第30話 帰ってきた約束
地下三階。
暗闇の奥で、カプセルがゆっくりと開き始めた。
白い蒸気が床を這う。
モニターには、赤い文字が点滅していた。
《第一被験者:覚醒準備》
《神経接続率:12%》
《生命活動:確認》
「……生きてるのか?」
ダニエルが一歩踏み出した。
「待って」
リナが腕をつかむ。
「まだ何が入っているのかもわからない。神経接続率が12%なら、起動途中かもしれない」
「だったら、止めればいい」
「そう簡単じゃないわ」
リナは端末に接続した。数秒後、顔色が変わる。
「駄目。停止命令が受け付けられない。しかも、これ……」
「何だ?」
「外部から起動されているんじゃない。カプセルの中から、システムに接続しようとしてる」
ヴィクターが銃を構えた。
「つまり、中の人間が自分で起きようとしている?」
「そういうこと」
アランは何も言わなかった。
ダニエルは、その横顔を見た。
「知っていたのか?」
「いや」
「本当か?」
「知らないと言った」
アランの声に、苛立ちが混じった。
「私がここを離れたあと、エレナが何をしたのか、すべて把握しているわけではない」
「母さんは、あの子を第一被験者と呼んだ」
「そうだな」
「なぜ、俺たちはあの子の存在を忘れた?」
アランは答えなかった。
その沈黙が、ダニエルには答えの一部に思えた。
カプセルの中から、小さな音がした。
コツ。
内側から、ガラスを叩いた音だった。
全員が振り返る。
もう一度。
コツ、コツ。
リナが息を呑んだ。
「……中にいる」
モニターの接続率が、急上昇する。
《神経接続率:24%》
《31%》
《43%》
「おい、上がり方がおかしいぞ!」
ヴィクターが端末を撃ち抜こうとした。
「待て!」
ダニエルが止めた。
「中の人間に何が起きているかわからない。今、システムを壊したらどうなるかもわからない」
「じゃあ、何もしないで見ていろって?」
「違う。俺が呼びかける」
ダニエルはカプセルの前に立った。
ガラス越しに見えるのは、小さな人影。
黒い髪。
青い瞳。
あの記録映像の少年と同じ顔だった。
ダニエルの胸の奥で、何かが軋んだ。
窓のない部屋。
二つに分けたパン。
泣きそうな顔で笑う少年。
――ダニエル、迎えに来てね。
「……聞こえるか?」
返事はない。
「俺はダニエル・クロスだ」
指先が震えた。
「お前のことを、全部は思い出せない。でも……お前と会ったことは思い出した」
カプセルの内側で、少年の指が動いた。
ダニエルはガラスに手を当てた。
「悪かった。迎えに来るって約束したのに」
その瞬間、接続率の上昇が止まった。
《神経接続率:43%》
《上昇停止》
リナが目を見開く。
「今の言葉に反応した……?」
ダニエルは構わず続けた。
「お前が誰なのか、どうしてここにいるのか、まだわからない。でも、もう勝手にいなくなったことにはしない」
カプセルの中で、少年の唇が動いた。
声は聞こえない。
けれど、ダニエルにはわかった。
――遅いよ。
あのときと同じ言葉だった。
ダニエルは苦笑した。
「そうだな。遅すぎた」
少年の目が、ゆっくりと開いた。
青い瞳が、まっすぐダニエルを捉える。
モニターが切り替わった。
《神経接続率:47%》
《覚醒プロセス:一時停止》
《被験者の意思による起動保留を確認》
「被験者の意思……?」
リナが画面を見つめる。
「システムが起こしているんじゃない。この子自身が、起きるかどうかを決めている」
ヴィクターは銃を下ろさなかった。
「十年以上もここにいた人間が、そんなことを……」
「時間の問題は、あとで考える」
ダニエルは少年から目を離さなかった。
「今は、こいつが何を望んでいるかだ」
そのとき、別の端末が起動した。
画面に表示されたのは、古い研究記録だった。
《第一被験者・初期観察記録》
《対象は通常の神経再生治療において、特異な反応を示した》
続く文章を読んだリナの顔から、血の気が引いた。
「これ……」
「何が書いてある?」
「第一被験者の神経活動は、他の被験者の活動を受信するだけじゃなかった。周囲の人間が失った記憶に反応して、その記憶を呼び戻す傾向があったみたい」
「記憶を呼び戻す?」
「正確には、本人が忘れている記憶の断片に接触するの。記憶そのものを作る能力じゃない。だから、思い出した内容が正しいかどうかは、別に検証しないといけない」
ダニエルは少年を見た。
自分が思い出した約束。
あれは、本当にあったことなのか。
それとも、少年の神経活動が自分の記憶に影響を与えたのか。
「……お前は、俺に何をした?」
問いかけると、少年はかすかに首を振った。
そして、ガラス越しに口を動かした。
今度は、リナにも読み取れた。
――何もしてない。
少年は続けて、ダニエルを指さした。
――君が忘れたんだ。
胸に突き刺さる言葉だった。
ダニエルは反論しなかった。
忘れた理由があったとしても、忘れた事実は変わらない。
そのとき、アランが端末の記録を閉じた。
「もう十分だ。これ以上、接続させるな」
リナが振り返る。
「何をするつもり?」
「この施設の電源を落とす。第一被験者が目覚めれば、何が起こるかわからない」
「それは理由にならない」
「お前たちには理解できない」
「理解できるように説明して」
リナの声は冷たかった。
「この子を隠したのは誰? エレナ? あなた? それともオルフェウス?」
アランは答えなかった。
代わりに、懐から小型の認証装置を取り出した。
ヴィクターが即座に銃口を向ける。
「動くな」
「撃ちたければ撃て。だが、その前に一つ教えておく」
アランは装置を端末にかざした。
画面に、認証結果が表示される。
《管理者権限:失効》
《旧管理者:アラン・クロス》
《失効理由:第一被験者による管理権限の拒否》
リナが息を止めた。
「……この子が、あなたの権限を無効にした?」
「そうだ」
アランは初めて、カプセルの少年を正面から見た。
「だから私は、あの子を起こしたくなかった」
「どうして?」
ダニエルが問う。
アランは目をそらさずに答えた。
「三年前、CODE Ωの暴走を止めるため、我々はシステムの中枢を切り離した。だが、切り離したはずの一部が、まだこの子の神経に残っていた」
「それが第六号か?」
「違う。第六号は、その後に作られた人格だ。第一被験者のデータを利用して、ほかの候補者の記憶を統合するために設計された」
ダニエルの脳裏に、カイの姿が浮かんだ。
自分の声になった第六号。
そして、時折戻ってくるカイ自身の意識。
「じゃあ、第六号は、この子の代わりに作られたのか?」
「代わりというより、解決策だ。第一被験者を目覚めさせずに、必要な機能だけを再現しようとした」
「それで失敗した」
「そうだ」
アランは苦々しくうなずいた。
「人格の統合はできなかった。だから第六号は、独立した意思を持つようになった」
「最初から、誰も完全には制御できていなかったんだな」
ダニエルが言うと、アランは否定しなかった。
そのとき、カプセルの中の少年が、再びガラスを叩いた。
コツ。
全員が振り返る。
少年はダニエルを見つめていた。
そして、ゆっくりと口を動かした。
――リナも、忘れたんだね。
リナの表情が凍りついた。
「……私を知っているの?」
少年は答えない。
ただ、その青い瞳がリナを見つめていた。
リナは一歩、カプセルに近づいた。
「あなたと会った記憶はない。少なくとも、私にはない」
少年は目を伏せた。
――そうだね。
その表情を見た瞬間、リナの脳裏に、見知らぬ光景がよぎった。
白い部屋。
小さな手。
自分より幼い誰かに向かって、泣きながら叫ぶ自分。
「……待って」
リナはこめかみを押さえた。
「今、何か……」
ダニエルが支えようとしたが、リナは手を上げて制した。
「大丈夫。まだ、はっきりしないだけ」
少年がガラスに手を当てる。
リナも、ためらいながら手を重ねた。
二人の手が、ガラス越しに重なる。
その瞬間、端末に一行の文字が浮かんだ。
《第二被験者:記憶照合開始》
「第二被験者……?」
ヴィクターが画面を見た。
「リナ、お前も被験者だったのか?」
「知らない!」
リナは即座に答えた。
その声には、怒りと恐怖が混じっていた。
「私は、誰かに決められた役割で生きるつもりはない。記録に何が書いてあろうと、私の記憶を勝手に事実にしないで」
端末の文字が点滅する。
《照合中止》
《第二被験者の拒否を確認》
画面が暗くなった。
少年は、かすかに笑った。
――うん。それでいい。
リナは手を離した。
「……あなた、何者なの?」
少年は答えなかった。
代わりに、ダニエルを見た。
そして、今度ははっきりと声を発した。
「迎えに来てくれて、ありがとう」
カプセルの中に、少年の声が響いた。
ダニエルは何も言えなかった。
少年は目を閉じる。
モニターには、最後の表示が現れた。
《覚醒プロセス:本人の意思により保留》
《次回起動条件:第一被験者による選択》
やがて、施設の非常灯が赤から白へ変わった。
地下に響いていた低い振動も止まる。
ヴィクターは銃を下ろした。
「……今日は、これ以上は何も起きないらしいな」
「いや」
ダニエルはカプセルを見つめたまま言った。
「ようやく、始まったんだ」
彼は少年との約束を思い出そうとした。
けれど、そこから先の記憶は、まだ戻らない。
なぜ自分は少年を置いていったのか。
誰が記憶を封じたのか。
そして、母はなぜ、この子を第一被験者と呼んだのか。
答えは、まだない。
それでも一つだけ、ダニエルには決めたことがあった。
今度は、誰かに選択を奪わせない。
たとえ相手が、自分自身の過去であっても。
***
同じ頃。
地上から遠く離れた、オルフェウスの旧管制室。
誰もいないはずの部屋で、一台の端末が起動した。
画面に映ったのは、赤い瞳の男。
No.0。
彼は地下施設の映像を見つめていた。
カプセルの中で眠る少年。
その前に立つダニエル。
No.0は、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
「……起こすなよ、ダニエル」
画面の隅に、新しい通信が届く。
《第一被験者の覚醒保留を確認》
《計画の再開には、管理者の承認が必要です》
No.0は、しばらく黙っていた。
やがて、画面に手を伸ばす。
しかし、承認ボタンを押すことはなかった。
代わりに、彼は通信を削除した。
「今度こそ、あいつ自身に決めさせる」
No.0は立ち上がり、暗闇の中へ歩き出した。
その背後で、もう一つの端末が点灯する。
表示されたのは、削除されたはずの通信だった。
《管理者承認:拒否》
《拒否者:No.0》
そして、その下に新しい一文が現れた。
《拒否を受理しました》
誰かが、No.0の選択を認めていた。
それが誰なのか、No.0自身にもわからなかった。




