第28話「母からの警告」
《エレナ・クロスより――ダニエル、今度こそ私を信じないで》
そのメッセージを見た瞬間、ダニエルは足を止めた。
「今度こそ……?」
リナが画面を拡大する。
「送信元を調べてみる。少し待って」
彼女の指が走る。
暗号化された通信経路を一つずつたどり、送信元を特定しようとする。しかし、追跡を始めて数秒後、画面にエラーが表示された。
「おかしい。通信が古すぎる」
「古い?」
「メッセージ自体は今届いた。でも、使われている暗号鍵は三年前に失効したものよ」
ヴィクターが眉をひそめた。
「三年前に送られたメッセージが、今になって届いたってことか?」
「その可能性はある。でも、誰かが当時の鍵を使って、今作ったメッセージを送った可能性もある」
ダニエルは画面を見つめた。
母親の名前が使われている。
しかし、本当にエレナが送ったものなのかはわからない。
「……どっちにしても、確かめるしかないな」
「ダニエル」
リナが呼び止めた。
「もし、これが罠だったら?」
「罠なら、仕掛けた相手を見つける」
「簡単に言わないで」
リナの声が少し強くなった。
「あなたは、記憶を取り戻してから、何でも一人で解決しようとしてる」
ダニエルは言葉に詰まった。
「そんなつもりは……」
「わかってる。でも、あなたが何かを隠していると、私はまた何も知らないまま置いていかれる」
彼女は視線を落とした。
「それが、嫌なの」
しばらく沈黙が続いた。
やがてダニエルは、彼女の前に立った。
「わかった。これからは、わかったことを共有する。俺が覚えていることも、覚えていないことも」
「約束よ」
「ああ」
その約束が、二人にとってどれほど重いものなのか。
まだ、ダニエル自身も理解していなかった。
*
出発から四十分後。
三人を乗せた車は、山間部の旧医療研究施設へ続く道を走っていた。
運転席のヴィクターは、何度もバックミラーを確認している。
「尾行は?」
リナが尋ねた。
「今のところ見当たらない。ただ、さっきから通信にノイズが入っている」
「第六号の影響?」
「わからない。だが、あいつが世界中のネットワークに触れられるなら、車のシステムも安全とは限らない」
ヴィクターは速度を落とした。
「ここからは手動で運転する」
ダニエルは窓の外を見た。
山道の先に、古びた建物の影が見え始めている。
その景色を見た瞬間、頭の奥が痛んだ。
白い壁。
赤い非常灯。
誰かの叫び声。
そして、幼い自分が走っている映像。
「……ここに来たことがある」
「思い出したの?」
リナが身を乗り出した。
「いや、はっきりとは。でも、何かを知っている気がする」
ダニエルはこめかみを押さえた。
「俺は、ここで何かを見たんだ」
そのとき、車載端末が勝手に起動した。
画面に、一枚の写真が表示される。
エレナ・クロス。
白衣を着た彼女が、研究施設の入口に立っている。
写真の隅には、日付が記録されていた。
三年前の事故当日。
リナが息をのむ。
「これ、施設の記録映像から抜き出された写真じゃない。今、直接送られてきたものよ」
画面に文字が浮かんだ。
《地下三階へ》
その下に、もう一行。
《一人では来ないで》
ダニエルはリナとヴィクターを見た。
「母さんは、俺たちが来ることを知っているのか?」
「あるいは、誰かが知っていると思わせたいだけかもしれない」
ヴィクターが答えた。
「どちらにしても、警戒を怠るな」
車は施設の前で停止した。
建物の正面には、錆びついた看板が残っていた。
国立神経再生研究所・第七分室。
入口の電子ロックは壊れていた。
だが、扉の内側には新しい足跡が残っている。
「誰かが最近ここに入ったな」
ヴィクターが銃を構えた。
三人は慎重に内部へ進んだ。
廊下の照明は消えている。
非常灯だけが、赤い光で床を照らしていた。
壁には、何かを引きずったような跡が続いている。
リナが床にしゃがみ込んだ。
「血じゃない。薬品か何かね」
「何のための施設だったんだ?」
ダニエルが尋ねる。
「表向きは、損傷した神経を再生するための研究所。でも、三年前の記録を見る限り、ここでは記憶情報を別の神経構造に移す実験も行われていた」
「CODE Ωの前身か」
「たぶんね」
エレベーターは動かなかった。
三人は非常階段を使い、地下へ降りていく。
地下二階を通過したところで、ヴィクターが突然立ち止まった。
「待て」
彼は壁に耳を近づけた。
奥から、かすかな音が聞こえる。
機械音ではない。
規則正しい、呼吸の音だった。
「誰かいる」
ヴィクターが先頭に立ち、音のする部屋へ近づいた。
ドアには、手書きの文字が残されていた。
《記憶保存室》
リナがロックを解除する。
扉が開いた。
室内には、大小さまざまなカプセルが並んでいた。
そのほとんどは空だった。
だが、部屋の奥にある一つだけは、透明な液体で満たされている。
中には、人間の脳組織に似た構造体が浮かんでいた。
無数の細いケーブルが接続され、中央の端末には名前が表示されている。
《ELENA CROSS》
ダニエルは、息を止めた。
「……母さん?」
リナが端末を調べる。
「生体反応はない。でも、神経活動の記録が残っている」
「それは、母さんの記憶なのか?」
「わからない。保存された情報が本人の意識を再現できるとは限らないから」
ダニエルはカプセルに近づいた。
その瞬間、室内の照明が点灯した。
端末が自動的に起動する。
《第一号を確認》
《本人認証を開始》
「下がれ!」
ヴィクターが叫んだ。
だが、ダニエルは動かなかった。
端末の画面に、エレナの顔が映し出されたからだ。
生前の映像なのか、保存された人格の再現なのか。
その区別はつかなかった。
ただ、彼女の目は、まっすぐダニエルを見つめていた。
『ダニエル』
声を聞いた瞬間、ダニエルの喉が詰まった。
三年間、夢の中で何度も探した声だった。
『大きくなったわね』
「母さん……本当に、母さんなのか?」
映像のエレナは、悲しそうに微笑んだ。
『その質問に、私は答えられない』
ダニエルの表情がこわばる。
『あなたが覚えている私と、ここに残っている私が、同じ存在なのか。それを証明する方法はないの』
「じゃあ、あなたは何なんだ?」
『あなたの母親が残した記憶。そして、最後に伝えたかった言葉よ』
映像が一瞬乱れた。
『ダニエル。あなたがここへ来たのなら、あの子も目覚めたのでしょう』
「あの子?」
『第六号よ』
リナが端末に近づいた。
「あなたは、第六号が何なのか知っているの?」
エレナの映像は、リナを見た。
その瞬間、彼女の表情が変わった。
『……リナ』
リナの顔から血の気が引いた。
「どうして、私の名前を……?」
『ごめんなさい』
エレナは目を閉じた。
『あなたにだけは、知られたくなかった』
ダニエルが一歩前に出る。
「何を隠していたんだ、母さん!」
エレナは、ゆっくりと目を開けた。
『第六号を作ったのは、私ではない』
三人が息をのんだ。
『そして、あなたたち五人も……最初から五人だったわけではない』
「どういう意味だ?」
ダニエルが問い詰める。
だが、エレナの映像が激しく乱れた。
《外部接続を検知》
《保存データへのアクセスを確認》
リナが端末を操作する。
「誰かが、この保存室に侵入している!」
画面に警告が走る。
エレナの声が途切れ途切れに響いた。
『ダニエル……お願い……第六号を……』
映像が消えかける。
『殺さないで……』
その瞬間、施設全体が揺れた。
天井から粉塵が落ちる。
ヴィクターが銃を構え、入口へ振り返った。
廊下の向こうに、人影が立っていた。
黒い服。
銀色の瞳。
アラン・クロスだった。
「ここまで来たか」
彼は、ダニエルたちを見渡した。
「エレナの記録を見たなら、もう隠す必要はないな」
ダニエルは銃を構えた。
「母さんの記憶を奪ったのは、お前か?」
アランは答えなかった。
代わりに、彼はリナを見つめた。
「リナ。君は、まだ自分が誰なのか知らない」
「知る必要があるなら、あなたの口から聞くわ」
アランは静かに首を振った。
「いや。君が知るべきなのは、私が何をしたかではない」
彼の背後で、地下三階へ続く扉が開いた。
その奥から、子どもの声が聞こえた。
「……お母さん?」
ダニエルの身体が硬直した。
聞き覚えのある声だった。
忘れたはずなのに、忘れられない声。
三年前の研究施設で、自分が最後に聞いた声。
そして、エレナの映像が消える直前に、彼女が呼ぼうとした名前。
アランが告げた。
「さあ、会いに行こう。君たちが本当に忘れてしまった、六人目に」




