第34話 父の名前
「私は、君の父親を知っている」
その言葉が、ダニエルの頭から離れなかった。
「……どういう意味だ」
男は答える前に、ヴィクターの手を見下ろした。
「できれば、腕を放してもらいたい。もう抵抗するつもりはない」
「信じろって?」
「信じなくていい。ただ、少年の状態を確認させてくれ」
ヴィクターはダニエルを見た。
ダニエルがうなずくと、ようやく拘束を解いた。
男はカプセルへ近づいた。
少年は目を閉じている。だが、先ほどまでの苦しそうな表情は消えていた。
男は透明なカバーに手を置き、何かを確かめるように指先を動かした。
「……よかった」
その声は、戦闘中とはまるで違っていた。
「ずっと、この瞬間を恐れていた」
「なら、どうして殺そうとした?」
ダニエルの問いに、男は顔を上げた。
「殺すつもりはなかった」
「信じろと?」
「信じなくていいと言ったはずだ」
男はカプセルの脇にある端末を操作した。
画面に神経活動の波形が表示される。
「この子の脳は、外部ネットワークに接続されている。目覚める過程で接続が拡大すれば、施設の外にあるシステムまで反応する可能性がある」
リナがすぐに端末をのぞき込んだ。
「外部接続の痕跡はある。でも、これ……」
彼女の眉が寄る。
「施設のネットワークだけじゃない。どこかから、この子の神経活動を監視している」
「どこだ?」
「まだ特定できない。でも、接続先がひとつじゃないの」
画面には、複数の通信経路が表示されていた。
そのうちのひとつが、突然消えた。
続いて、別の経路も。
まるで、こちらの動きを見ていた何者かが、通信の痕跡を消しているようだった。
リナは端末を操作し続けたが、やがて手を止めた。
「追えない。向こうが切った」
ヴィクターが舌打ちした。
「つまり、こいつ以外にも少年を監視している人間がいるってことか」
「その可能性が高い」
ダニエルは男に視線を戻した。
「名前は?」
男は一瞬だけ目を伏せた。
「マーティン・クロス」
ダニエルの呼吸が止まった。
クロス。
自分と同じ姓。
「母さんと、どういう関係だ」
「研究者として、彼女と一緒に働いていた。君が生まれる前からな」
「父親は?」
マーティンはすぐには答えなかった。
その沈黙が、かえって不気味だった。
「君の父親は、私ではない」
「そんなことは聞いていない」
ダニエルの声が強くなる。
「父親を知っていると言ったな。なら、名前を言え」
マーティンはダニエルを見つめた。
「今、その名前を伝えても、君は信じないだろう」
「勝手に決めるな」
その言葉に、マーティンの表情がわずかに変わった。
ダニエルは自分でも驚いていた。
以前なら、相手が何かを隠しているとわかった時点で、無理にでも答えを引き出そうとしていたかもしれない。
だが今は違う。
誰かが決めた順番で、誰かが用意した答えを受け取るつもりはなかった。
「俺が信じるかどうかは、俺が決める」
マーティンはしばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐いた。
「……エレナは、君にそういうことを教えたんだな」
「母さんの話に逃げるな」
「逃げているわけではない」
マーティンは端末から手を離した。
「君の父親は、この研究の初期段階に関わっていた。だが、CODE Ωが記憶の治療から、人間の意思決定を制御する計画へ変わり始めたとき、彼は研究から離れた」
「アレクサンダーの話と違うな」
ヴィクターが口を挟んだ。
「父は、計画の中心にいた人間だ。そんな人物が、途中で離脱したなんて話は聞いていない」
「アレクサンダー・レインがすべてを知っていると思うのか?」
マーティンは冷たく返した。
「彼が知っているのは、自分が関わった計画の一部にすぎない」
ヴィクターは言い返そうとしたが、言葉を飲み込んだ。
マーティンの話が真実かどうかは、まだわからない。
それでも、彼が施設の古い事情を知っていることは確かだった。
そのとき、カプセルから短い電子音が鳴った。
リナが画面を確認する。
「待って。少年の意識反応が変わってる」
神経活動の波形が、ゆっくりと揺れていた。
少年の唇が動く。
「……お父さん」
マーティンの顔が強張った。
「ここにいる」
「もう……行っちゃうの?」
マーティンは透明なカバーに手を置いたまま、答えられなかった。
少年は目を開けない。
「ずっと、待ってたんだよ」
その声は小さかった。
「迎えに来てくれるって、信じてた」
マーティンの指が震えた。
「すまない……」
彼はそれだけ言った。
ダニエルは二人を見ていた。
少年が誰を父親と呼んでいるのか。
マーティンがなぜ、これほどまでに少年を目覚めさせたくなかったのか。
少なくとも、単に任務を遂行するためだけにここへ来た人間には見えなかった。
だが、罪悪感があることと、信用できることは別だ。
「マーティン」
ダニエルは静かに呼びかけた。
「三年前、俺たちがいた施設で何が起きた?」
マーティンは顔を上げた。
「君が知りたいのは、第一被験者のことか。それとも、君自身のことか」
「両方だ」
「なら、まずひとつだけ訂正しておく」
マーティンは少年を見つめた。
「君は、あの子を置いて逃げた。だが、君が逃げなければ、あの子が助かったとは限らない」
ダニエルの胸が締めつけられた。
母の記録で聞いた言葉と、よく似ていた。
だが、マーティンは続けた。
「問題は、そのあとだ。君が施設を離れた直後、第一被験者の記録は消去された。研究員の記録も、監視映像も、ほとんど残っていない」
「誰が消した?」
「わからない」
「お前は、その場にいたんだろ」
「いた。だが、消去が始まったときには、すでに制御室から締め出されていた」
マーティンは自分の右腕を示した。
古い神経接続端子。
「この端子は、そのときに焼き切られた接続を補うためのものだ。私は記録を消した人間ではない。だが、止めることもできなかった」
リナが顔を上げた。
「消去された記録の一部が残っているかもしれない。施設の外部通信ログを探せば……」
その瞬間、端末の画面が真っ黒になった。
一行だけ、白い文字が浮かび上がる。
《第一被験者への接続を確認》
続いて、もう一行。
《観測対象:ダニエル・クロス》
ダニエルは画面を見つめた。
「俺を観測している?」
文字が書き換わる。
《訂正》
《観測対象:第一被験者とダニエル・クロス》
リナが急いで通信を切断した。
だが、表示は消えなかった。
「何なの、これ……。こっちの端末を乗っ取っているわけじゃない。表示そのものが、システムの通常処理に割り込んでいる」
ヴィクターが周囲を警戒する。
「また第六号か?」
「断定できない」
ダニエルは画面から目を離さなかった。
すると、最後の一文が表示された。
《観測を継続する》
次の瞬間、画面は元に戻った。
通信履歴にも、警告ログにも、何も残っていない。
リナは唇をかんだ。
「証拠が消えてる……」
マーティンは、少年のカプセルを見つめていた。
「始まったか」
「何がだ?」
ダニエルが問い詰める。
マーティンはすぐには答えなかった。
やがて、決意したように顔を上げる。
「ここに残っていては危険だ。少年を移送する必要がある」
「どこへ?」
「私が知っている場所がある。外部ネットワークから切り離された、古い医療施設だ」
「信用する理由がない」
「その通りだ」
マーティンはうなずいた。
「だから、私を拘束して連れていけばいい。道案内だけはできる」
ヴィクターがダニエルを見た。
リナも返事を待っている。
ダニエルはカプセルの中の少年を見つめた。
少年は眠っていた。
だが、もう以前のように、ただ一人で待たせておくつもりはなかった。
「移送するかどうかは、あの子が決める」
ダニエルは言った。
「目を覚ましたあとで、本人に聞く。それまでは、誰も勝手に連れ出さない」
マーティンは目を閉じた。
「……そうか」
その表情に、かすかな安堵が浮かんだ。
ダニエルは気づかなかった。
マーティンの左手が、誰にも見えない角度で握りしめられていたことに。
その手の中には、古い金属製の認証片があった。
表面に刻まれている文字は、ひとつ。
《CROSS》
そして、その下には、ダニエルがまだ知らない名前が刻まれていた。




