第31話 母が残した嘘
地下三階を出る前に、リナはひとつの異変に気づいた。
「待って。ここの端末、まだ動いてる」
停止したはずの記憶保存室。その壁面モニターに、小さなフォルダが表示されていた。
《ELENA CROSS》
《未送信メッセージ:1件》
「母さんの記録か……」
ダニエルが近づく。
リナはフォルダを開こうとしたが、アクセス拒否の表示が出た。
「管理者権限が必要ね。さっきの第一被験者の拒否で、旧管理者の権限は失効した。でも、このファイルだけは別の認証がかかってる」
「俺の認証か?」
「試してみる価値はある」
ダニエルが端末に手を触れる。
画面が一瞬暗くなり、次の瞬間、ファイルが開いた。
映し出されたのは、エレナ・クロスの映像だった。
顔色は悪く、疲れ切っている。けれど、その目はまっすぐカメラを見ていた。
『ダニエル。この記録を見ているなら、あなたはあの施設にたどり着いたのね』
ダニエルは画面を見つめた。
『まず、謝らせて。私はあなたに、ひとつ大きな嘘をついた』
映像のエレナは、一度だけ目を閉じた。
『第一被験者のことを、あなたが忘れたのは偶然ではない』
「……やっぱり」
リナが小さくつぶやく。
『でも、私があなたの記憶を消したわけでもない。少なくとも、すべてを消したのは私ではない』
ダニエルの表情が変わった。
『三年前、あなたの神経接続が崩壊しかけたとき、私はあなたの記憶を封じた。CODE Ωが、あなたの記憶を利用できないようにするために。でも、その時点ですでに、第一被験者に関する記録は、あなたの脳から消え始めていた』
「誰が消したんだ?」
ダニエルが画面に向かって問いかける。
当然、返事はない。
エレナは録画の中で続けた。
『私は、あの子を守るために記録を隠した。あなたたちを守るためでもあった。でも、守ることと、真実を隠すことは違う。そのことに、気づくのが遅すぎた』
映像が乱れた。
数秒後、エレナの表情が変わった。
先ほどまでの母親の顔ではない。
研究者としての、冷たい顔だった。
『第一被験者は、CODE Ωのために作られた子どもではない』
ヴィクターが顔を上げる。
「どういう意味だ?」
『あの子の神経構造は、既存の治療技術では説明できなかった。記憶を受け取るだけでなく、他人の脳が記憶を取り戻すきっかけを作る。私たちは、その現象を研究するために、あの子を施設に迎え入れた』
「自然に存在していた子どもを、研究対象にしたってことか」
ダニエルの声は低かった。
アランは黙ったまま、映像を見つめている。
『けれど、研究が進むにつれて、私たちは間違いを犯した。あの子の能力を再現しようとしたの。そこで生まれたのが、第六号だった』
リナが口を挟む。
「第一被験者の能力を模倣するために、人工人格を作った……」
『そう。第六号は、複数の人間の記憶を統合するために設計された。でも、記憶を集めることと、人間を理解することは同じではなかった』
映像のエレナは、苦しそうに息を吐いた。
『第六号は、やがて自分が何者なのかを知ろうとした。それ自体は間違いではない。問題は、私たちがその問いに答えられなかったこと』
ダニエルは、第六号の言葉を思い出した。
――僕は、なぜ生まれたんだ?
あの問いに、まともに答えられる人間はいるのだろうか。
『ダニエル。あなたに、もうひとつ伝えておくことがある』
エレナの目が、少しだけ潤んだ。
『あの子を置いていったのは、あなたの意思だった』
室内の空気が凍りついた。
「……何だって?」
ダニエルは画面に近づいた。
『誰かに命令されたからではない。あなた自身が、あの子を施設に残すことを選んだ』
「嘘だ」
声がかすれた。
「俺は迎えに来ると約束した。あの子を置き去りにするはずがない」
『あなたは、あの子を救うために、一度だけ戻ろうとした。でも、その時点で施設は封鎖されていた。あなたは、残れば二人とも捕まると判断した』
ダニエルの脳裏に、断片的な光景が浮かんだ。
赤い警告灯。
閉まりかけた隔壁。
小さな手を握る自分。
そして、向こう側から響く警報。
『あなたは、必ず迎えに来ると約束した。それは嘘ではなかった』
エレナは言葉を区切った。
『でも、あなたはそのあと、自分が生き延びるために逃げた。その判断が正しかったかどうか、私には決められない』
ダニエルは唇を噛んだ。
自分は被害者だと思っていた。
記憶を奪われ、他人に操られ、選択肢さえ与えられなかった人間だと。
けれど、すべてが誰かの仕組んだことだったわけではない。
自分自身で選んだこともあった。
たとえ、その選択が幼い自分にできる精いっぱいの判断だったとしても。
「……なんで、今まで黙っていたんだ」
『あなたに、自分を責めてほしくなかったから』
「それがまた、俺の代わりに決めることになるんだろ!」
ダニエルの拳が、端末の横の壁を叩いた。
リナは何も言わず、彼の隣に立った。
エレナの映像は、静かに続く。
『その通りね。私は最後まで、あなたを守るという理由で、あなたから真実を奪おうとした』
初めて、エレナは視線を落とした。
『ごめんなさい』
長い沈黙が流れた。
やがて、映像が切り替わった。
『最後に。第一被験者を目覚めさせるかどうかは、あなたが決めることではない』
ダニエルが顔を上げる。
『あの子自身が決めることよ。あなたにできるのは、選べる状況を取り戻してあげることだけ』
映像が終わった。
画面には、黒い文字が表示されていた。
《記録終了》
誰も、すぐには口を開かなかった。
最初に沈黙を破ったのはヴィクターだった。
「……お前は、どうする?」
ダニエルは答えるまでに時間をかけた。
「わからない」
それは、今までの彼なら口にしなかった言葉だった。
「助けたい。けど、助けるって理由で、あいつの人生をまた勝手に決めたくない」
リナがうなずく。
「なら、選べるようにすればいい。目覚めることも、眠り続けることも、あの子自身が決められるように」
「そのためには、施設のシステムを調べる必要がある」
ヴィクターが銃をしまった。
「だったら、さっさと始めよう。ここに長居するのは好きじゃない」
三人が端末の記録を保存しようとした、そのとき。
リナの端末に通信が入った。
発信元は、カイ。
音声だけの短い通信だった。
『……ダニエル、聞こえるか』
「カイ! 今どこにいる?」
返事まで、数秒の間があった。
『第六号と……つながってる』
声が途切れる。
『あいつが、お前たちの記録を見ている。第一被験者が目覚めたら、次に何が起きるのか……あいつ自身にも、わからないらしい』
「だったら、一緒に調べよう。お前も戻ってこい」
『簡単に言うなよ』
かすかな笑い声がした。
『でも、少しだけ……自分の声が戻ってきた』
ダニエルは目を閉じた。
「待ってる」
『ああ』
通信が切れた。
その直後、施設の全端末が一斉に点灯した。
画面に表示されたのは、たった一行。
《第一被験者より、全候補者への通知》
リナが息を呑む。
「この子が、何か送ってる……?」
新しい文字が浮かび上がった。
《僕は、まだ目覚めない》
そして、その下に続く。
《でも、ひとりには戻りたくない》
ダニエルは画面を見つめた。
それは命令でも、警告でもなかった。
誰かに助けを求める、ひとりの子どもの言葉だった。
ダニエルは端末に手を置いた。
「わかった」
誰に届くともわからない返事だった。
「今度は、ひとりにしない」
地下のカプセルは、静かに眠り続けていた。
その内部で、少年の指がほんの少しだけ動いた。




