第18話 母体認証
『オリジナルの覚醒まで、残り六時間』
ダニエルは、端末に表示された文字を凝視していた。
母体認証。
オリジナル。
そして、エレナ・クロス。
意味を理解しようとするほど、疑問が増えていく。
「リナ。母体認証って、何だと思う?」
運転席のリナは、道路から目を離さずに答えた。
「生体認証の一種だと思う。でも、普通の生体認証なら、母体なんて言葉は使わない」
「じゃあ、何を認証している?」
「遺伝情報か、神経構造……あるいは、その両方」
後部座席からヴィクターが口を挟んだ。
「CODE Ωが人間の神経回路を利用するシステムなら、特定の遺伝的特徴を持つ人間が必要なのかもしれない」
「それが母さんだっていうのか?」
「可能性はある」
ヴィクターは言葉を切った。
「だが、俺たちはまだ何も知らない。エレナが生きているという写真も、昨日撮影されたという情報も、偽装できる」
「……分かってる」
ダニエルは窓の外を見た。
暗い山道。
街灯は少なく、車のヘッドライトだけが道路を照らしている。
三年前、母親は死んだ。
その事実だけは、何度も聞かされてきた。
だが、自分の記憶すら信用できない今、何を信じればいいのか。
「ダニエル」
リナが声をかけた。
「もし、本当にあなたのお母さんが生きていたら、どうする?」
「会う」
答えはすぐに出た。
「真実を聞く。俺が何者なのか。第零号に何をしたのか。CODE Ωが何なのか。全部だ」
「もし、彼女が黒幕だったとしても?」
ダニエルはしばらく黙っていた。
「それでも会う。俺自身の目で確かめる」
リナは何も言わなかった。
ただ、アクセルを踏み込んだ。
*
午前二時四十分。
第七研究施設。
山の斜面に埋め込まれた巨大な建造物は、遠くから見ると岩壁の一部にしか見えなかった。
周囲には監視塔が四基。
地上の出入口には装甲車が停まり、武装兵士が巡回している。
「厳重だな」
ダニエルが双眼鏡を下ろした。
「正面から入るのは無理だ」
ヴィクターが答える。
「兵士の装備は連邦軍の現行型だ。だが、所属章がない。正規軍ではないな」
リナが端末に施設の画像を表示した。
「通信は施設内の独立ネットワークに限定されてる。外部から侵入できないようにしているみたい」
「地下の搬入口は?」
「西側にある。だけど、そこも監視されているわ」
ダニエルは地形を見つめた。
山の斜面。
排水溝。
施設を囲むフェンス。
そして、巡回する兵士の移動経路。
「……待てよ」
ダニエルは双眼鏡を再び構えた。
「警備が、十五分ごとに同じ場所で止まっている」
ヴィクターが確認する。
「交代の確認か?」
「いや。全員が同じ方向を向いている。まるで、何かの信号を待っているみたいだ」
リナが通信波形を調べた。
数秒後、彼女の目が見開かれた。
「これ……施設の地下から微弱な電磁信号が出ている」
「何の信号だ?」
「分からない。でも、警備兵の装備と同期している。巡回のタイミングも、これに合わせている可能性がある」
ダニエルは施設を見つめた。
「つまり、警備そのものがシステムで制御されているのか」
「そう考えるのが自然ね」
ヴィクターが銃の安全装置を確認した。
「なら、信号が途切れた瞬間を狙う」
リナは端末を操作した。
「五秒だけなら、信号を乱せるかもしれない」
「五秒で十分だ」
ダニエルはフェンスへ向かった。
*
午前三時。
リナが信号を妨害した瞬間、施設の照明が一斉に明滅した。
「今!」
ヴィクターがフェンスを越え、ダニエルが続く。
二人は監視カメラの死角を通り、地下搬入口へ走った。
しかし、扉の前に着いた瞬間、警報が鳴り響いた。
『侵入者を確認』
「五秒もたなかったじゃないか!」
ダニエルが叫ぶ。
「想定外よ! この施設、外部の信号が乱れると自動的に警備レベルが上がる!」
「先に言え!」
「私だって今分かったの!」
搬入口の扉が開いた。
中から、四人の武装兵士が現れる。
ヴィクターが先頭の兵士の銃を弾き、腕を取って床へ倒した。
ダニエルは壁際へ飛び込み、銃撃を避ける。
銃を抜く暇はない。
兵士の突進を横へかわし、伸びてきた腕をつかんでバランスを崩す。
相手が倒れる。
その瞬間、別の兵士が銃口を向けた。
ダニエルは床に転がっていた金属製の工具箱を蹴り上げた。
銃弾が工具箱に当たり、火花が散る。
その隙に、ヴィクターが兵士を無力化した。
残る二人が後退する。
「逃がすな!」
ヴィクターが追おうとした瞬間、兵士たちの耳元の装置が赤く光った。
二人は動きを止めた。
そして、同時に銃を自分のこめかみに向けた。
「伏せろ!」
ダニエルが叫んだ。
銃声が二発。
二人は床に倒れた。
ダニエルは息をのんだ。
「……何が起きた?」
ヴィクターが兵士の首元を調べた。
「神経制御装置だ。外部から強制的に命令を実行させたらしい」
リナの声が通信機から響く。
「そんなことが可能なの?」
「可能なんだろうな。現に、目の前で起きた」
ダニエルは倒れた兵士たちを見た。
自分の意思を奪われる。
身体を操られる。
そして、自分自身すら殺させられる。
CODE Ωが完成すれば、世界中の人間が同じ状態になるのか。
「……絶対に完成させない」
ダニエルは立ち上がった。
「先へ進むぞ」
*
地下二階。
研究施設の内部は、異様なほど清潔だった。
白い壁。
無音の自動扉。
天井を走る無数のケーブル。
人の気配はない。
しかし、奥へ進むほど、壁のモニターに表示される数値が増えていった。
『神経同期率――九十九・一パーセント』
『生体認証――適合』
『記憶転写処理――最終調整中』
リナは端末を接続した。
「この施設は、ただの研究所じゃない」
「何をしている?」
「人間の記憶を、別の神経回路へ転写する実験……」
彼女の声が小さくなる。
「そんな技術、まだ理論段階のはずなのに」
ダニエルはモニターを見つめた。
「記憶を別の人間へ移せるってことか?」
「完全に同じ記憶を再現できるかは分からない。でも、記憶データと神経回路の反応パターンを複製することは、理論上可能かもしれない」
ヴィクターが険しい表情を浮かべた。
「第零号は、記憶から再構成されたと言っていたな」
「ええ。それに……」
リナは別の記録を開いた。
画面に、一つの名前が表示された。
ELENA CROSS
その下に、処理記録が並んでいる。
『神経構造保存処理――完了』
『生体活動停止――確認』
『記憶情報の複製――完了』
ダニエルの呼吸が止まった。
「生体活動……停止?」
「これは三年前の記録よ」
リナが震える声で言った。
「エレナ・クロスの身体は、三年前に死亡している。でも、彼女の神経構造と記憶は保存された可能性がある」
「じゃあ、昨日の写真に写っていた母さんは……」
「本人の身体なのか、複製された存在なのか、それとも映像そのものが偽物なのか。まだ分からない」
ダニエルは拳を握りしめた。
生きていると信じたい。
だが、希望にすがれば、また誰かに利用されるかもしれない。
「……第四号を見つけよう」
彼は歩き出した。
*
地下五階。
最奥の隔離区画には、分厚いガラスの向こうに一つの部屋があった。
中央の椅子に、女性が座っている。
長い黒髪。
青い瞳。
リナと同じ顔。
首元には、Ω-004の識別番号。
女性はゆっくりと顔を上げた。
「……来たのね」
リナはガラスに手を当てた。
「あなたは誰?」
女性は、悲しそうに微笑んだ。
「あなたが忘れた、あなた自身よ」
「またそれ?」
リナは首を振った。
「もう曖昧な答えはいらない。私は誰なの?」
女性はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「あなたは、私の記憶をもとに作られた存在」
ダニエルの背筋が凍った。
「……どういう意味だ?」
女性はダニエルを見た。
「私は、リナ・アシュフォードのオリジナル。あなたたちが知っているリナは、私の記憶と神経構造を複製して作られたの」
「そんな……」
リナは後ずさった。
「私は四歳のときから普通に生きてきた。学校にも行ったし、友達もいた。家族だって……」
「その記憶は、あなたの中に本当に存在している」
女性は優しく答えた。
「だから、あなたが生きてきた時間が偽物だとは言わない。でも、あなたがどのように作られたのか。その事実だけは、隠されていた」
リナの目に涙が浮かんだ。
「じゃあ、私は人間じゃないの?」
「違うわ」
女性は即答した。
「あなたが何から作られたとしても、あなたが感じた喜びも、悲しみも、誰かを大切に思う気持ちも、あなた自身のものよ」
リナは唇を震わせた。
「……どうして、私を作ったの?」
女性は答える前に、ダニエルを見た。
「CODE Ωを止めるためよ」
その瞬間、施設全体の照明が赤く変わった。
『警告』
『オリジナルの生体反応を検出』
『母体認証――成立』
『CODE Ω、最終段階へ移行します』
女性の表情が変わった。
「……もう時間がない」
彼女は立ち上がり、ガラスに手を当てた。
「ダニエル。あなたのお母さんは、あなたを救おうとしていた。でも、彼女は最後に一つだけ、間違いを犯した」
「何をした?」
女性は目を閉じた。
「CODE Ωを止めるために、あなたの記憶を封印したの」
「それが、どうして間違いなんだ?」
「あなたの記憶を封印したことで、システムはあなたを完全に制御できなくなった。そして、制御できないあなたを再び覚醒させるために、世界中で計画が動き始めた」
彼女はダニエルを見つめた。
「あなたが記憶を取り戻せば、CODE Ωは完成する」
ダニエルは息をのんだ。
「なら、俺は記憶を取り戻しちゃいけないのか?」
「いいえ」
女性は首を横に振った。
「あなたが記憶を取り戻さなければ、世界は誰かに支配される。取り戻せば、あなた自身が世界を支配する存在になるかもしれない」
彼女の瞳から、涙が一筋流れた。
「だから、選んで。あなたが何者になるのかを」
その瞬間、隔離区画の扉が開いた。
武装兵士たちがなだれ込んでくる。
先頭に立っていたのは、白髪交じりの男。
アレクサンダー・レインだった。
「よく来たな、ダニエル」
彼は銃を構えず、穏やかな笑みを浮かべていた。
「これで、すべての条件がそろった」
ヴィクターが銃を向ける。
「親父。ここで終わりだ」
アレクサンダーは息子を見た。
「ヴィクター。お前は最後まで、何も理解していない」
そして、ダニエルへ視線を戻した。
「ダニエル。君の母親が隠した最後の記憶を、今から返してやろう」
ダニエルの端末が自動的に起動した。
『記憶返還プロトコル――開始』
頭の奥で、何かが砕けるような音がした。
そして、三年前の最後の記憶が、ついに動き始めた。




