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Code Ω  作者: ニコル
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第35話 消された名前



「その手、見せろ」


ダニエルの声に、マーティンの指が止まった。


ほんの一瞬だった。


だが、ダニエルは見逃さなかった。


「左手だ。何を隠している?」


マーティンはゆっくりと手を開いた。


掌に、小さな金属片が乗っていた。


古びた認証キー。


表面には《CROSS》の文字が刻まれている。


「それは何だ?」


「君の母親が残したものだ」


「だったら、なぜ隠す?」


「今、見せるつもりがなかったからだ」


「理由になっていない」


ダニエルが手を伸ばす。


マーティンは抵抗しなかった。


認証キーを受け取った瞬間、ダニエルの頭に鋭い痛みが走った。


「っ……!」


視界が揺れる。


白い部屋。


赤い警告灯。


誰かが、自分の手を握っている。


幼い自分の声が聞こえた。


『この名前、消さないでね』


『どうして?』


『忘れちゃったら、もう会えなくなるから』


相手の顔は見えない。


ただ、青い瞳だけが記憶の奥に残っていた。


ダニエルは壁に手をついた。


「ダニエル!」


リナが駆け寄る。


「大丈夫?」


「……ああ。少し、記憶が反応しただけだ」


「認証キーに神経情報が残っているのかもしれない。無理に読み取ろうとしないで」


リナはキーを受け取ろうとしたが、ダニエルは首を振った。


「いや。これは俺が持つ」


マーティンが口を開いた。


「そのキーには、消去された記録の一部が保存されている。ただし、普通の端末では開けない」


「開く方法は?」


「第一被験者の認証が必要だ」


全員の視線が、カプセルへ向いた。


「つまり、あの子を目覚めさせなければ読めないってこと?」


リナの問いに、マーティンはうなずいた。


「正確には、完全に目覚める必要はない。本人が接続を許可すればいい」


ダニエルは認証キーを握りしめた。


少年の意思を無視してまで、真実を知るつもりはなかった。


それだけは、もう決めていた。


「このキーは預かる。あの子が目を覚ましたら、本人に説明する」


マーティンは何も言わなかった。


そのとき、施設の奥から鈍い振動が伝わってきた。


天井の照明が明滅する。


リナの端末に警告が表示された。


「まずい。地下二階の隔壁が閉じ始めてる!」


「自動封鎖か?」


ヴィクターが尋ねる。


「違う。外部からの操作よ。私たちを閉じ込めようとしている」


リナは制御画面を操作した。


だが、隔壁の制御権限は次々と奪われていく。


「この施設の管理者権限は、私が持っているはずなのに……!」


「第一被験者が権限を与えたんじゃないのか?」


ダニエルの問いに、リナは首を振った。


「これは別系統。私の権限を無視している」


ヴィクターが拳を握った。


「なら、壊して進む」


「待って。隔壁が閉じる順番がおかしい」


リナは画面を拡大した。


地下二階から地上へ向かう通路は封鎖されている。


一方、地下三階の奥にある保守用通路だけは、開放されたままだった。


「逃げ道を残している?」


「いや……」


ダニエルは、認証キーを見下ろした。


「俺たちを、どこかへ誘導しているんだ」


マーティンの表情が険しくなった。


「保守用通路の先には、旧記録保管室がある」


「そこに何がある?」


「三年前、第一被験者に関する記録が保管されていた。消去命令が出たあと、私はそこへ向かおうとした」


「結果は?」


「たどり着けなかった。通路が封鎖されたからだ」


ダニエルは銃を拾い上げた。


残弾は心もとない。


それでも、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。


「行こう。リナ、少年の状態を監視できるか?」


「端末を一台、カプセルに残す。異常があればすぐ知らせる」


「ヴィクターは先行して通路を確認。マーティンは俺の前を歩け」


「信用されていないな」


「当然だ」


ヴィクターが短く笑った。


「少なくとも、そいつを信用していないことだけは全員一致だな」


マーティンは反論せず、先へ歩き出した。


保守用通路は狭く、壁の配管がむき出しになっていた。


非常灯の明かりが途切れる場所もある。


ヴィクターが先頭で角を確認し、ダニエルがマーティンを監視する。


リナは最後尾で、カプセルから送られる数値を確認していた。


「今のところ、少年の状態は安定してる」


その報告に、ダニエルは小さく息を吐いた。


だが、安心したのも束の間だった。


通路の奥で、金属音がした。


ヴィクターが片手を上げる。


全員が足を止めた。


暗闇の中に、人影が立っていた。


黒い戦闘服。


顔は見えない。


その人物は、銃を構えてはいなかった。


代わりに、壁の認証パネルへ片手を置いていた。


「そこまでだ」


低い声が響く。


ダニエルは銃口を向けた。


「お前も、第一被験者を狙っているのか?」


「違う」


人物は答えた。


「私は、君たちがそこへ行くのを待っていた」


「旧記録保管室か?」


「そうだ」


ヴィクターが一歩前に出る。


「誰の命令だ?」


「誰の命令でもない」


人物は認証パネルから手を離した。


「三年前に消された記録を、君たちに見せるためだ」


マーティンが息を呑んだ。


「まさか……お前は、あのときの」


人物はマーティンを見た。


「久しぶりだな、マーティン」


「生きていたのか……」


ダニエルは二人を交互に見た。


知り合いらしい。


しかも、三年前の事件に関わっている。


「名前を言え」


ダニエルが告げると、人物はゆっくりと顔を上げた。


その顔を見た瞬間、マーティンの表情が凍りついた。


ダニエルも、言葉を失った。


そこにいたのは、三年前に死亡したと記録されていた研究員だった。


その男は、ダニエルを見つめ、静かに言った。


「君の父親の名前を知りたいんだろう?」


一拍置いて、男は続けた。


「なら、まず自分の出生記録を見ろ。そこに書かれている名前は、君が信じてきたものとは違う」


ダニエルの手の中で、認証キーがかすかに震えた。


表面に刻まれた《CROSS》の文字が、一瞬だけ光る。


その下に、今まで見えなかった文字列が浮かび上がった。


《登録者:DANIEL CROSS》


《親権者情報:削除済み》


そして最後に、ひとつの警告が表示された。


《原本との照合が必要です》


ダニエルは画面を見つめた。


真実は、すぐそこにある。


だが、それを知ったとき、自分が自分でいられる保証はなかった。

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