第33話 引き金を引く理由
地下三階へ続く階段は、非常灯だけが頼りだった。
ダニエルは足音を殺しながら、手元の拳銃を握り直した。
残弾は少ない。
相手の人数も、武装もわからない。
それでも、戻るという選択肢はなかった。
「ダニエル、止まって」
後ろからリナの声がした。
彼女は壁の配電盤を開き、端末を接続していた。
「地下三階の監視映像を一部だけ取り戻せた。カプセルの前にいるのは一人。武装しているけど、装備はオルフェウスの標準規格じゃない」
「顔は?」
「マスクで隠れてる。けど、妙なのよ」
リナは画面を拡大した。
男の右腕には、古い医療用の神経接続端子が取り付けられていた。
「この規格、かなり古い。今の軍用装備じゃ使われてないはず」
ヴィクターが画面をのぞき込む。
「研究施設の人間か?」
「可能性はある。でも、もっと気になることがある」
リナは映像を巻き戻した。
男がカプセルに近づく直前、ほんの一瞬だけ動きを止めている。
カプセルの中の少年が口を動かした場面だった。
「この人、少年の言葉に反応してる」
ダニエルは映像を見つめた。
「少年は、あいつを父親だと思っていた」
「本当の父親かどうかは、まだわからない」
「わかってる」
ダニエルは階段を下り始めた。
「だから、本人に聞く」
地下三階の扉の前に着いたとき、警報が突然止まった。
静寂。
ダニエルは扉の横に身を寄せ、ヴィクターに合図した。
ヴィクターがうなずく。
人工筋肉の駆動音が、かすかに響いた。
彼は扉を押し開けると同時に、室内へ踏み込んだ。
「動くな!」
男はすでにこちらを向いていた。
右手には小型拳銃。
銃口がヴィクターへ向く。
乾いた銃声が響いた。
ヴィクターは身をひねったが、弾丸が肩の装甲をかすめた。
その間に、ダニエルはカプセルとの間にある機材へ飛び込んだ。
男が照準を変える。
ダニエルは反射的に銃を構えた。
だが、引き金を引かなかった。
男の背後には、カプセルの制御装置がある。
撃てば、少年を傷つける可能性があった。
男はそれを理解しているようだった。
「撃たないのか?」
マスク越しの声が響く。
「お前は撃てる。だが、私には撃てない」
ダニエルは答えず、男の足元を見た。
床には、引きずったような跡がある。
そして、制御装置から伸びるケーブルが、男の左足の近くを通っていた。
「ヴィクター、左!」
ダニエルが叫ぶ。
ヴィクターは意味を理解するより早く、床を蹴った。
男が銃口を向け直す。
その瞬間、ヴィクターのブーツがケーブルを踏みつけた。
制御装置が火花を散らす。
男の端末が警告音を発した。
「しまっ――」
ダニエルが動いた。
機材の陰から飛び出し、男の銃を持つ手首をつかむ。
銃声が一発。
弾丸は天井へ逸れた。
ダニエルは相手の腕を押し上げ、そのまま体勢を崩させた。
男は倒れなかった。
肘を引き、ダニエルの胸元へ鋭い打撃を叩き込む。
息が詰まる。
続く蹴りを、ダニエルはかろうじて腕で受けた。
重い。
訓練を受けた人間の動きだった。
しかも、こちらの反応を先読みしている。
ダニエルが距離を取ろうとした瞬間、男の左手が彼の首元をつかんだ。
「三年前より、鈍くなったな」
その言葉に、ダニエルの動きが止まった。
三年前。
男は、あの事件を知っている。
いや、それだけではない。
自分の戦い方まで知っている。
男の膝が腹部に入った。
ダニエルは後方へ吹き飛び、床に転がった。
「ダニエル!」
リナが叫ぶ。
男は彼女へ銃口を向けた。
だが、引き金を引く前に、ヴィクターが横から体当たりした。
二人が床を転がる。
男は素早く立ち上がり、ヴィクターの腕をねじり上げた。
人工筋肉が異常な音を立てる。
「ヴィクター、無理に動かすな! 制御系を壊される!」
リナの警告が飛ぶ。
男はヴィクターの首元に小さな端子を押し当てようとしていた。
神経系への干渉装置だ。
ヴィクターの人工筋肉が、一瞬だけ硬直した。
「くそっ……!」
男が装置を起動しようとした瞬間、ダニエルが床を蹴った。
拳銃はもう手元にない。
彼は近くに落ちていた金属製の工具を拾い、男の手首へ叩きつけた。
端子が床へ落ちる。
ヴィクターは自由になった腕で男の胸を突き飛ばした。
男が数歩よろめく。
ダニエルは追撃しなかった。
代わりに、カプセルへ視線を向けた。
《神経活動:低下中》
少年の状態が悪化している。
「リナ、カプセルを止めろ!」
「やってる! でも、外部から制御をロックされてる!」
「解除できないのか?」
「できるかどうかじゃない。解除すると、神経接続が一気に切れる可能性があるの!」
ダニエルは歯を食いしばった。
男がゆっくりと立ち上がる。
「その子を救いたいのなら、私を止めるな」
「……何?」
「今、私はこの子の神経活動を抑えている。接続が暴走すれば、施設全体のネットワークが巻き込まれる」
ヴィクターが男をにらんだ。
「だったら、最初からそう言え」
「信じると思うか?」
男はダニエルを見た。
「お前は、誰も信じられなくなったはずだ。母親にも、仲間にも、自分自身にも」
ダニエルは黙っていた。
男の言葉は、確かに一部の事実を突いていた。
だが、それで相手の言うことを信じる理由にはならない。
「お前が何者なのか、まだわからない」
ダニエルは一歩前に出た。
「でも、ひとつだけわかる。あの子を守ると言いながら、本人の意思を無視している」
「目覚めさせれば、取り返しのつかないことになるかもしれない」
「それでも、決めるのはあの子だ」
男はしばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「……エレナも、同じことを言った」
ダニエルの目が見開かれる。
「母さんを知っているのか?」
男は答えなかった。
その代わり、マスクの下から苦しそうな息が漏れた。
「私は、あの子を守れなかった」
初めて、その声から敵意が消えた。
「だから今度こそ、同じ過ちを繰り返すわけにはいかない」
ダニエルは、男の目を見ようとした。
その瞬間、カプセルの中から声がした。
「……もう、いいよ」
全員が振り返った。
少年が、薄く目を開けていた。
「お父さん」
男の手が震えた。
「お願いだから、もう誰も傷つけないで」
少年の目から、一筋の涙が流れた。
男は動かなかった。
銃を持つ手が、ゆっくりと下がっていく。
ダニエルは、その隙に男の武器を蹴り飛ばした。
ヴィクターが男の腕を押さえる。
今度は抵抗しなかった。
リナはカプセルの状態を確認し、安堵の息を吐いた。
「神経活動が安定してきた……。接続も暴走してない」
ダニエルは男の前に立った。
「マスクを外せ」
男は少しだけためらい、それから自分の顔を覆っていたものを外した。
現れたのは、深い皺の刻まれた顔だった。
白髪交じりの髪。
頬には、古い火傷の痕。
そして、その目は――
ダニエルが、かつて見たことのある人物の目だった。
「……そんな、はずはない」
ダニエルの声がかすれた。
男は彼を見つめた。
「久しぶりだな、ダニエル」
その声を聞いた瞬間、ダニエルの記憶が揺れた。
研究施設の廊下。
エレナと口論する男。
幼い自分の頭に手を置く、大きな手。
そして、扉の向こうへ消えていく背中。
「あなたは……」
ダニエルが言いかけたとき、男は静かに告げた。
「私は、君の父親を知っている」
ダニエルは息を呑んだ。
男は続けた。
「そして、君が第一被験者を置いて逃げた夜、何が起きたのかも知っている」
地下三階に、再び沈黙が落ちた。
カプセルの中で、少年は目を閉じた。
その顔には、ほんのわずかな安堵が浮かんでいた。
だが、ダニエルの胸には、新たな疑念が生まれていた。
この男は、少年の父親なのか。
それとも――
三年前の真実を知る、もう一人の証人なのか。




