第32話 最初の銃声
地下三階を離れてから、十分が経過していた。
ダニエルたちは、施設の地上出口へ続く通路を進んでいた。
古い蛍光灯が、一定の間隔で明滅している。
「さっきの記録、どう思う?」
リナが尋ねた。
「母さんの話か?」
「第一被験者が、私たちの記憶を呼び戻すきっかけになるって話。あの子が目覚めたら、私たちの失われた記憶も戻る可能性がある」
「戻らないほうがいい記憶もあるかもしれない」
「……そうね」
リナは、それ以上追及しなかった。
ダニエルも、彼女が何かを思い出しかけたことに気づいていた。
だが、今は聞かない。
無理に思い出させることが、彼女のためになるとは限らないからだ。
先頭を歩いていたヴィクターが、不意に足を止めた。
「二人とも、静かに」
声が変わった。
ダニエルはすぐに壁際へ寄り、通路の先を確認した。
奥の角に、黒い影がある。
人間ではない。
四本の脚で床を移動する、小型の警備機だった。古い型だが、頭部には新しい光学センサーが取り付けられている。
「廃棄された施設の警備機にしては、装備が新しいな」
ヴィクターが低くつぶやく。
リナは携帯端末を操作した。
「施設のネットワークにはつながってない。独立して動いてるみたい」
警備機のセンサーが、こちらを向いた。
赤い光が点灯する。
「見つかった!」
ヴィクターが叫ぶより早く、警備機の銃口が火を噴いた。
銃弾が壁を砕く。
ダニエルはリナの肩をつかみ、横の通路へ引き込んだ。
「伏せろ!」
二発目が頭上を通過する。
ヴィクターは壁の陰から飛び出し、警備機との距離を一気に詰めた。
人工筋肉が駆動する低い音。
彼は飛びかかってきた機体を腕で受け止め、そのまま床に叩きつけた。
金属がひしゃげる。
しかし、警備機は止まらなかった。
脚部の関節を逆方向へ折り曲げ、ヴィクターの腕にしがみつく。
「こいつ、しつこいな!」
警備機の側面から、小型の刃が飛び出した。
ヴィクターは腕をひねって攻撃をかわしたが、刃が戦闘服の袖を裂いた。
その隙に、ダニエルが動いた。
彼は腰のホルスターから拳銃を抜いた。
銃口を向けたのは、警備機の装甲ではない。
天井の配管だった。
一発。
二発。
銃弾が配管の固定具を砕く。
頭上の金属管が落下し、警備機の脚部を押さえ込んだ。
「ヴィクター、離れろ!」
ヴィクターが身を引く。
ダニエルは警備機のセンサーに狙いを定め、最後の一発を撃った。
赤い光が消える。
通路に静寂が戻った。
ヴィクターは自分の袖を確認した。
「最初から装甲を撃てばよかったんじゃないか?」
「撃って止まる保証がなかった。それに、弾を無駄にしたくない」
「なるほど。俺をおとりにしたわけか」
「そうは言ってない」
「顔に書いてあるぞ」
ヴィクターが鼻で笑った。
リナは二人を見比べ、ようやく緊張を解いた。
「くだらない言い争いはあとにして。問題はこいつよ」
彼女は警備機の残骸にしゃがみ込んだ。
側面の装甲を開くと、見慣れない通信装置が現れた。
「これ、施設の純正部品じゃない。外部から後付けされてる」
「誰かが、俺たちが来ることを知っていた?」
ダニエルは警備機の弾痕を見た。
撃ってきた方向は、三人が通る以外に選択肢のない通路だった。
偶然の待ち伏せではない。
少なくとも、何者かが侵入者を排除するために仕掛けていた。
リナは通信装置を端末に接続した。
数秒後、画面に短いログが表示される。
《防衛対象:地下三階》
《優先順位:第一被験者の保護》
《侵入者:排除》
ヴィクターの顔から笑みが消えた。
「俺たちを狙ったんじゃない。地下のあの子を守っていたのか?」
「そうみたいね」
リナは眉をひそめた。
「でも、変よ。施設の管理権限は失効したはずなのに、警備機は第一被験者を保護対象として認識している」
ダニエルは、先ほどのカプセルを思い出した。
あの少年は、自分の意思で覚醒を保留した。
そして、誰かが起こそうとすることも、止めようとしている。
「つまり、あの子が眠っていること自体が、誰かにとって都合がいいんだ」
「あるいは、目覚めたら困る人間がいる」
リナが立ち上がった。
「どちらにしても、急いでここを出ましょう。外部通信が生きているなら、私たちの位置も知られている可能性がある」
三人は歩き始めた。
今度は、ヴィクターが最後尾についた。
ダニエルは拳銃の残弾を確認した。
装填数は限られている。
予備弾倉も一つしかない。
派手な武器も、圧倒的な能力もない。
それでも、敵がどこにいて、何を守ろうとしているのかを考えれば、打つ手はある。
ダニエルはそう信じていた。
だが、出口まで残り数十メートルというところで、リナが足を止めた。
「……通信が入ってる」
彼女の端末に、着信表示が浮かんでいた。
発信元は、地下三階。
第一被験者のカプセルだった。
リナが応答すると、雑音の向こうから少年の声が聞こえた。
『ダニエル?』
「どうした?」
『誰かが来た』
ダニエルの表情が険しくなる。
「誰が?」
『わからない。でも、僕を起こそうとしてる』
直後、通信に別の音が混じった。
金属がこすれる音。
何かが開く音。
そして、少年の息を呑む声。
『……違う』
「何が違う?」
少年は震える声で答えた。
『この人、僕を起こしに来たんじゃない』
一瞬、沈黙が流れた。
『僕を、殺しに来たんだ』
通信が途切れた。
ダニエルはすぐに走り出した。
「おい、出口は反対だぞ!」
ヴィクターが叫ぶ。
「わかってる!」
「戻るのかよ!」
「助けを求めてる子どもを置いて帰れるか!」
ダニエルは振り返らなかった。
リナも端末を握りしめ、彼の後を追う。
「待って! 地下の構造を確認する。正面から戻ったら、さっきの警備機と同じ罠があるかもしれない!」
「別ルートは?」
「ある。保守用の階段が東側に!」
「案内してくれ!」
ヴィクターは小さく舌打ちすると、二人の前に出た。
「今度は俺が先頭だ。お前らは遅れるなよ」
三人は、来た道を引き返した。
そのころ、地下三階。
第一被験者のカプセルの前に、一人の男が立っていた。
黒い戦闘服。
顔を隠すマスク。
右手には、施設の制御装置に接続するための端末。
男はカプセルを見下ろし、静かに言った。
「ようやく見つけた」
カプセルの中で、少年が目を開けた。
男は続けた。
「悪いが、君にはまだ眠っていてもらう」
少年は、男の顔を見つめた。
そして、かすかにつぶやいた。
「……お父さん?」
男の手が止まった。
ほんの一瞬だけ。
だが、その反応を見逃す者は、そこにはいなかった。
少年は続けた。
「どうして、今まで迎えに来てくれなかったの?」
男は答えなかった。
代わりに、端末の操作を再開した。
カプセルの表示が切り替わる。
《覚醒プロセス:強制停止》
《神経活動:低下中》
少年は目を閉じかけた。
そのとき、施設全体に警報が鳴り響いた。
『侵入者を検知しました』
男は振り返った。
通路の向こうから、三人分の足音が迫ってくる。
男は端末を懐にしまった。
「……間に合わなかったか」
カプセルの中で、少年が最後の力を振り絞るように口を動かした。
「ダニエル……逃げて」
男の表情が、わずかに歪んだ。
そして、地下通路の照明が一斉に消えた。




