入っていたの?」
「ジェームズ・クロスの記録だ」
ダニエルは、アランの顔を見た。
「父さんの記録を持っていたのか」
「正確には、彼が残した研究データの複製だ。出生記録そのものではない」
「なら、何がわかった?」
アランは廊下の先を見た。
「ここでは話せない。奥に小さな診察室がある。そこなら、外から通信を傍受される危険が少ない」
ダニエルは一瞬考え、うなずいた。
「先に歩け。余計な動きをしたら止める」
「好きにしろ」
三人は診察室へ移動した。
アランが壁のパネルを操作すると、古いモニターが起動した。
画面に映し出されたのは、研究記録の一部だった。
《研究計画:神経記憶再生における相互反応》
《責任研究員:ジェームズ・クロス》
《協力研究員:エレナ・クロス》
そして、二人の名前の下に、別の項目が表示された。
《対象児童:第一被験者》
《関連児童:ダニエル・クロス》
リナが画面を見つめた。
「関連児童……。候補者として登録される前から、ダニエルの情報が管理されていたのね」
「そうだ」
アランはうなずいた。
「だが、ジェームズがダニエルを研究対象として登録した記録は見つかっていない。むしろ、彼は何度も登録を拒否している」
ダニエルは眉を寄せた。
「父さんは、俺を研究から遠ざけようとしていた?」
「少なくとも、残された記録はそう示している」
「それなのに、俺は施設にいた」
「その経緯が、記録から抜け落ちている」
アランは別のファイルを開いた。
そこには、ジェームズが残した短い音声記録があった。
ノイズの向こうから、男の声が流れる。
『この反応を、治療以外に使うべきではない』
『第一被験者の能力は、記憶を生み出すものではない。失われた記憶へたどり着くための、きっかけにすぎない』
『他者の意思決定を再現し、それを利用するような計画に転用すれば、必ず破綻する』
音声はそこで途切れた。
ダニエルは黙っていた。
母の記録と似た考え方だった。
少年は人の記憶を自由に操れるわけではない。
本人の中に残っているものを、思い出すきっかけを与える。
その能力を再現しようとした結果、研究者たちは記憶の共有と人格の統合を混同した。
そして第六号が生まれた。
「父さんは、CODE Ωに反対していたんだな」
「初期の計画には賛成していた」
アランは訂正した。
「記憶を取り戻す技術そのものを否定していたわけではない。彼が反対したのは、その技術を人間の意思を制御するために使うことだった」
「それで、どうなった?」
「研究責任者たちと対立した。ジェームズは計画から離れようとしたが、その直後に姿を消した」
ダニエルは目を細めた。
「死亡したという記録は?」
「ない。死亡を確認した記録も、遺体も見つかっていない」
「つまり、生きている可能性がある」
「可能性はある。だが、それ以上のことはわからない」
ダニエルは壁に手をついた。
父親が生きているかもしれない。
それは希望だった。
だが、希望だけで行動すれば、また誰かの思惑に利用される。
「アラン。ひとつ聞く」
「何だ」
「なぜ、今まで黙っていた?」
アランは視線をそらした。
「ジェームズの記録が残っていると知れば、君は探そうとしただろう。そして、君が動けば、第一被験者も再び狙われる可能性があった」
「だから、俺に何も知らせなかった?」
「それだけではない。私自身、何を信じるべきか判断できていなかった」
ダニエルは冷たく言った。
「それは、お前の都合だ」
「そうだ」
アランは否定しなかった。
「私は、君を守るつもりで、君が知るべきことまで隠した。その結果、君は自分で選ぶための情報を失った」
ダニエルは、アランを見つめた。
謝罪を聞いても、怒りが消えるわけではない。
それでも、今の言葉は、以前よりもましだった。
少なくともアランは、自分の判断を正しいと押し通そうとはしていない。
そのとき、リナの端末が震えた。
「ヴィクターからよ」
彼女は通信を開いた。
『こちらは異常なし。少年の状態も安定している。ただし、施設の外部通信に不審な動きがある』
「どんな動き?」
『外部からのアクセスが増えている。しかも、施設を探しているというより、少年の反応を追っているようだ』
ダニエルの表情が険しくなった。
「第一被験者の記憶が戻り始めたことを、誰かが検知しているのか」
リナが答えた。
「可能性は高いわ。さっきの保管室へのアクセスとも関係しているかもしれない」
アランが立ち上がろうとした。
だが、脇腹の痛みで顔をしかめた。
リナが肩を押さえる。
「動かないで。まだ治療が終わってない」
「時間がない」
「だからって、倒れたらもっと時間を無駄にするの」
アランは黙って座り直した。
ダニエルはモニターに目を戻した。
画面の端に、未確認のファイルがひとつ残っていた。
《JAMES CROSS:最終記録》
「これは何だ?」
アランの表情が変わった。
「……見たことがない」
「お前が持ってきたデータじゃないのか?」
「違う。さっきまで、このファイルはなかった」
リナが急いで解析を始めた。
「外部から新しく転送された形跡はない。既存のデータ領域に、隠されていたファイルが浮かび上がったみたい」
ファイルには、短い音声が保存されていた。
ダニエルが再生を押す。
しばらくノイズが続いたあと、男の声が流れた。
『エレナ。もし、この記録を聞いているなら、私は戻れなかったということだ』
ダニエルは息を止めた。
聞き覚えのない声。
それなのに、なぜか胸の奥が痛んだ。
『ダニエルのことを頼む。あの子には、私たちの失敗を背負わせないでほしい』
短い沈黙。
『そして、第一被験者を……』
音声が乱れた。
『あの子を、計画のために使わせてはいけない。二人とも、ただの子どもなんだ』
そこで記録は終わった。
診察室には、誰も言葉を発しなかった。
ダニエルはモニターを見つめていた。
父親は、第一被験者を守ろうとしていた。
自分だけではなく、あの少年も。
それがわかっただけでも、これまでとは違う。
だが、最後の音声には、まだ欠けている部分があった。
ジェームズは、何を伝えようとしていたのか。
そして、なぜ戻れなかったのか。
ダニエルは拳を握った。
「……探すしかないな」
リナがうなずいた。
「ええ。でも、今は施設へ戻りましょう。少年を守ることが先よ」
ダニエルはアランを見た。
「お前も来い。話はまだ終わっていない」
「わかっている」
三人は診察室を出た。
そのころ、誰もいなくなったモニターの画面に、新しい文字が浮かび上がっていた。
《最終記録の再生を確認》
《第一候補:記憶反応、上昇》
《次段階への移行条件を満たしました》
最後の一行が表示される。
《CODE Ω――再起動準備》
そして、画面は静かに消えた。




