第19話 三年前の真実
「記憶返還プロトコル――開始」
無機質な機械音が、隔離室に響いた。
ダニエルの視界が揺れる。
頭の奥で、何かが砕けた。
「ぐっ……ああああっ!」
膝が床に落ちる。こめかみを押さえた指の隙間から、冷たい汗が流れた。
白い部屋。
赤い警告灯。
拘束台に横たわる自分。
そして、目の前に立つ一人の女性。
エレナ・クロス。
三年前に死んだはずの母親だった。
『ダニエル、聞いて』
記憶の中の彼女は、泣いていた。
『これからあなたの記憶を封印する。何があっても、私を恨まないで』
『嫌だ……! 母さん、やめろ!』
幼い少年のように叫ぶ自分。
しかし、当時のダニエルは十九歳だった。
恐怖で泣いていたのではない。
母親が何をしようとしているのか、理解していたからだ。
彼女は、自分の記憶を消そうとしている。
そして、それを実行すれば――二度と元には戻れない。
『CODE Ωが完成すれば、人間は自分の意思で未来を選べなくなる』
エレナはダニエルの頬に手を添えた。
『あなたの中にある最後の認証鍵。それだけは、誰にも渡してはいけない』
『だったら、俺が壊す! こんなもの、全部壊してやる!』
『駄目よ』
エレナの目に、決意が浮かんだ。
『あなたが死ねば、システムは別の人間を選ぶ。CODE Ωを止めるには、あなたが生きなければならない』
その直後、研究室の扉が吹き飛んだ。
煙の向こうから、銃を構えたヴィクターが現れた。
『ダニエル! 立て! ここから脱出するぞ!』
だが、彼の背後には、もう一人の少年がいた。
赤い瞳。
ダニエルと同じ顔。
第零号。
『遅かったね、ダニエル』
少年は笑っていた。
『もうすぐ、世界が僕たちを一つにする』
『何を言ってる……?』
『CODE Ωは、二人の脳を使って完成するんだよ』
第零号は自分の胸に手を当てた。
『君が選択する力を持つなら、僕はその選択を実行させる力を持っている。君が迷えば、僕が決める。君が拒めば、僕が従わせる』
『ふざけるな!』
ダニエルは拘束具を引きちぎろうとした。
その瞬間、警報が鳴り響いた。
『神経制御プログラム、異常反応』
『第一号、制御不能』
『第零号との同期率、九十九・九パーセント』
ヴィクターがダニエルへ駆け寄った。
『おい、俺が時間を稼ぐ! お前は母親を連れて逃げろ!』
しかし、エレナは首を横に振った。
『ヴィクター、お願い。あの子を止めて』
『……何を言っている?』
『ダニエルが自分の意思を失う前に』
彼女は一瞬だけ、ダニエルを見つめた。
『この子を、殺さないで』
その言葉が、ダニエルの胸に突き刺さった。
次の瞬間、第零号が腕を上げた。
研究室の機械が一斉に起動する。
天井から伸びた制御アームがヴィクターを拘束し、警備用ドローンが銃口を向けた。
『第三号、戦闘制御権限を取得』
ヴィクターの身体が不自然に硬直した。
彼の人工筋肉が、本人の意思に反して動き始めたのだ。
『くっ……身体が……!』
ダニエルは叫んだ。
『ヴィクター!』
『来るな!』
ヴィクターは自分の腕を押さえながら、必死に抵抗していた。
『俺ごと撃て! 今すぐだ!』
その声を聞いた瞬間、ダニエルの視界が赤く染まった。
『戦闘制御権限――第一号へ移行』
『第一制限、解除』
世界が止まった。
飛んでくる銃弾の軌道。
ドローンの照準。
ヴィクターの筋肉を制御する信号。
すべてが、ダニエルには見えていた。
いや、見えていたのではない。
理解していた。
どうすれば壊せるのか。
どこを撃てば止まるのか。
誰を倒せば、すべてが終わるのか。
答えが、頭の中に流れ込んでくる。
ダニエルは床に落ちていた拳銃を拾った。
そして、第零号へ向けた。
『ダニエル……!』
エレナの声がした。
だが、彼の指は引き金にかかっていた。
『君は、僕を殺せない』
第零号が静かに言った。
『だって、僕たちは同じなんだから』
『違う……』
『なら、証明してみろよ』
銃声が響いた。
第零号の身体が倒れた。
同時に、施設全体の照明が消えた。
システム音声が告げる。
『第零号、生体反応消失』
『第一号、最終認証鍵を確認』
『CODE Ω――最終段階への移行条件を満たしました』
ダニエルは銃を落とした。
自分が何をしたのか、理解できなかった。
ただ、床に倒れた少年の顔を見ていた。
自分と同じ顔をした、もう一人の自分を。
そして――母親の叫び声が聞こえた。
『ダニエル! 駄目! まだ完成していない!』
エレナは制御端末へ駆け寄った。
『記憶封印プロトコルを起動! 第一号の認証鍵を凍結して!』
『警告。実行した場合、対象者の記憶領域が不可逆的に損傷する可能性があります』
『構わない!』
『対象者の生存率が低下します』
『それでも、この子を兵器にはさせない!』
彼女は最後のキーを押した。
ダニエルの意識が、暗闇へ沈んでいく。
その直前。
彼は母親の口元が動くのを見た。
『ごめんね……』
そして、彼女はこう言った。
『あなたは、あなたの意思で生きて』
記憶が途切れた。
***
「――っ!」
ダニエルが目を開いた。
隔離室の床に片手をつき、荒い呼吸を繰り返す。
リナが駆け寄ろうとしたが、アレクサンダーが手を上げて制した。
「まだ近づくな。神経系が不安定になっている」
「黙れ!」
ダニエルは顔を上げた。
瞳の奥に、赤い光が揺れている。
「お前たちは……俺に何をさせた?」
「正確には、何もさせていない」
アレクサンダーは平然と答えた。
「お前自身が選んだ。第零号を撃ったのも、CODE Ωの認証条件を満たしたのもな」
「違う……!」
「本当にそうか?」
アレクサンダーが端末を操作した。
壁面モニターに、三年前の映像が映し出される。
銃を構えるダニエル。
倒れる第零号。
そして、認証完了を示すシステム表示。
映像には、確かにそう記録されていた。
「この映像は編集できる」
リナが即座に言った。
「認証ログだって改ざんできる。こんなもの、証拠にはならない!」
「その通りだ」
アレクサンダーは意外にも、あっさり認めた。
「だから、私は別のものを見せよう」
画面が切り替わった。
そこには、血まみれの床に座り込むヴィクターが映っていた。
三年前の映像だ。
彼は拘束されたダニエルを見つめ、銃を構えていた。
だが、引き金を引かなかった。
代わりに、ヴィクターは自分の腕にナイフを突き立てた。
人工筋肉の制御線を切断するためだった。
「……あのとき、俺は」
ヴィクターの顔から血の気が引いた。
「お前を殺す命令を受けていた」
ダニエルは黙って彼を見た。
「だが、俺は命令に従わなかった。お前を逃がすために、システムの制御を自分で壊した」
「じゃあ、なぜ俺の記憶を消すのを止めなかった?」
「止められなかった」
ヴィクターは拳を握った。
「お前の母親が、自分の命を引き換えにしてでも実行しようとしていたからだ。彼女は言った。お前が記憶を取り戻せば、再びCODE Ωが動き出すと」
「母さんは……本当に死んだのか?」
誰も答えなかった。
アレクサンダーが静かに口を開いた。
「肉体の生体活動は、三年前に停止している。だが、彼女の神経構造と記憶情報は保存された」
「つまり、意識を複製したのか?」
リナが問い詰める。
「その可能性はある。だが、複製された記憶が本人と同じ意識なのか、それとも本人を模倣する別の存在なのか――科学的にも、まだ結論は出ていない」
「そんなものを……生きているとは言わない」
ダニエルの声が震えた。
「そうだな」
アレクサンダーは否定しなかった。
「だからこそ、確かめる必要がある。CODE Ωの完成には、エレナ・クロスの最終認証が必要だ」
そのとき。
隔離室の照明が、一斉に赤く変わった。
『警告。外部接続を検出』
『最終認証鍵への不正アクセス』
『接続元――不明』
アレクサンダーの表情が初めて変わった。
「馬鹿な……誰が接続している?」
モニターに、文字が浮かび上がる。
ELENA CROSS
認証状態――生存
接続先――第一号、ダニエル
ダニエルの頭の中で、母親の声が響いた。
『ダニエル。もし、この声が聞こえているなら……』
彼は息をのんだ。
『お願い。私を信じないで』
直後、施設全体の電源が落ちた。
暗闇の中で、隔離室の扉がゆっくりと開く。
廊下の向こうに、一人の女性が立っていた。
白い服。
黒い髪。
そして、ダニエルが三年間、夢の中で探し続けた顔。
「……母さん?」
女性は、涙を浮かべて微笑んだ。
「久しぶりね、ダニエル」
だが、彼女の足元には血が流れていた。
そして、その手には――ヴィクターの銃が握られていた。
「ごめんなさい」
女性は銃口をダニエルへ向けた。
「あなたを、もう一度殺さなければならないの」




