第36話 出生記録
「……死亡したはずだ」
マーティンの声が、狭い通路に響いた。
目の前の男は、表情ひとつ変えなかった。
「記録上はな」
「三年前、施設の封鎖に巻き込まれたと聞いた。遺体も確認されたはずだ」
「確認されたのは、私の認証情報を持った遺体だ」
男は認証パネルに手をかざした。
重いロック音が鳴る。
通路の奥で、分厚い扉がゆっくりと開いていった。
「話は中でする。ここは、長居する場所じゃない」
ダニエルは銃を下ろさなかった。
「名前が先だ」
男は振り返った。
「エドワード・ハイル。第七支部で神経再生研究を担当していた」
「何を研究していた?」
「記憶の保存と復元だ。少なくとも、最初はな」
エドワードは保管室へ足を踏み入れた。
「その研究がCODE Ωへつながり、やがて人間の意思を制御する計画に変わった。私は反対した。だから、消された」
「誰に?」
「それを確かめるために、君たちを待っていた」
ダニエルは数秒考えたあと、ヴィクターに目配せした。
ヴィクターが先に室内を確認する。
危険は見当たらなかった。
保管室には、古いサーバーラックが並んでいた。ほとんどの装置は停止しているが、中央の端末だけが動作を続けている。
その画面には、ひとつのファイルが表示されていた。
《出生記録:DANIEL CROSS》
ダニエルの喉が鳴った。
「開けられるか?」
リナは端末を接続し、記録を調べ始めた。
「暗号化されてる。認証キーを使えば開く可能性はあるけど、下手に接続すると記録が壊れるかもしれない」
「やってくれ」
「ダニエル、これはあなた自身の記録よ。内容によっては……」
「それでも知りたい」
リナはダニエルを見つめた。
そして、静かにうなずいた。
認証キーを端末に接続する。
画面が一度暗転し、文字列が流れ始めた。
《本人認証:一致》
《記録保護:解除》
《出生記録を表示します》
ダニエルは息を止めた。
表示されたのは、簡素な医療記録だった。
出生日時。
血液型。
遺伝子検査の結果。
そして、両親の欄。
母親――エレナ・クロス。
父親――。
その部分だけが、黒く塗りつぶされていた。
「……消されてる」
リナが画面を拡大した。
「単純な削除じゃない。記録の該当部分だけ、上書きされている」
「復元できるか?」
「原本があれば」
エドワードが口を開いた。
「原本は、この施設にはない」
ダニエルが振り返る。
「なら、なぜここへ呼んだ?」
「出生記録だけでは、君の父親を特定できない。だが、この記録にはもうひとつ重要な情報がある」
エドワードは別のファイルを開いた。
そこには、ダニエルが見覚えのある名称が記されていた。
《第一被験者との神経反応:確認》
《反応開始時期:出生後、初期発達段階》
《因果関係:未確定》
リナが画面を見つめた。
「待って……。ダニエルと第一被験者は、研究に参加する前から反応していたの?」
「そうだ」
エドワードは答えた。
「少なくとも、記録上はな。二人が出会ったから反応が始まったのか、それとも、もともと何らかの共通要因があったのか。研究者たちにもわからなかった」
「それで、二人を同じ施設に集めた?」
「そうだ。研究責任者たちは、その反応を利用しようとした」
ダニエルは拳を握った。
幼いころの記憶が、断片的によみがえる。
窓のない部屋。
小さなパンを半分に分けた少年。
自分の名前を呼ぶ声。
あの時間は、本当に自分のものだったのだろうか。
「ひとつ聞きたい」
ダニエルはエドワードを見た。
「俺とあの子の記憶は、誰かに作られたものなのか?」
エドワードはすぐには答えなかった。
「記録から判断する限り、そうではない。少なくとも、二人の関係そのものを人工的に作った証拠はない」
「少なくとも、か」
「研究者は、わからないことまで断言してはいけない」
エドワードの声には、苦いものが混じっていた。
「だが、ひとつだけ確かなことがある。CODE Ωは、君たちの記憶を利用した。だからといって、君たちが誰かを大切に思った気持ちまで、偽物になるわけではない」
ダニエルは黙った。
その言葉を信じたい自分がいた。
だが、信じたいという気持ちだけで真実を決めるわけにもいかなかった。
そのとき、端末が警告音を発した。
リナが画面を確認する。
「誰かが、この保管室の記録にアクセスしてる!」
「外部からか?」
「違う。施設内部よ。しかも、管理者権限を使っている!」
エドワードの顔色が変わった。
「そんなはずはない。この保管室の管理者権限は、三年前にすべて失効している」
「誰かが復活させたのよ!」
リナはアクセス元を追った。
だが、画面には短い文字列しか残らなかった。
《管理者:Ω-000》
その下に、もうひとつの表示が現れた。
《出生記録へのアクセスを拒否》
そして、ダニエルの出生記録が消え始めた。
「止められない!」
リナが操作を続ける。
「削除処理が走ってる。記録をコピーする!」
画面が激しく点滅した。
ダニエルは反射的に認証キーを引き抜こうとしたが、エドワードが腕をつかんだ。
「触るな! 接続を切れば、残っているデータまで失われる!」
「じゃあ、どうする!」
「待て!」
エドワードは古い操作盤を開き、物理スイッチを押し込んだ。
サーバーの駆動音が大きくなる。
削除処理が一瞬だけ停止した。
その隙に、リナが記録の一部を外部端末へ転送する。
「取れた! 全部じゃないけど、これだけは残せた!」
画面が暗転した。
出生記録は消えた。
しかし、転送されたファイルには、最後の数行が残っていた。
リナが読み上げる。
「……『第一被験者との接続は、母体由来の遺伝情報とは別の要因による可能性が高い』」
「どういう意味だ?」
ヴィクターが尋ねた。
エドワードは険しい表情で画面を見つめた。
「遺伝的な親子関係と、神経反応の原因は別の問題だということだ。これだけでは、君の父親も、第一被験者との関係も断定できない」
ダニエルは認証キーを握りしめた。
また、答えには届かなかった。
だが、ひとつだけわかったことがある。
誰かは今も、彼の出生記録を隠し続けている。
そして、その誰かは、第一被験者のことも知っている。
「Ω-000……」
ダニエルがつぶやく。
「これが、管理者の識別番号か?」
エドワードは首を振った。
「普通の管理者番号なら、末尾に権限の区分がつく。これは違う」
「じゃあ、何なんだ?」
「管理者の番号ではない可能性がある」
エドワードは、消えた画面を見つめた。
「システムそのものの識別番号かもしれない」
その瞬間、リナの端末に通信が入った。
カプセルに残してきた監視端末からだった。
彼女は急いで応答する。
「こちらリナ。少年の状態は?」
返事はなかった。
代わりに、映像が送られてきた。
カプセルの中で眠る少年。
そのすぐ横に、誰かが立っている。
黒い服。
銀色の目。
ダニエルは、その顔を知っていた。
アラン・クロスだった。
「……アラン?」
映像の中のアランは、眠る少年を見下ろしていた。
そして、監視カメラに気づいたかのように、ゆっくりと顔を上げた。
「ダニエル」
音声がつながる。
「その記録を見たなら、もう隠しておくことはできない」
アランは、静かに告げた。
「君の父親について、私が知っていることを話そう」
一拍置いて、彼は続けた。
「ただし、ひとつだけ覚えておけ。君が探しているのは、父親の名前だけじゃない」
アランの銀色の目が、まっすぐにこちらを見据えた。
「君が生まれる前に、誰が君の存在を必要としたのか。その答えこそが、CODE Ωの始まりなんだ」
通信が切れた。
ダニエルは、しばらく動けなかった。
父親の名前。
第一被験者とのつながり。
そして、自分が生まれる前から始まっていた研究。
点と点は、少しずつつながり始めていた。
だが、その中心にいるはずのアランは、まだ何かを隠している。
ダニエルは銃を握り直した。
「戻るぞ」
今度こそ、本人の口から聞く。
誰かが用意した答えではなく、自分の目で確かめるために。




