第29話「六人目の子ども」
「……お母さん?」
地下三階へ続く扉の向こうから、幼い声が聞こえた。
ダニエルは、銃を構えたまま動けなかった。
その声を知っている。
いや、知っているはずがない。
三年前の記憶を取り戻しても、あの声の持ち主だけは思い出せなかった。
「アラン。あれは誰だ?」
「自分の目で確かめろ」
「質問に答えろ」
ダニエルが銃口を向けると、アランは両手をゆっくりと上げた。
「私を撃つのは構わない。だが、その前に考えろ。お前が本当に知りたいのは、私の罪か? それとも、お前自身が何をしたのか、だろう?」
ヴィクターがアランの背後へ回った。
「妙な動きをしたら撃つ」
「三年前から変わらないな、ヴィクター」
「俺を知ったような口で呼ぶな」
「君の父親から、何度も話を聞いている」
「黙れ」
ヴィクターの声に怒りが混じった。
アランは、それ以上何も言わなかった。
ダニエルは扉の向こうを見つめた。
「行こう」
リナが彼の隣に立つ。
「私も行く」
「危険かもしれない」
「だから何?」
リナは彼を見た。
「また私を置いていくつもり?」
ダニエルは苦笑した。
「……わかった。一緒に行こう」
三人は、地下三階へ足を踏み入れた。
*
階段の先には、奇妙な部屋があった。
中央に置かれたのは、一台の小さなベッド。
周囲には、使われていない医療機器が並んでいる。
壁には子どもの身長を測った跡が残っていた。
その横に、鉛筆で書かれた名前がある。
ダニエル。
リナ。
ヴィクター。
カイ。
そして、最後の一つ。
名前はなかった。
代わりに、数字が書かれていた。
6
「ここは……子どものための施設だったの?」
リナがつぶやいた。
アランは部屋の奥にある端末を操作した。
古い映像が再生される。
白衣を着たエレナが、幼いダニエルの手を引いて歩いていた。
その後ろには、四人の子どもたちがいる。
リナ、ヴィクター、カイ。
そして、顔の見えないもう一人。
「この映像は、事故の数年前に撮影されたものだ」
アランが説明した。
「五人の候補者は、当初からCODE Ωの実験対象だったわけではない。神経損傷を治療するための研究で、彼らは互いの脳波に特異な反応を示した」
「特異な反応?」
ダニエルが尋ねた。
「一人の神経活動が変化すると、離れた場所にいる別の子どもの脳波にも変化が現れた。偶然にしては、あまりにも再現性が高かった」
リナが映像を見つめる。
「それを利用して、神経ネットワークを作ったのね」
「そうだ。だが、研究者たちは一つの問題を見落としていた」
「何を?」
「情報を共有することと、人格を共有することは違う。彼らの神経活動をつなげれば、互いに理解し合えると考えた。しかし、実際には別々の人格が、互いの感情や記憶に干渉し始めた」
ダニエルは、壁の数字を見た。
「それで、六人目が必要になったのか?」
アランは、すぐには答えなかった。
「六人目は、最初から子どもとして存在していたわけではない」
「どういうことだ?」
「五人のデータを統合するために作られた人工人格。それが、当初の第六号だった」
「なら、さっき聞こえた声は何だ?」
アランはベッドの方を見た。
「そこが問題なんだ」
その瞬間、ベッドの脇にある小さな端末が点灯した。
画面には、一人の少年が映し出された。
年齢は十歳ほど。
黒い髪。
青い瞳。
どこか、ダニエルに似た顔立ちだった。
少年は画面越しに、ダニエルを見つめた。
「……ダニエル?」
ダニエルは息を止めた。
その声は、記憶の中に残っていた。
三年前。
研究室の奥で、誰かが自分を呼んでいた。
何度も。
何度も。
しかし、顔だけが思い出せなかった。
「お前は……誰なんだ?」
少年は悲しそうに笑った。
「ひどいな。僕のこと、忘れちゃったの?」
その言葉に、ダニエルの頭が激しく痛んだ。
断片的な映像がよみがえる。
窓のない部屋。
二人で分けたパン。
夜中に交わした約束。
そして、閉まる扉。
『ダニエル、迎えに来てね』
幼い自分が、誰かに向かって叫んでいる。
『絶対に迎えに行くから!』
ダニエルは、よろめきながら壁に手をついた。
「……そんなはずはない」
リナが彼の肩を支える。
「ダニエル、どうしたの?」
「俺は……こいつを知っている」
少年は画面に手を伸ばした。
「やっと思い出してくれたんだね」
アランが端末を見つめた。
その顔には、初めて動揺が浮かんでいた。
「あり得ない……」
「何がだ?」
ヴィクターが銃口を向ける。
アランは答えなかった。
少年が口を開いた。
「ねえ、ダニエル。僕は、ずっと待っていたんだよ」
画面が一瞬乱れる。
《第六号:独立人格を確認》
《保存記録との不一致を検出》
《警告:人格情報の出所を特定できません》
リナが端末を操作した。
「待って。この映像、さっきの第六号とは別の信号よ」
「別の信号?」
「ええ。中央制御室で起動した第六号は、候補者たちの記憶を取り込んで生まれた人格。でも、この少年の記録は、それより古い」
彼女は画面を見つめた。
「少なくとも、三年前の事故より前から存在していたみたい」
ダニエルは少年に向き直った。
「お前が、本当の六人目なのか?」
少年は首を横に振った。
「わからない」
「わからない?」
「僕は、自分が誰なのかも、どうしてここにいるのかも、よく覚えていないんだ」
少年は目を伏せた。
「でも、ダニエル。ひとつだけ覚えていることがある」
「何だ?」
「僕をここに残したのは……」
突然、映像が停止した。
画面に赤い警告が走る。
《外部からの強制停止命令》
《記録消去まで残り10秒》
「誰かがデータを消そうとしてる!」
リナがキーボードを叩いた。
「止められない……管理者権限が拒否されている!」
ダニエルは端末に駆け寄った。
「おい! まだ話は終わってない!」
少年の映像が、ゆっくりと消えていく。
最後に、彼はダニエルを見つめた。
「ダニエル……」
その瞳から、一筋の涙が流れた。
「今度は、僕を忘れないで」
画面が暗転した。
部屋に静寂が戻る。
ダニエルは、拳を握りしめていた。
少年が誰なのか、まだわからない。
だが、ひとつだけ確かなことがあった。
自分は三年前、誰かを救うと約束した。
そして、その約束を忘れてしまった。
「……アラン」
ダニエルは振り返った。
「今の少年は何者だ?」
アランは長い沈黙のあと、答えた。
「私にもわからない」
「嘘をつくな」
「嘘ではない。あの記録は、私が研究施設を離れたあとに作られている」
「誰が作った?」
アランは、壁に刻まれた数字を見た。
6。
「……エレナだ」
その瞬間、リナの端末が震えた。
消去されたはずの記録の一部が、復元されていた。
そこには、エレナが残した音声ファイルが一つだけあった。
再生すると、彼女の声が響いた。
『もし、この記録をダニエルが聞いているなら……私は、あの子を守れなかったということね』
短い沈黙。
『あの子は、第六号ではない』
ダニエルの顔から血の気が引いた。
『あの子こそが、最初の被験者だったの』
音声はそこで途切れた。
リナが小さくつぶやく。
「最初の……被験者?」
ダニエルは、空になったベッドを見つめた。
そこに誰が眠っていたのか。
なぜ自分は、その存在を忘れてしまったのか。
そして、なぜエレナは、彼を第六号と区別していたのか。
答えはまだ、闇の中にある。
だが、ダニエルはもう一つのことにも気づいていた。
少年が消える直前、彼は「今度は」と言った。
つまり、過去にも一度、ダニエルは彼を忘れている。
そして今度もまた、誰かがその記憶を消そうとしている。
ダニエルは端末を握りしめた。
「もう二度と、忘れない」
その言葉に応えるように、暗い部屋の奥で、使われていないはずのカプセルが静かに動き始めた。
内部のモニターに、文字が浮かび上がる。
《第一被験者:覚醒準備》




