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第九話 ざまぁ、完了

第九話 ざまぁ、完了


 東京家庭裁判所。


 灰色の空から細かな雨が降っていた。


 裁判所前の石畳は濡れ、湿った風がスーツの裾を揺らしていく。入口には数人の記者が張り込み、低い声で何かを話していた。


「神崎健一、今日だろ?」

「かなり揉めるらしいぞ」


 真琴はその声を聞きながら、静かに階段を上がった。


 黒のセットアップに、細いシルバーのピアス。短く整えた髪が揺れる。以前のような怯えた空気はもうない。


 隣を歩く九条が小さく言った。


「大丈夫か」


「うん」


「無理すんなよ」


 真琴は少しだけ笑った。


「ここまで来たら、最後までやる」


 九条はそれ以上何も言わなかった。


 調停室前の廊下には、重たい静けさが漂っていた。古い空調の音だけが低く響いている。


 その時。


「……真琴」


 聞き慣れた声。


 健一だった。


 振り返った瞬間、真琴は一瞬だけ息を止めた。


 別人みたいだった。


 頬はこけ、目の下には濃い隈。高級スーツは以前ほど似合って見えない。髪も乱れていた。


 けれど目だけは、まだ傲慢だった。


「久しぶり」


 真琴が静かに言う。


 健一は鼻で笑った。


「ずいぶん派手になったな」


「そう?」


「復讐ごっこ楽しかったか?」


 九条が眉をひそめる。


 だが真琴は冷静だった。


「ごっこじゃないよ」


「お前さぁ」


 健一は苛立ったように近づく。


「調子乗りすぎ」


「……」


「俺の人生めちゃくちゃにしやがって」


 真琴はその顔を見つめた。


 数か月前まで、自分はこの男の機嫌だけで生きていた。


 怒らせないように。


 嫌われないように。


 見捨てられないように。


 でも今は違う。


「健一」


 真琴は静かに言った。


「自分で壊したんだよ」


 健一の顔が歪む。


「は?」


「私は事実を出しただけ」


「お前が黙ってれば済んだ話だろ!」


 廊下へ怒鳴り声が響く。


 周囲の人間が振り返った。


 九条が前へ出ようとするが、真琴は軽く制した。


「まだわかんないんだね」


「なんだと」


「私、ずっと苦しかった」


 真琴の声は静かだった。


「でもあなた、一回も気づかなかった」


 健一は舌打ちした。


「被害者ぶるなよ」


「被害者だよ」


「は?」


「あなたに人生壊された」


 その言葉に、健一が一瞬黙る。


 だがすぐに吐き捨てた。


「大げさなんだよ。専業主婦のくせに」


 その瞬間。


 真琴の中で、何かが完全に終わった。


 調停室へ入る。


 冷たい机。


 無機質な蛍光灯。


 調停委員たちが書類を並べていた。


 健一側の弁護士が咳払いする。


「では、財産分与について――」


「異議があります」


 九条が静かに言った。


 机へ分厚いファイルを置く。


 ドサリ、と重い音が響く。


「こちらをご確認ください」


 健一が顔をしかめる。


「……なんだよ、それ」


 九条は淡々とファイルを開いた。


「不正送金履歴」

「隠し口座一覧」

「改ざん契約書」

「不貞行為証拠写真」

「モラハラ音声データ」


 健一の顔色が変わる。


「なっ……」


 調停委員たちがざわつく。


 九条は続けた。


「さらに、妻名義財産の不正移動記録も確認済みです」


「ち、違う!」


 健一が立ち上がる。


「これは捏造だ!」


「ではこちら」


 九条が音声を再生した。


『お前は寄生虫だろ』


 健一の声。


『俺がいなきゃ生きていけねぇくせに』


 健一の声。


『価値ない女』


 空気が凍る。


 真琴は目を閉じた。


 何度も聞いた言葉。


 夜中。


 食器を洗っている時。


 熱を出した日。


 泣きながら謝った時。


 その全部を思い出す。


 でも不思議と、もう苦しくはなかった。


 調停委員の女性が顔をしかめる。


「これは……かなり悪質ですね」


「違う! あいつが俺をハメたんだ!」


 健一が叫ぶ。


「真琴! お前!」


 真琴はゆっくり顔を上げた。


 その目は静かだった。


「まだ自分が被害者だと思ってるの?」


「っ……!」


「全部、自分でやったんだよ」


 健一は言葉を失う。


 九条が冷静に告げる。


「以上を踏まえ、慰謝料請求及び財産分与割合の再計算を要求します」


 健一側の弁護士が青ざめる。


「神崎さん……これは……」


「うるさい!」


 健一は机を叩いた。


「なんで俺ばっかり!」


「俺ばっかり?」


 真琴が初めて少し笑った。


「ねぇ健一」


 その笑みは、もう昔の“優しい妻”のものじゃない。


「私、五年間ずっと耐えてたんだよ」


 健一の呼吸が乱れる。


 真琴は静かに続けた。


「あなた、私が一人じゃ生きられないって言ったよね?」


 健一の目が揺れる。


 雨音が窓を叩く。


 真琴はゆっくり微笑んだ。


「――残念だったね」


 沈黙。


 誰も声を出せなかった。


 健一の肩が小さく震える。


 その顔には、もう以前の余裕はなかった。


 会社。


 金。


 地位。


 愛人。


 世間体。


 全部失った男の顔だった。


 調停が終わった頃には、外の雨は止んでいた。


 裁判所を出ると、雲の切れ間から薄い陽射しが差している。


 真琴は空を見上げた。


 胸の奥が静かだった。


 復讐を果たしたからではない。


 ようやく、自分を取り戻した気がしたからだ。


 九条が隣へ立つ。


「終わったな」


 真琴は小さく息を吐く。


「……うん」


「これからどうする」


 真琴は少し考えて、それから笑った。


「生きる」


 その言葉は、数か月前よりずっと自由だった。



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